表題の本は、ネットで別の本を検索して出合った。
一般者の書評を読んで興味が湧き、購入しようかとも思ったが、小遣い銭が底をついていたので図書館から借りて読んだ。

著者は柳澤桂子。
1938年生まれ。お茶の水女子大学名誉博士。遺伝学者。お茶の水女子大学理学部卒。ニューヨークのコロンビア大学大学院修了。三菱化成生命科学研究所主任研究員。69年、原因不明の病に倒れる。(巻末の著者履歴から抜粋)

著者は、前途有望な才媛であったが、31歳の時に不治の病に罹り、人生が一変した。
私も、生活環境まで大きく変わることはなかったが、考え、見方は一変した。
死が付かず離れず、いつもそばにあるからだろう。

本は、病、家族、いのち、心、老いの5つの章で構成され、簡潔に書かれている。
どれもこれも、体験した者の言霊であるから読む者の心に響く。
読んで、自然に肯う(うべなう)自分に気付く。

その中から幾つか引用してみる。

「病の章」
気持ちのなかに怒りとか悔しさはなかった。
それは怒り以上の、どうしようもない深い悲しみであった。
人間であることの悲しみ、
人間であることの限界を知る悲しみ。
それは涙も出ないほどの悲しみである。
存在の深淵からにじみ出る悲しみである。

もし、病気をしたことで、
学んだことがあったとすれば、
何の価値もない自分であることを肯い、
何の意味もない人生を生きることを
喜びとすることを学んだことだろう。

「家族の章」
その人が存在したという記憶は、
私の中にしっかりとあるのに、その人はいない。
その悲しみが少しずつ薄れ、淡い光が射してくるころには、
その人の死も丸みを帯びてくる。

おなじ無力な人間となって、
人間の限界に涙するときに、
両方の心のなかに
通い合うものがあるはずである。
そのときにはじめて、苦しむひと、
死に向かい合うひとの孤独を
癒す力があたえられる。

「いのちの章」
一個の受精卵は60兆個の細胞に増え、
人間という小さな宇宙を形成する。
脳が発達して、喜怒哀楽を感じ、考え、学習する。
自意識と無の概念は死へのおそれを生むが、
死への歩みは成熟、完成を経る歩みである。
100年に満たない死への歩みのなかで、
私たちには自分を高める余地が残されている。

「こころの章」
私たちが生まれるときにどのような遺伝子を授かるかは、
誰にもきめることはできません。
障害をもっている人は、私が受け取ったかもしれない障害の遺伝子を、
私に代わって受け取ってくれた人です。
障害をもった人が快適に過ごせるように、
私たちはできるかぎりのことをしなければならないと思うのです。

最後に、「老いの章」から。
人間は偉大なりと誇ることもできるかもしれないが、
私は、生物の進化の速度と人間の技術の進歩の速さに
異常な差のあることに恐怖の念を抱く。
人間が生物である以上、
この差が大きすぎるということは、
かならず大きな問題を引き起こすであろう。

以上、遺伝学者が感じ、観た精神世界とも言えようか。
しかし、科学的に何も難しいことは述べていない。
大自然、神、宇宙、欲、いのちの尊さ、優しさ、愛といった三大聖人が説いたような言葉が並ぶ。
これは死に直面した多くの、原始時代から続く人類共通の、最期に残された人間の真の感性ではないだろうか。
何が大切なものなのか、何を大事にしなければならないものなのか、だから後に聖人と呼ばれるようになった人が命を賭して説き、実践してきたのだろう。
気付くには早ければ早いほどいい、死に直面する遥か以前に。
人間の生きる意味はそこにあり、それに気付いた一人一人の心の力が、やがて自ら招くであろう人類の危機を回避するものと信じて、私は明日も、天照らす陽光を貌に受け、歩む。






53. 日常の狎れ

2010年2月18日 ポエム
ヘッドライトに照らされた路面から
白い布切れが浮かび上がる
布切れは、見る見るうちに眼前に広がり、毛むくじゃらの物体に姿を転じた
瞬時に目が捉えたもの
横たわる白猫、張り立つ黯い血
瞬時に頭を過ぎったもの
土に還すか否か自問の声
車の速度が奇特な思いつきを嗤うように消し去り
気休めに心に取って替わったものは
そのままに
雪融けの、冷たい水が滲みたアスファルトに捨て置けば
遠心力剥き出しの車輪の餌食にならずに済むやもと
安直な変心も
眼前を流れる景色を見過ごすように一瞬にして流れ去る

宅地のいつもの場所に車を乗り入れ
ドアを開け、地面に脚を落としてみると
積もった雪の上に点々と
玄関口に向かう猫の肢跡
我が身がどうなったか自覚もないままに
昇天した白猫の肢跡でもあるまいに
あらぬ疑念を抱きつつ、玄関の扉を開けた
脚を踏み入れた途端
猫のことなど一切合切、背後に放っていた

翌朝、家人がテレビニュースで知った悲惨な交通事故の一端を教えてくれた
家族連れの車と、若者が運転する車が正面衝突
家族の、後部座席に乗っていた年若い母親と幼い息子が即死
軽傷で済んだ若者は逮捕された
不運の一語で済まされることではないが
毎日引き起こされる交通事故の裏側でも
運を左右する人知及ばぬ力が働くものなのか

朝食後、便所に入った
便座に座ると
壁面に画鋲で留めた写真入りの暦が目に付いた
今月に入って毎日目にする何の変哲もない子猫の写真だが
何かをねだるように
前肢の片方を差し出した姿で
翠緑の色濃い沼を切り裂いたかのような
底冷えする子猫の眸を見返しているうちに
昨晩の白猫が思い出された
家人から聞いた交通事故とともに

猫も人間も同じ
事故に遭う

それ以前に
災厄に遭う

川に流され、ゴミ置き場に捨てられ、寺や神社に放置され、烏に啄ばまれ
運が良ければ人に拾われ、命を繋ぐ猫

便槽に落とされ、床下や押入れに遺棄され、虐待され、育児放棄され
運が良ければ施設行きか、里親の元で命を繋ぐ人

これが同じ生きもの

子は、親に葬られるために生を享けたのか
親は、子に殺されるために育ててきたのか
人は、殺し合うために進化してきたのか

轢き殺されたあの白猫は予期せぬものだった

この国の平凡な日常に狎れ果て
無関心に、一瞬の祈りさえ思い起こそうともしない
己に対する
殺人幇助の、問いかけだった



52.因果応報

2010年2月5日 日常
人は、頂点に達した時、得意満面になり、取り巻く華やかな色香に惑わされて迫り来る魔の手が見えにくくなる。
いかに多くの、時代の寵児としてもてはやされた者たちが奈落の底に落ちていったことか。
人間の真価は棺桶に入るその時まで分からない。
否、現世はその一部の露見であり、全ては身体が滅した後に明らかにされる。
それゆえ、魂の浄化として生を享けた浮世は儚く、楽しく、生き切る価値がある。

朝青龍よ、因果応報の矢を受けよ。
木鶏たらん白鵬の、口惜しき涙の滴がその頭骨を穿つまで、首を垂れ、ただ一念叩頭に徹し、白鵬の赦しを乞え。


51.正月

2010年1月9日 日常
仕事上、数年来の付き合いある方が職場に年始の挨拶に訪れた。
雑談の中で、今年は一般家庭の玄関の正月飾りが少なくなった、そんな話があった。
「不況なのは分かるが、それで節約の意味で飾らないのは寂しいね」
そう言われてみれば、車のフロントに正月飾りをしていたのも昔の光景になってしまったと今更ながら気付いた。
本来、車に必要なものなのかどうかはさておき。
お節や餅喰って、酒呑んで、テレビ観て、ごろ寝して、それだけが正月ではないのは誰もが承知のはず。
歳神様のお迎えと祖先の供養が主で、そのおこぼれで俗世の人間が餅や酒を口にする。
それを呑み込んでいればたかだか数百円の正月飾りを節約するのもどうだろう。
アパート、マンション等の住宅事情や、一人暮らしなどの家庭事情もあるので一概に批判めいたことは言えないが。
挨拶に来られたその方は社会の第一線から退き、区長の立場にもある。
町内会を歩き、一戸建ての家々を見てそう感じたのだろう。
年賀状の売れ行きも良くなかった、そんな話もあった。
求人率の落ち込みや景気好転の兆しが見えない中で、特に若年層ではメールの広がりもあり、ひと手間で金もかかる年賀状は敬遠されているのだろう。
日頃付き合いのない方との年賀状のやり取りは、お互いが生きているかどうかの近況報告だけのようで寂しくもあり釈然としないが、届けば届いたで郵便のアナログ的なぬくもりが感じられる楽しみも、ないでもない。
ただ、印刷だけの文字、一文も肉筆が添えられていない賀状を見ると興醒めさせられ、来年は出すのを止めようかとも受け手に思わせる。
呆れたのは、いい歳をした中学校時代の同級生がゴテゴテしたイラストを付けてメールで携帯に年賀の挨拶を送ってきたこと。
相手にもよるが、それに付き合うほど無邪気な質ではないので黙殺した。

「不況だからと言って節約する対象が違うだろう。
そうやって大事な心を削っていく。
見えないもの、だからこそ大切なのに、それを喪っていく。
それを教える年寄り、家族がいなくなった。」
と、それでその方との話を終えた。
年頭の午前中からこんな会話ができるとは思っていなかった。
会津の、身近なところに、こんな話をしてくれる人生の先輩が一人でもいてくれたことが有り難かった。

50.zakkan

2009年12月29日 日常 コメント (2)
久しぶりの日記更新。
50回目の節目ということでそれ相当の主題を決めてパソコンを前にしたものの、なかなか文がまとまらず、今日に至ってしまった。
このまま年を越すのも癪に障るので、それ相当の主題は打っちゃって思うがままに記すことにした。

今朝、自宅でのんびり、かりんとうをポリポリ噛んでコーヒーを啜っていたら携帯が鳴った。
掛けてきたのは企画会社の社長。
年明け早々に納期予定の印刷物校正の依頼だった。
10時に職場で待ち合わせ、10分程度で校正は終わった。
思いの外、時間が出来たので今この時がある。

今年の10月以降は穏やかな日々だった。
感慨深げに言うことでもないが、ここ2、3年前と比べるとそう感じてしまう。
心に働きかける何かが、自分に入り込み、変化をもたらしたのだろう。
外的要因が自分を創り上げている。
自ら伝える言葉に、自らの考えに、行動に、為し得たことに、失敗に、それら大半を自らが判別、判断した結果だと思っているが、そうではない。
両親、生活環境、体験、先人の智慧や教訓、事件等、それら外的要因がその人間の内部で咀嚼され、そうして生み出された、その過程を振り返りもせずに自分の考えとして解釈している。
それを指して、他人の受け売りと嗤う人間もいる。
上辺だけの受け売りで苦笑せざるを得ない場合もあるが、良くも悪くも向上心のない人間は外的要因をただ眺めるだけで咀嚼することのない、実体のない人間である、と断定させていただく。

現在の人間界は平等、平和ではない。
政治経済は混沌とし、唯物思想で育った人間には安心立命がない。
憲法、法律、約束事、最先端機器など人間が積み上げた塀に自ら囲われている。

精神世界を生きた人間の言葉は時代を超える。
老子の言葉を見よ。
昔は、仁や義、道徳を説く言葉、そんなものは必要はなかった。
ただ大きい道があっただけ。
無為自然から離れるに従い、慾が増え、煩悩に苦しむようになった。
紀元前から説かれていることが今も繰り返されている。
古人の言葉を咀嚼し現代を眺めると、不安が消える。

科学万能社会、さようなら。
ようこそ、玄妙なる精神世界。

さて、そろそろ昼飯でも喰おう。
世界人類が調和と秩序を以て平和に暮らせますように。
皆さん、良いお年を。

 「人生の目的は、好きなことを堪能するほどやり抜き、素晴らしい、面白い、愉快な愉快な一生を送り、しかも総ての人々に永く永く喜ばれ、感謝されることである。」

 昨年末の北川八郎氏の講演を機に二人の人物を知り得た。
 北川氏の著書、というよりは講話録の「繁栄の法則」「断食の本」「心の力」からマクロビオティックの久司道夫氏を知り、そして久司氏の師である桜沢如一氏に辿り着いた。
 冒頭の言葉は、桜沢氏の著書「新食養療法」で述べられた幸福の定義である。前半だけ読めば利己的に生きる能天気な阿呆だが、後半の一文でそれが一転する。
 数ある桜沢氏の著書の中から最初に手にした「宇宙の秩序」には、真顔で人に尋ねたら疑りの眼で見られるであろう以前からもやもやと抱いていた事柄、それらを一息で吹き飛ばすかのような同氏独自の哲学的思想が雄弁な文章で語られていた。

 宇宙は、無限に果てなく、どこまでも闇の世界を有しているのか。
 地球の誕生は何故…。
 人類が、海の微生物から進化したとしてもその微生物の始まり、その根元は何物だったのか。
 植物の種子は、何故水を吸うと根を出し、陽の光を受けると緑の茎、葉を伸ばすのか。
 植物は、何故土から得た養分を別の物質に変換することができるのか。
 植物は、何故二酸化炭素を吸収して酸素を放出できるのか。
 言葉を持たない蟻は、何故一糸乱れることなく団体行動が可能なのか。
 蜘蛛は、体内から糸を紡ぎ、何故幾何学模様の巣を編み出すことができるのか。
 鮭は、羅針盤なくして何故大海から母なる一つの河へ辿り着くことができるのか。
 渡り鳥も鮭同様、何故大海原を過たずに、決まった時節に、決まった地に飛来することができるのか。
 雀は、厳冬であろうとも冬仕立ての毛皮を特別に羽織ることなく、毎朝の如く、何故楽しそうに囀ることができるのか。
 熊は、何故数ヶ月もの冬期に亘り、絶食状況下で眠りに徹して生き永らえることができるのか。
 人間の言葉と文字は何故生まれたのか。
 古人は、何故自然を畏れ、敬ったのか。
 古人は、祭祀、年中行事、風俗、習慣を何故大切に受け継いだのか。
 科学の最先端を走る現代でさえも遥かに及ばぬ土木建築技術、芸術、武術、漢方学、思想、文化が何故古人の間に生じたのか。
 何故人間だけが諸々の慾に溺れるのか。
 何故人間だけが大便を排泄して尻穴を拭うようになってしまったのか。
 何故人間だけが奇怪な感情に左右されて同じ人間を殺し、ましてや何故親が子を、子が親を、兄弟を、血縁者を殺すのか。
 人間は、何故戦争を繰り返すのか。
 人間の存在に意味はあるのか。
 太陽が昇り沈み、月が満ち欠け、春の次には夏が、そして秋、冬と続く揺るぎなき季節の流れ、その流れに従う自然界の生物、それに反する人間、何故…。

 漫画好きのセメント会社の社長で、有限界では偉いとされる人物が、“みぞおゆう”と読んだ未曾有の世界的大不況。
 人間を何か特別の存在と勘違いし、自然との共存なしに便利さを追い求め、情報の波に溺れては最新機器の開発を競い、使い捨ての消費を煽り、利を最優先した結果、不様な状況を招いた。
 ものの使い捨てが人の使い捨てを招いたのだ。
 不況がどん底に行き着けばいずれ上向きになるだけだが、先行き不透明な現在、それまで辛抱できない企業はこれからもバタバタと倒れていくだろう。
 不況が回復したとしても、この不況に学び、気付き、アスファルトを引っくり返し、原油や電気の供給、車の生産を必要最低限に留め、食を見直し、昔の生活を、精神を取り戻そうとする人間がどれだけ現れるだろうか。
 現在の資本主義社会を根本から改めない限り、景気の大きな波は何度も世界を襲い、その度に右往左往しては不幸な人間を生み落とす、その繰り返し。

 「なにごとの おわしますかは知らねども かたじけなさに 涙こぼるる」
 日本人よ、西行の感性を知れ。

 北川氏も言う。
 「快適さ、便利さ、裕福さ、速さを求めるばかりが、人生を豊かに、幸せにするものではないのに」と。
 一時の利に目が眩み、たとえそれを手にしたとしてもそれも一時。
 人の一生は短く、死ぬる時、手にした金、財産は彼の世に伴うことはできない。
 持ち得ることができるのは生前、人に与えた喜び、哀しみ、憎しみだけとか。
 ならば、できるだけ多くの人に喜ばれ、感謝されたい。
 それこそが最高の人生である。
 これは冒頭の桜沢氏の言葉にも通じる。

 無限と有限、遠心力と求心力、拡散と収縮、月と太陽、宇宙と地球、天と地、生と死、明と暗、動物と植物、男と女、肉体と精神、白人と有色人、健康と病気、動脈と静脈、赤血球と白血球、五臓と六腑、頭と手足、左と右、善と悪、愛と憎しみ、幸せと不幸、緊張と弛緩、赤外線と紫外線、南半球と北半球、東洋と西洋、寒さと暑さ、喜怒哀楽、栄枯盛衰、始まり終わり…。
  
 形あるものは必ず亡ぶ。
 生は死の始まり、死は生の終わり。
 表裏一体。
 陰極まれば陽を生じ、陽極まれば陰を生ず。
 桜沢氏が唱える無双原理とは、宇宙が、対応、交感、相補、親和性の陰陽秩序の構成を有することを示す世界観をいう。

 僅かばかりの空気の層に囲まれた地球の存在は宇宙の奇跡であり、その奇跡の星で生を営むことができる生物もまた奇跡の中の奇跡。
 今を生きる誰もが、世界人口66億人の分の、数字上の一つではない。
 過去にも未来にも、現在の自分と同じ人間は決して存在しない。
 
 私は、北川氏から怒りの消失を、久司氏から食の基が穀物であることを、桜沢氏からは宇宙の原理と此の世が楽園であることを教えてもらった。
 まだ漠然とした心持ちではあるが、明治時代に始まった急速な西欧化によって現実だけが真実として有限の実体験のみを信じ、それ以上探ることの無意味さを知らず知らずに刷り込まれた脳とは別に、身体のどこか深層に置きっ放しにしてあった数々の問いを解く鍵が生物の根源である食にあることを、己れの行動を静かに見詰めるもう一人の形なき自分が確かに感じ取ったことだけは間違いないようである。


48. person to person

2008年12月24日 日常
 10日の晩はいつもの時間より遅くまで起きていた。
 最近、21時以降は寝るか本を読むか、どちらかだ。
 面白いと思ってテレビを観ることも少なくなった。
 私たちが生きる現代の聖人を取り上げた番組だから、しょぼしょぼする眼を何とかこじ開けてその時刻を待っていた。

 本名アグネス・ゴンジャ・ボヤジュは1910年8月生まれ、今は亡き人である。
 
 日本とは違い、陸続きになっている諸外国では昔から民族独立の戦いに明け暮れていた。アグネスが生まれたコソボ・ウシュクブ(現マケドニアの首都スコピエ)も一足早く独立を果たした周辺諸国の脅威に曝され、1912年からのバルカン戦争によって分割統治された。この戦争が後のコソボ紛争の要因とも言われ、現在もコソボは国として危うい不安要素を抱えている。

 カトリック教徒の家庭に生まれたアグネスは、一部の権力者が引き起こす戦争によって殺され、貧しい生活に追い込まれた民衆に幼い頃から同情の哀しい目を向けていたのだろうか、12歳の時にはすでに修道女としてインド(当時はイギリスの殖民地)で働く意志を抱いていた。18歳になると母親を説得して、インドのベンガル地方で宣教活動をしていたロレット修道会(本部地アイルランドのタブリン)に入会、念願のインドに赴任するとカルカッタ(現コルタカ)の聖マリア女学校で地理、歴史、カトリック教理を教えた。34歳の時には校長に任命されている。

 順風満帆に思えた教師生活だったが、カルカッタの街々の路上には誰からも振り返られずに虫の息で横たわる老人や病人が汚物のように置き去りにされ、貧しい子供等は教育という教育を知らずにひたすら飢えに耐え、ただ生きるために澄んだ瞳を保っていた。その情景がアグネスの胸には常に鋭利な矢となって突き刺さっていた。

 ― 参 考 ―
 インド国民の8億以上はヒンドゥー教徒と言われ、ヒンドゥー教には悪しき身分差別のカースト制度がある。カースト制度には4つの身分があり、その中で身分が一番低い者をシュードラと呼ぶ。先住民でありながら支配される立場の人々、奴隷とも翻訳される。それ以外に制度外で生きる人々はアチュート(不可触賤民)と呼ばれ、社会から分離されてきた。1950年には憲法で禁止されたが、紀元前から歴史を持つ忌まわしい制度は完全に拭い去ることはできず、現在でも下級カーストから生まれた子供たちは重労働や売春を強要され、ストリートチルドレンを生み出す社会問題となっている。

 外界に目を背け、安全な修道院内で裕福な上流階級の子女に愛を説く、そこに真の愛があろうか。

 1946年9月10日、ダージリンに向かう列車の車窓から流れていく風景を眺めていた時、突如、アグネスの耳に“内なる声”が届いた。

「最も貧しい人の間で働くように」

 アグネスに迷いはなかった。その声に従い、修道院を離れて活動する許可を大司教に求めるが、当時のカトリック教会法典第601条(1)、「あらゆる隠修道女は、立願後は聖座の特典がない限り、短期間であっても口実の如何を問わず、修道院から出てはならない。但し、死の危険、またはその他の極度の悪の危険が切迫した場合を除く。」を理由に許可が下りなかった。アグネスは信じる道に従い、許可を願う手紙を黙々と書き続けた。

(大司教宛の手紙の要約)
「貧しい人達を助けたい、という欲求が、私の心をずっと満たしています。それは日に日に強く、はっきりとしてきています。」

 内なる声を聞いた2年後、ようやく修道院外活動の特別許可を得た。

 アグネスは修道服を脱ぎ、インド女性の民族衣装である質素なサリー、それはシルク製が多い中でも一番低価な木綿製で身を包んだ。最初に飛び込んだのは修道院近くのスラム地区だった。小枝を白墨変わりに、地面を黒板にして貧しい子供たちに言葉を教えるのが活動の始まりだった。彼女の噂を聞きつけ、やがて聖マリア女学校時代の教え子たちが一人二人と協力してくれるようになった。僅かな所持金しか持たなかったアグネスは自ら托鉢して食糧や薬品などを集めた。

 1950年、「神の愛の宣教者会」(修道会)設立。
 1952年、「死にゆく貧しい人の家」(ホスピス施設)設立。
 1955年、「子どもの家」設立。

 骨と皮だけの、カゲロウの生命を想わせるような瞬き(まばたき)を重そうにゆっくり繰り返すだけの、人間の表情を失くした人々の手を優しく握り、最期の時を各人の宗教に副って看取った。極度の貧困や両親の病気などによって育てることができない子供や孤児を預かり、育てた。

(「死にゆく貧しい人の家」の理念についてアグネスが語った言葉)
「誰からも見捨てられてしまった人々が最期は大切にされ、愛されていると感じながら亡くなってほしい。彼らがそれまで味わえなかった愛を、最上の形で与えてあげたい。」

 アグネスの活動に伴い、彼女の知名度が高くなると世界中から義援金や物資が届くようになった。個人からの寄付金は有り難く受け取ったが、国からの定期的な援助金は断り続けた。援助金を受けるとその事務処理のために、貧しい人々の救済活動に専念する修道女の貴重な時間が割かれてしまうと懸念したアグネスの考えによるものだった。

 「神の愛の宣教者会」は、当時の教会法により創設されてから10年間は活動場所がカルカッタに限られていたが、1959年、この制度は撤廃され、その後、アグネスの活動は全インドに広がっていった。1965年には教皇パウロ6世直轄の組織として認可され、インド国外での活動が可能になり、世界中に支部を開設することになった。

 全世界の貧しい人々のために活動する彼女には多くの賞が与えられるようになった。

 主よ
 あなたの平和をもたらす道具として
 私をお使いください
 憎しみのあるところには
 愛を
 争いのあるところには
 許しを
 分裂のあるところには
 一致を
 誤りのあるところには
 真理を
 疑いのあるところには
 信仰を
 絶望のあるところには
 希望を
 暗闇には
 光を
 悲しみのあるところには
 喜びをもたらす者としてお使いください
 慰められるよりも
 慰めることを
 理解されるよりも
 理解することを
 愛されるよりも
 愛することを求める心をお与えください
 忘れることによって自分を見出し
 許すことによって許され
 自分を捨てて
 死に永遠の命をいただくのですから

 これは、アグネスがノーベル平和賞受賞した際、スピーチの前に唱えた“聖フランシスコの平和の祈り”の言葉である。
  
 アグネス・ゴンジャ・ボヤジュとは、マザー・テレサ、その人である。

 テレビ番組の後半にマスコミ関係者から質問を受け、それに答えるマザーの顔が映し出された。
「あなたのしていることは確かに素晴らしいけど、もっと大掛かりで現実的なやり方があるのではないか」

 いつものマザーの哀しみ湛えた表情は消え、厳峻な相貌で相手を見据え、口を開いた。
「私は大仕掛けのやり方には反対です。大切なのは一人一人の個人。愛を伝えるには一人の個人として相手に接しなければなりません。多くの数が揃うのを待っていては数の中に道を見失い、一人のために愛と尊敬を伝えることはできないでしょう。“一人一人の触れ合い”、それこそが何よりも大事なのです。」

 英語で語るマザーの肉声、その一節が心に響いた。

 I believe in person to person…
 person to person…
 一人一人…

 歩む道は違っても、事の大きさに違いがあろうとも、良心を信じて生きている人々の精神の根っこは小さな愛で繋がっている。

 身近なところから、出来ることから、小さなことから。

 マザーが87歳で亡くなった時、「神の愛の宣教者会」の従事者は4,000名を数え、123国610箇所のホスピス施設、HIV患者の家、ハンセン病者の施設、炊き出し施設、児童養護施設、学校などで活動していたという。

 ウィキペディアに載っていたマザーの言葉。出典基は不明だが、現代社会の闇夜を灯す言葉と思い、ここに紹介して下手な日記を終わりたい。

「私は、なぜ男性と女性が全く同じであると考え、男女の間の素晴らしい違いを否定する人たちがいるのか、理解できません。」

「女性特有の愛の力は、母親になったときに最も顕著に現れ、神様が女性に与えた最高の贈り物、それが母性なのです。」

「子供たちが愛することと、祈ることを学ぶのに最も相応しい場が家庭であり、家庭で父母の姿から学ぶのです。家庭が崩壊したり、不和になったりすれば、多くの子供は愛と祈りを知らずに育ちます。家庭崩壊が進んだ国は、やがて多くの困難な問題を抱えることになるでしょう。」

※参考資料
 ■NHK「その時歴史が動いた」12月10日 (水) 放送 
  第345回「一人、そしてまた一人  -マザー・テレサ 平和に捧げた生涯-」
 ■フリー百科事典「ウィキペディア」


 岩子一人歩む先に横たわっていたのは、日本全土を東西二分する同民族の戦いだった。
 
 西郷勇左衛門に伴って金澤に赴いていた岩子の長男祐三が、京都の風雲急を告げる事態に速駕(はやかご)を使い、旅先から帰途に着いたのは慶応四年の正月。岩子は祐三から鳥羽伏見の戦い、会桑(会津藩と桑名藩)二藩が薩摩藩、長州藩と対戦中であることを知らされる。
 
 この戦いは官軍、賊軍の色分けなど糞の役にも立たぬ、薩長二藩と朝廷を弄する公家の首魁、岩倉具視らが組み、狡猾に仕掛けた権力闘争の罠だった。これが後に薩長藩閥の横行となり、軍閥政治を引き起こし、第二次世界大戦敗戦で崩壊、それと同じ歩みで日本の古き文化、心も衰退していった。
 
 鳥羽伏見の戦いに端を発した戊辰戦争は、やがて最新銃器を手にした薩長の爪牙の矛先を会津に向けさせ、会津戦争に及んだ。8月23日(旧暦、現在では10月上旬頃)には会津最後の要である十六橋が西軍の板垣退助隊に突破され、会津城下は火の海に包まれた。会津藩は朝敵の汚名を濯ぐべく徹底抗戦の構えを崩さず、史上最後の籠城戦に突入した。
 
 岩子はこの頃、喜多方に居たが、若松の危急に居たたまれずに塩川に足を延ばし、そこで入城準備をしていた会津軍と出会い、隊の後尾に付いて神指の高久まで来た。戦況の話を伝え聞くうち、男装して薙刀を手に敵軍に進撃した女軍の勇ましい戦いぶりを耳にし、彼女らの仮宿所を訪ねた。彼女らの衣服は血潮に染まり、薙刀には生々しく血がこびりついていた。女軍の神保雪子、中野小竹(竹子)は敵の弾丸に打ち抜かれ、小竹の母は敵に首を捕られる前に我が手で娘の首を掻き落とし、次女の阿優(優子)とその首を葬った。壮絶な戦いを物語る凄惨な姿だった。仆(たお)れた竹子の薙刀には短冊が結び付けられていた。

 武士(もののふ)の猛き(たけき)心にくらぶれば
                 数にも入らぬ(いらぬ)我身ながらも

 彼女らは、会津藩家老、萱野権兵衛に説諭され喜多方に避難することになった。愚かな大儀で引き起こされた戦争によって殺され、疵付き、離れ離れになって逃げ惑う無辜(むこ)の民を目撃した岩子も我が家に戻った。
 
 秋荒城の月皎々(こうこう)として白骨寒く
 原野寥々(りゅうりゅう)深樹(しんじゅ)梟(ふくろう)鳴く

 これは戊辰戦後の若松を嘆じた一節である。

 家名を汚さんために自刃した家族も多かった。会津藩婦女子の辞世の句を幾つか挙げる。
 八十里越えに出陣した沼澤出雲15歳の祖母貞子、母道子、娘姉妹、自害。
 
 貞子
 武士(もののふ)の かねて覚悟の 梓(あずさ)弓
              引いてかへらね 今日となりぬる

 道子
 諸共(もろとも)に 死なん命も 親と子の
              たた一筋の まことなりけり
 
 姉娘
 敵(あだ)の手に かからむよりは 勇ましく
              死ぬも我身の 花とこそ知れ

 妹娘
 浮世には 残す思いも なかりけり
              かねて覚悟の 今日にぞありける

 家老、西郷頼母の妻千恵子、辞世の句を記した後、8歳、4歳、2歳の我が子を手に掛け自害、そればかりでなく頼母の母、妹ら親族合わせて21人もが西郷邸で自害するに及んだ。

 千恵子
 なよ竹の 風にまかする 身なからも
            撓(たわ)まぬ節の ありとこそ聞け

 頼母の妹
 武士(もののふ)の 道と聞きしを たよりにて
            思ひ立ちぬる 黄泉(よみ)の旅かな

 会津戦争から逃げ延びた家中の子供らの多くは、喜多方の農家に預けられることになったが、現状に甘んじては土百姓の業(わざ)を身につけるのみと案じた岩子は、士分としての教育を受けさせ、亡き父親、兄らの遺志を継がせようと幼学所の設立に向けて動き出した。幼学所の敷地と教授は確保したものの、戦後設けられた民政局の認可がなければ運営することはできない。民政局では賊軍の子弟教育を容易に聞き入れるわけにはいかなかった。そこへまた新たな問題が生じた。各所に謹慎していた旧藩士は東京及び越後高田にお預けとなり、幼学所の教授となる浅岡源三郎も東京に謹慎を命ぜられてしまったのだ。
 
 岩子は祐三を浅岡の代わりに東京に謹慎させたいと、その上で幼学所設立を願い出たが許されるものではなかった。己れ一人行く道を定めた岩子に迷いはなかった。命を賭した願いを祐三に託した。祐三の至誠を込めた嘆願は民政局長の琴線を震わせ、遂に幼学所設立が聞き入れられた。
 
 祐三の言葉に、民政局長は岩子の命の覚悟を見たのである。

 「此頃からの願(ねがひ)の旨はお前も知っての通り。あの子供等を見ろ、見習う處は百姓同様。悪者と一處になり盗み迄するといふ浅はかな考(かんがえ)。これといふのも人の道を知らないからだ。どうか、あの子供等に学問をさせてあげたいと思うて、学校を立てることを御願したが御許しがない。それに浅岡様まで東京に謹慎を命ぜられたので、お前を名代にとお願をすればこれも許されぬ。此上は致し方はない。お前も白虎隊の一人として出た。越後口で討死した二十人の一人と思ひ、命にかけて家中の子供の浅墓な仕様模様をよつく述べてお願いして見ろ。道理のあることを許さぬといふ筈はない。お許しがなかったら、お前は御役人の前で切腹してくれろ。それで私は満足する。」

 仕事に関連して講演会には何度か足を運んでいるが、自ら臨むよりも人数集めのサクラとして狩り出されることの方が多い。中には講演内容に期するものもあったが、実際聴いてみれば薄っぺらな中身のない話や自慢話の類に辟易し、無為に時間を潰したと嘆くことが多かった。
 
 他人事に言えたものではないが、講演会の主催者が潤沢な予算の消化、あるいは補助金の使い道の一つとして開催容易な講演会に飛び付き、その場凌ぎの体裁的な運び方が空しい中身を生み出しているようでもある。
 
 最近、印象に残った講演会と言えば、仕事関係の知人の依頼で裏方として手伝った折に聴く機会に恵まれた、俳優、菅原文太氏の慧日寺の德一(とくいつ)に関してのものだった。菅原氏が会津を訪れるきっかけとなったのは恐らくはNHK大河ドラマ「獅子の時代」に会津藩士、平沼銑次の役として主演したことによるだろう。菅原氏は、湯川村の勝常寺本堂内に鎮座する国宝の薬師如来坐像、月光菩薩立像、日光菩薩立像よりも、伊達政宗軍が会津に攻め入った時にその異様な存在感に伊達兵が思わず刃を振り下ろして疵付けた德一坐像に魅せられたとか。数度会津を訪れている。流暢な語り口ではないが人柄溢れた訥々とした話しぶりで、毎朝、磐梯山に掌を合わせては今日一日の営みに感謝して止まない猪苗代の五十軒に住む八十歳代の古老に德一の姿を重ね、磐梯山を「ばんでぇいやま」と方言を交えて独自の会津観を披瀝した。多くの聴衆を前にして、並の講師なら語りの間が空くのを恐れ矢継ぎ早に話すものを、会場が静まり返って聴衆の痛いほどの視線が集まろうとも平然と受け流し、演台の廻りをゆっくり歩きながら、演台に凭れながらして自分の間で話す姿に、仕事柄とは言え菅原氏を包む気の艶やかさにぐいぐい惹きこまれていった。菅原氏75歳、老いてなお華やけり。
 
 今回は職場内の回覧資料に紛れ込んでいたチラシに誘われた。創業意欲溢れる者、現に創業して歩み始めている者を対象とした数度に及ぶ講演内容で、チラシには講師陣の顔写真が載っていた。写真を見ると一人だけ金が纏わりつく“商い”とは無縁のような陶芸家、北川八郎氏が紹介されていた。北川氏の演題は「繁栄の法則」。私は、銭儲けは嫌いになっていたので、講演趣旨にそぐわない陶芸家がどんな話をするのか気になり、自分の偏屈な心眼を試すのも一興、講師の化けの皮を剥いでやろうと不純な動機で聴講を申し込んだ。
 
 講演会当日、会場には15分前に着いた。会場内には私の他に3、4人の聴講者の姿があった。テーブルに置かれた講演資料を捲った。
 
北川八郎氏プロフィール
 1944年福岡県北九州市生まれ。インドを放浪後、‘84熊本県阿蘇山中の南小国町満願寺温泉にて穴窯を筑窯。トマト灰釉など自然灰釉の器を創作する一方、自然農業に親しむ。40日を超える断食(水のみ)を二度敢行する中で、魂の存在意義、生き方の法則を解悟する。競い合うことよりも“頒ち合い”と“やさしさ”を大切に生活。「成功ばかり、一番ばかり、失敗の少ない人生だけが素敵でないのに…。心には力があり、心に想うことが実現してゆくのです。」と今を生きる人々へ静かに語りかける。
 
 他の資料にも目を通し、再度、講師プロフィールに目を戻した時、私の脇を主催者らしき背広姿の男性に導かれて、ほぼ総白髪の長い髪を後頭部に蜜柑一つ乗せたように丸く束ね、上半身には作務衣を羽織り、下半身はスラックスに革靴の出で立ちをした人物が力ない足取りで細身の身体を運び、行き過ぎた。その後ろ姿を眺め、この人物が講師と判然した。会場係のスタッフと短い会話をやりとりした後、二人は会場から出て行った。
 
 100名前後の聴講者を前にして北川氏の講演会が始まった。後方に座っていたせいもあるが、北川氏の声はマイクを通してもその足取りと同じように弱く、集中して聴こうとする意志がなければ耳に届かない声音だった。講演前に会場に現れた時のように、演台の前に立つ北川氏は暗愚の人と錯覚するほどに、もの静かな気を纏っていた。

「最近、学力で生きてきた(東大卒、京大卒などの)人間に鬱が多いですね。抜け目のない仕事相手、言うことを聞かない部下などの対人関係に悩みを抱えています。」

「倒産する会社(経営者)には次の三つが当て嵌まります。①社員を使い捨てにしている。②数字、金(金儲け)が好き。③都合の悪い事を人のせいにする。」

「今の人は叱り方が下手。他のところでもそう話したらうまい叱り方はないのかと訊かれましたのでこう答えました。叱る相手に好意があるかどうか、人間が好きかどうか、人間関係がうまく出来ているかどうか。」

「JRの鉄道事故が減らない理由は、人間関係(上司、部下)の希薄さ、対人関係に問題があります。数字、ノルマを課せられると余裕がなくなります。始めにハウツーではありません。」

「心に力がある例として、商店Aは、予想以上の売上げから地域の皆さんに還元したいと日頃の感謝の気持ちを込めて全品半額セールを催しました。それがまた評判を得ました。通常の半額セールといえば在庫一掃や売れない商品をセットにして売るとか感謝の気持ちに濁りがあります。お客さんはそれに敏感に反応します。お店を信用しなくなります。商店Aは嘘のないセールを行ったからお客さんが集まったのです。」

「信こそ此の世の貨幣、決心よりも小悟(揺るぎない心)の想いで物事にあたることです。先に利益を求めるのではありません。現在も毎日のように食品偽装とか報道されていますが、信を失った会社は幾つも潰れています。心を学ばないでハウツーを幾ら学んでも誤魔化しは消せません。」

「断食は、春から徐々に行い、そうやって秋までで水だけで生活します。そうした状況に置かれていると、人は何のために、何を果たすために生まれてきたのか、その意味を知るようになりました。こんな事を話すと何かの宗教かと思われそうですがそうではありません。人は、限られた“時間(とき)”と契約して生まれてきたのです。この世には法則があります。人は30代、40代に達せばその事に気付かなければなりません。」

「此の世のあらゆるものに人は介在します。」

「最小の経費で最大の利益を上げろ、人に負けないように頑張れ、これをモットーに社員教育していた会社がありました。無理が生じればその言葉には嘘があります。経営者は気付いたんでしょうね。家族サービスして身体を休めるようにと相手を想い言葉を掛けるようになったら、社員の視界が広がり、会社体質、業績が良くなりました。」

「人の法則 ― 宿題を背負い、その使命を果たすために。人として生き、人として為し、感謝の気持ちを持つこと。相手への感謝は自分に返ってきます。調和を保つことです。」

「私は楽園に生まれたと思っています。日本の四季の美しさは他の国にはありません。楽しいと思わないのは自分がそれを薄めているからです。病になるのも調和が保たれていないから。最終的には病に罹ります。ストレスが溜まると皆さんは旨い物を食べたいと思いませんか。旨い物は何ですか。値段が高い料理、肉料理ですね。これには脂が多く含まれています。脂を多く摂り続けるとやがて身体を壊します。私は肉を食べません。」

「心、対人関係、健康、これらは繋がっています。慾が人生を歪めます。怒りは棄てる、なくすべきです。怒りを持つと相手の心が読めなくなり、視界が狭められます。100日間怒りを抱えないように実行してみてください。それでも変わらない時は自分で考えなさい。」

「ある競輪選手が成績が伸びないので相談に来ました。その選手は、肉食中心の食事を止めて植物性の蛋白質を摂るようになったら逆に筋肉が付き始めました。いい仕事、いい走りをしようと思ったら周囲が見えるようになりました。相手に接触して狡い勝ち方をしなくなったらコース妨害もなくなり、勝てる上に対人関係(他の選手との)も良くなりました。」

「日本人の貯蓄率が高いのは将来に不安があるからです。皆さんは、いってらっしゃい、その後に何と言いますか。気を付けてね、と言いますね。それを聞いて、はっ、とします。心が憑いた言葉は言霊とも言いますが、心には力があり、気を付けて、この言葉には気を引き締めていないと事故に遭うという不安を煽る力があります。」

「神戸にある人気ナンバーワンの菓子店の話です。このお店は、出店数を伸ばし、販路を広げるよりも、“量より質”と小さなお店一つを大事にして営業しています。お客さんの喜びを追求するのが夢だそうです。動機に純粋性があります。」

「良き対人関係を築くことです。此の世から嫌な人をなくすことです。会社は人格を創る場です。此の世は思い通りにいかないからこそ学べるのです。それを乗り越えた時、喜びが生まれます。相手に投げた言葉は自分に返ってきます。自分の言葉を、一番近くで自分の耳が聴いています。いい言葉で励まし、優しい言葉を相手に掛けてください。嘘のない人生を送ってください。」

「幕末の会津を大抵の日本人は知っています。会津人の誠実さを知っています。いかに見映えを良くしても、それがなくなれば会津はいずれ見捨てられてしまうでしょう。」

 講演会終了後、北川氏の書を購入しようかと会場出入口を覗いてみたが、書籍の販売はしていなかった。
 
 講演会を餌に書籍販売で少しでも利を得ようとするのが、一般的な、人のさがない慾と呑み込んでいたが、北川氏にはその慾がなかったようである。主催者側で働きかけをしなかったのかどうか、たとえあったにしても心ある北川氏なら柳に風とあっさり受け流して断っていたのではないか。
 
 己の心の縁(よすが)になるものか、北川氏の真意を、天空から小動物を見極める猛禽類の眼で見定めてみたい。ネットで注文した書が届くのを、口をへの字に結び、剣呑とした眼つきの仮面の下から、親の帰りを今か今かと漫ろ(そぞろ)心で待つ幼子の素の顔を浮かばせて無垢に切望する私だった。






45.餞に

2008年10月28日 日常
あらゆる人種の、あらゆる情念が犇(ひしめ)く不可解な世界でお知り合いになれたのも何かの縁でしょう。
私の愚かしい文章のどこかに引っかかりを覚えられたから感想を寄せていただいたと思います。
私は楽しいだけの人生で逝きたくありません。
ましてや、強いて薄幸の歩みもしたくありません。
享楽に伴う幸福感は打揚げ花火のようなもので、その後は虚無感という暗闇が忍び寄ります。
本統の幸せとは苦しさの中から生まれ出で、それはその人を支え、いつまでも忘れ難いものとして有り続けることでしょう。
誰もが表層に漂う儚き一生ですが、蝶が蝶であるように、鳥が鳥であるように、己の心に感じたままを受け入れ、肯定も否定もせず、愚昧な天上天下唯我独尊の存在でありたいと私は願っています。

中村天風は藤平光一氏の著で改めて知りました。
私の興をそそる人物の一人に、安政2年(1855)に生まれ、明治から昭和初期にかけて日本の黒幕的存在として血気盛んな憂国の士を束ねていた玄洋社代表の頭山満がいます。
頭山は国家主義者、今でいう右翼の生みの親で、頭山の並外れた度量の大きさに多くの人間が魅了されています。
中村は若かりし頃、頭山と莫逆の友となり、その後、軍事探偵として中国大陸で暗躍、数々の修羅場を潜り抜け、いつしか「人斬り天風」と呼ばれるようになった人物です。

心が身体を動かす。
天風の教えの基本はこの一点のみ。
心身統一、心と身体の均衡が合っていれば天地の理に合った考え、行動に自ずと導かれる。
天風理論を確立し、それに共鳴した山本五十六、東郷平八郎、原敬、杉浦重剛、松下幸之助らが弟子入りしています。

心とは何でしょう。
心という字は心臓の形を表した象形文字ですが、存在する臓器の一部を指すものではありません。
心は眼に見えない魂、気と同意であり、物心が付いた時には無意識のうちに話す言葉に、書く文字に使い、形として無い心の存在をいつしか感じるようになります。
「三つ子の魂百まで」と言われるように、危なっかしい足取りで歩き始め、片言の言葉を口にするようになると、それまで蛻(もぬけ)の殻だった身体に魂が入りこみ、一個の人間が誕生します。
物心が身体に宿る三歳までに懸ける肉親の情愛の深さがその幼子の運命を左右し、その愛如何によって心ある人間と心失くした獣(けだもの)が生まれます。
その差は歴然として姿に、行動に表れます。
身体の存在を超えて精神を築き上げ、恐ろしくも個々の人間性を決めてしまう心を、私は何ものも見透かす水晶の玉のように磨きたいのです。

日常の風景の一部のように振り返ることもなかった人間に気を留めた時、望むと望まずに関係なく与えられた環境下で慎ましく生きる姿に、私にはその人が現世に生きる菩薩に思えるようになりました。

ローマ帝政時代の哲学者セネカは「人生の短さについて」と題した著述書の中で、良い生活ができるように多忙を極めている人生を次のように述べています。
「髪が白いとか皺が寄っているといっても、その人が長く生きたと考える理由にはならない。長く生きたのではなく、長く有ったにすぎない。たとえば或る人が港を出るやいなや激しい嵐に襲われて、あちらこちらへと押し流され、四方八方から荒れ狂う風向きの変化によって、同じ海峡をぐるぐる引き回されていたのであれば、それをもって長い航海をしたとは考えられないだろう。この人は長く航海したのではなく、長く翻弄されたのである。」

間もなく私は生まれて44年の歳月を数えます。
この先の寿命は神のみぞ知るですが、魂が解き放たれる最後の瞬間まで限られた己の時間を大切にして、心と身体、自己との対話を楽しみ、世の流れに無理に同調することなく生きていくつもりです。

終わりに、渡米されるくうやんさんへ「いのち仕上げの名台詞」から一句呈上し、私からの餞の一言とさせていただきます。

生や素より好し。されど、死も亦悪しからず。
疾症は彼岸に到達する階段のみ、順序のみ。
(国木田独歩 享年38)

菩薩の存在が身近に思える。
自分が変わらなければそう感じることもなかった。
諸々の怒りで固まった塊を放下することができたのかどうか、疑わしげに自分を見下ろす。

無用に増幅した怒りが身体に与える傷は、鈍ら刀で叩かれたようなぶす紫の打ち身を心に宿す。
ここ数年、しみったれた怒りで己が身体を包み、己が身体を痛めつけていた愚かしさを、幼稚な戯れ言を吐き出した末に我が非を認めるに至ってようやく知った。

一人の神は、愚かな私の痛みを己が痛みとして、影に日向にずっと私を見守ってくれた。

お前は世間をどのように眺めていたのか。
独りよがりの狭い世界に生きていたのか。
心を解放しろ。
目を醒ませ。

幸田露伴の「観画談」に現れる船頭が此岸の私を手招く。


某誌から引用した2編。

(命)

口から釣り針を外そうと
岩魚をそっと握った
岩魚がきゅっと啼いた
一瞬、おれの心もきゅっと啼いた

むざむざ殺しはしない
お前の生命はしっかり喰ってやる
だから
成仏しろ

(畜生の唄)

知っているか
動物、植物の、累々とした屍の上で胡坐をかく
お前ら人間どもは
幾つもの命の翳に今があることを

人間も畜生
畜生は
畜生なりに無様に生きる
自らの命を
自ら絶つことなく

畜生以下の卑怯者同士が
寄り添い
自らを裁く
自惚れ果ての
卑怯者

腐りに腐って
異臭を放つ襤褸雑巾に成り果てようと
お前ら人間は
死ぬまで生きる
運命にあるを知れ

お前らに喰われるために
お前らの生命となるために
死んだ命を知れ

42.香り

2008年6月8日 日常
移り香で人が想い出されるように花の香りも十人十色。

この時期、エゴノキの薄桃色の花が噎せ返るほどの強い香りを放っている。
その香りに誘われたものか、下向きの小さな花弁には熊蜂、蜜蜂がぶんぶんと羽音を姦しく鳴らし、後脚には花粉を団子状にへばり付かせて蜜の採集に余念なく飛び交っている。
庭一面に己が存在を誇示するかのようなエゴノキの香りは、きつめの香水を身に付けた好色な年増女を想わせた。
薔薇も花時を迎えた。
薔薇は女のもの、その認識を変えたのは作家の丸山健二だった。
丸山のエッセイ「安曇野の白い庭」の口絵には、緑で埋め尽くされた庭に白い花が点々と咲き乱れ、何か完成された作品のように写っていた。
人の手で白い花を中心に配された庭でありながら少しも嫌味な不自然さを感じさせない。
即、白い花、薔薇に魅了されてしまった。

その頃、ハーブに目を向けていたこともあり、薔薇がハーブの一種であったことは知っていた。
かのクレオパトラが愛したと伝えられているように、古代エジプト、ローマ時代から栽培された薔薇は、観賞、香料植物として古い歴史がある。
ハーブの本には香りを楽しむならオールドローズの古典種がいいと書いてあった。
ホームセンターの店頭にあった薔薇の名はクラシックローズ。
総称しか表示されていなかった。
オールド、クラシック、どちらも古いと云う意味には大差がないだろうと買い求めた。
古典的な薔薇は順調に育ち、去年より多めに花を咲かせた。
遠目から見ると白だが、近づくと微かに桃色に色付いている。
幼子が親に教えられながら柔らかなティッシュペーパーを何枚も使って作り上げた花弁のようで、咲くことに一心で飾り気のない姿は見飽きることがない。
赤、黄、紫など原色で咲き誇る大輪の派手さはないが、慎ましくも魅惑的な香りは花として大切な要素を欠いた見かけだけの薔薇を優に凌駕する。
古風な薔薇の香りは本当だった。

今でこそ薔薇の香りを讃えているが、始めて嗅いだ時はエゴノキ同様、白粉で化けた年増女を連想した。
唾を吐きたくなるような臭いを想起させた原因は嗅ぐ順序を違えたからではないかと思う。
先に本物の香りを知っていれば偽物と混同せずに差別していただろう。
ようやく本物の香りを認めて、自然の香りを知って、年に一度、限られた時期に放たれる香りが待ち遠しくなった。

今日もエゴノキの下で
鈴なりの花と顔見合わせ
薔薇の生命に
鼻寄せる

草花との秘め事
瞬時に
恍惚として瞼を伏せる
(再び試練、そして、出発)
 岩子の弟、長男の半治は親戚の会津藩士、鈴木家へ養子に出したため、岩子は婿を迎えて一家を構えることになった。
 岩子17歳の時、若松城下の呉服屋大黒屋に奉公していた佐瀬茂助を婿に迎える。
 夫婦で呉服屋を開業、開店10周年を迎える頃には、番頭1人、小僧3人を雇うまでに順調に売り上げを伸ばし、その間、長女おつね、長男祐三の二人の子供にも恵まれ、商売、家内ともに繁盛した。
 翌年、臨月になっていた岩子の身に幼少の頃に立て続いた不吉な暗い影が再び忍び寄る。夫が寝込むほどの重い病気に罹ってしまった。その上、家族同様に世話し、労わりもした番頭が店の呉服、反物を勝手に持ち出し、金まで漁(あさ)って近所の女と出奔してしまった。岩子は金品を持ち逃げされた裏切りよりも、行方知れずになった子を思い煩(わずら)う番頭の母親の身を案 じ、嘆き哀しんだ。
 夫の病気は、叔父の医師、春瓏が手を尽くしても一向に恢復の兆しを見せず、小康状態が続くかと思うとまた重くなる、その繰り返しであった。そうして、親と頼む春瓏までもが病気に罹り、終には帰らぬ人となってしまった。岩子の嘆きは一方(ひとかた)ではなかった。

 岩子が生まれた文政12年(1829年)前後から此の頃までの国内の世情を大まかに整理してみる。

 文化3年(1806年)頃から蝦夷地でのロシアの武装船による焚掠(ふんりゃく)行為が頻発、幕命により会津藩は文化5年(1808年)に蝦夷地警護に当たる。この後も、ロシア以外にも武力に物を言わせて開国を迫る欧米列強の外圧に対し、会津藩は同7年(1810年)から10年間に及び三浦半島の警備に就く。天保4年(1833年)から同9年までには未曾有の大凶作、天保の大飢饉が東北、越後、関東方面を襲った。弘化4年(1847年)、再び会津藩は房総半島警備を命じられる。数度に亘る警備のために会津藩の財政は逼迫(ひっぱく)、そうした中、嘉永5年(1852年)、第8代会津藩主松平容敬(かたたか)の養嗣子であった松平容保(美濃高須藩主松平義建の第6子)が封を継ぐ。その翌年にはペリーが浦賀に入港、安政元年(1854年)には和親と名ばかりの、不平等の日米和親条約締結を余儀なくされ、江戸幕府による鎖国体制は崩壊した。同5年(1858年)、幕府大老に就任した井伊直弼(彦根藩主)は、日米総領事タウゼント・ハリスの強硬説得により天皇の勅許がないまま独断で日米修好通商条約に調印、将軍継嗣(徳川家茂)も決めた。また、直弼は、これに反発した尊王攘夷派や徳川慶喜派ら100名以上を弾圧、長州藩の吉田松陰を始め、優秀な人材を死刑、永蟄居に処し、遠島に追いやった。直弼によるこの一連の弾圧は安政の大獄と言われ、これに因って水戸藩や薩摩藩ら過激浪士の恨みを買い、万延元年(1860年)3月、直弼は桜田門外で死を招くことになる。
 この後、直弼に異を唱え謹慎処分にあった徳川慶喜(水戸藩主徳川斉昭の第7子、御三卿の一橋家を相続)と松平春嶽(福井藩主)は幕政へ復帰、幕府に新設された将軍後見職、政事総裁職にそれぞれ就任し、同時に新設された京都守護職には、慶喜、春嶽の再三の就任要請を断り続けていた第9代会津藩主松平容保が、会津藩祖保科正之が制定した家訓を引き合いに出され、止む無く泪を呑みつつ火中の栗を拾う覚悟で承諾、就任した。
 後の鳥羽伏見の戦いでは容保を伴い、味方の兵を置き去りにして江戸へ敵前逃亡し、我が身可愛さ故に只管(ひたすら)恭順に徹した将軍慶喜。片や、損得勘定に長けた春嶽率いる福井藩は、あろうことか、新政府軍に与(くみ)し同朋であった会津藩に銃砲を向けた。この両者は後年大層な勲章を授かり、作り上げられた名誉に守られていたが、醜悪卑劣な風見鶏2羽の甘言に弄された挙句、抗い難い激動の荒波に引き込まれ、新政府軍への徹底抗戦によって大海の藻屑となった会津藩は長年賊軍の汚名を着せられ、悲劇の一途を辿った。
 この件(くだり)になると文面にはついつい私情が強く表れてしまう。

 病の夫を抱えた岩子はその後どうしたか。
 夫を助けるため、子を守るため、老いた母を慰めるため、行商に出かけるようになった。
 歩いては手は暇と思って歩きながら糸屑で手球を造り、得意先の子供らに与えた。子供が喜べば親も喜び、商売が上がる。行商からの帰路、我家の手土産とした品は立ち寄る他家の子供に与え、土産を心待ちにするよりも母の帰りが素直に喜べる子となるよう気を配った。
 岩子は行商によって人情の機微、世間の実情を学んだ。

 富みて貧しくなった人は気の毒。
 貧しくなって昔の富を念(おも)ふ人は猶(なお)気の毒。
 貧しくなって身分を下して働くことを知らぬ人は一層気の毒。

 行商から帰っては休む間もなく食事の準備をし、子供を寝かしては縫い針の仕事。夫の病床に着の身着のまま看護の仮寝、枕を用いたことはない。朝は暗いうちからその日の食事を万端整えて早くから行商に出る。
 文久2年(1862年)、岩子34歳、長年の困苦辛労に堪えた看病甲斐なく、夫茂助は亡くなった。明年には実母りえまでが帰らぬ人となった。悲しみの果てに尼になろうと覚悟したその時、叔父の山内春瓏に続くもう一人の人生の師に諭される。実家のある熱塩加納の示現寺住職、隆寛である。
 「この世には、前途に一筋の希望も見出せずともその日その日を必死に生き、貧しく、苦しく、精一杯に命を繋いでいる人間が大勢いる。あなたはまだまだ恵まれている。見える眼がある、聴こえる耳がある、嗅ぎ分ける鼻がある、話せる口がある、動かせる手足がある。それが出来ない人達の手足となって力の限り尽くすことがあなたのこれからの生き方であるまいか。それからでも尼になるのは遅くない。」

 己が為すべきことは何か。

 子の行末のため岩子は私情を捨てた。子の幸福を思えば、気運の開ける機会に我が愛の愛(いと)しい糸を裁ち切るのが親の真の愛で、その気運を見定めるのは親の賢明。
 子は一男三女あった。三女はすでに実家に託し、二女は長尾という会津藩士の養女にし、長女はその長尾の伝(つて)で会津藩主容保の姉照姫の召使いに、長男は会津藩士の西郷勇左衛門に頼み小姓として奉公させた。
 一人となった岩子。商売は変わらずに始めたが、得た金は貧者に施し、母や夫の冥福を祈って寺に寄進した。相当期間、喪に服した後、呉服店を他人に譲り渡し、家財道具は知り合いに配り、多少の金を懐にして喜多方に引き揚げた。

 己が為すべきことを為す。
 ここに岩子の生涯を懸けた慈善活動の芽が胎動し始める。会津戦争2、3年前のことであった。

40.桜

2008年4月21日コメント (2)
桜満開。
数日前の連日の暖かさで一気に花開いたようだ。
枝一杯に咲き誇る桜花に吸い付けられるように心浮かれた人々が集っては花見に興ずる。
昼休み、桜の恩恵に欲しようと散歩に出向いた。
淡い桃色に彩られた回廊を潜ると聞き慣れた鳥の啼き声が耳に飛び込んできた。
桜花に見え隠れしながら数羽が飛び交い、感嘆の声を上げている。
鳥さえも誘う桜花。

鵯や 我も花見に 興ずるや

人は、桜花に魅せられ、集い、語らい、酒を飲んでは騒ぎ、果てる。
人は、花を目にしてそこに桜の存在を認めるが、その花が散れば誰も振り返ることはない。
それでも桜は淡々と営みを繰り返す。
花弁がはらはら舞い落ちると同時に赤子のような新芽を生い茂らせ、真夏には成長した葉が嬲(なぶ)るように射し込む太陽の光を和らげては憩いの木陰をつくり、秋には枯れた味わいある茶色に変色した葉をかさこそと落として自らの肥やしとし、冬には裸身を晒して清き修行僧の佇まいで厳しい寒さにじっと耐える。
春以降、移り変わる季節にそれを桜と認め、その姿に魅了される人はいないだろう。
その営みには、媚びりや諂(へつら)いも、小手先の小細工も、狡さも、醜さも、嘘も身勝手さも、己をあくどく利することなど微塵もない。
与えられた生を、無心に潔く、ありのままに生きている。

花の咲き具合に一喜一憂する人間どもを歯牙にも掛けず、ただ為すべきことを為す桜の生き方に、私は慎み深い人間味を覚え、強く惹かれる。
ただひたすらに自分の生き方を信じ、無名のまま歴史に埋もれていった人を、称賛や冠名など人間の勝手な戯言と営み続ける桜に見るようで励まされる。

花はなくとも、桜は桜。
(激動の生い立ち)
 喜多方界隈の名だたる油屋の総領息子、渡辺利左衛門と熱鹽村の瓜生りえとの間に長女として生を受けた岩子は、裕福な家庭環境にも恵まれ、すくすくと育った。ところが岩子5歳の年から歯車が狂い始める。未曾有の天保の大飢饉がその序章であった。天保4年から同9年頃まで続いた大飢饉によって米はもちろんのこと、食糧となる総てが騰貴し、貧賤の者は乞食に身を窶(やつ)し、押込み強盗、放火があちこちで発生した。村々では幽鬼の輩が食糧を奪い合い、其処彼処には餓死者の骸(むくろ)が横たわる、正に阿鼻叫喚の地獄絵図と化した。
 飢饉という暗幕が日本を被い尽くしたこの時期、岩子9歳の時には父が急死し、その49日後には油屋が焼失してしまう。不幸は幾重にも重なり、ついには姑(岩子の祖母)から離縁を申し渡され、母の実家に弟と母子3人で引き揚げざるを得ない境遇となった。
(師、山内春瓏)
 父なき子を育てる時、母、女の立派さが顕(あらわ)れると云う。母りえは人並みの見習いを身に付けさせようと、叔父の医師、山内春瓏(しゅんろう)の許に岩子を預け、岩子は春瓏の子女と共にその薫陶を受けた。
 春瓏は、会津藩主の侍医として、特に産科、婦人科に秀で、門弟には古川春英らの名医を輩出した。
 春英は、戊辰戦争時、日新館軍事病院に入り、将軍侍医なども勤めた院長松本良順を助け、松本退去後はその責任者として務めた。開城後も藩士らの治療にあたるとともに後進の指導に意欲を示したが、若松を襲ったチフスの治療中に感染し、多くの人々に惜しまれながら世を去った。
 因みに、野口英世が書生時代の初恋の人、山内ヨネは春瓏の孫である、と会津の歴史に詳しい老兄に教えていただいたが、それが真実かどうかは未だ確証を得ていない。
 
 人間万事塞翁が馬、人生の吉凶禍福は寄せては返す波の如し。
 岩子、人生において最初の師、春瓏と出会う。
 春瓏は、貧しき階層に蔓(はびこ)る悪しき慣習、“子おろし”で訪れる者に人の道を説き、堕胎防止に努めた。
 “子は三界の首枷”とも云うが、子を得て、親を知り、我を知る。
 子は、親にとって愛着の源であり、また、苦悩の種でもあるが、子から与えられる人生の豊かさは計り知れない。
 心身病む者に接する春瓏の背を見て、その言葉を聞いて、岩子の胸に小さな火が灯る。
 女の務めとは何か。
 己の為すべきこと何か。

 
 極論かもしれないが、現代は男女同権を背景とした女の社会進出によって男女の役目が薄れてきたために、親殺し子殺し、学校での陰湿ないじめ、育児虐待など鬼畜の所業が頻発するようになったのではないか。
 近代の社会情勢が昔日の男女の役割を曖昧にしてしまったのではないか。
 警察官や教師の信じ難い不祥事、企業ぐるみの偽装事件、国民を喰いものにする官僚や政治家、これら性根の腐った連中の横行は、家、企業、国家の順に、それぞれの持つ威厳、尊厳さが消滅していったから起こったのではないか。
 野生の動物を見よ。
 雌雄の別に応じてその役割が決まっているではないか。
 人間も男女の性差は明らかである。
 それに合わせた生き方が生きとし生けるものの基本であるはず。
 嘗ての日本文化はそれに根差していたのではなかったか。
 女の社会進出を盲目的に良くないと言っているのではない。
 女の役割はそれだけ重く、家、企業、国家の根幹を為す務めなのだと声を大にして言いたい。
 
 お里の育ち具合は、其奴の家、両親を見れば大方解る。
 他者と接した私の拙(つたな)く、苦い経験上からもそれは疑うことがない。
 四季のように時に優しく、時に厳しく、大なる自然のように慈しみ溢れた家庭が人間に人間の魂を注ぐ。
 家庭にうららかな春の太陽を照らすのは母。
 母のいない家は父が、両親がいない家は同居する身内の者が、施設が家ならば教師が、寮母が、母の変わりとなって子供に存分の愛を注いでほしい。
 人として生まれ、人の愛を知らずして死んでいく人間ほど酷(むご)いものはない。
 私が無頼の道にも進まず、今もこうして人並みに生活できるのは、女手一つで子供3人を育て上げた母の存在以外にない。
 地に堕ちた教育、手段を選ばぬ利益優先の企業体質、金権政治、利権を争う世界情勢、人間の良心を喪った者どもによって引き起こされたこれら事象に、揺るぎない歯止めの楔を打ち込むのは家族愛ではないか。
 女よ、原点に返れ。
 
(以下、原文「教えの庭」より抜粋)
善悪は津々浦々によする雄波、雌波のよせては返す世の習(ならい)。禍福は暴風に和風の天気模様。漕がねばならぬ人の世の、渡る浮世の波風に、のりきる船の彼岸は何処。女の道は裏道、田圃道。男の道の表通とは事違ふ。我庭ならば思う儘。世間の道は数多く、早道、ぬけ道、行どまり、曲がりくねたる大道、小径の人の道。人の行末、吉凶禍福。どうせ見るべき世の様、人の様。まった(待った)甘露の幸も、不幸の辛さ甞(な)めて知る。

「一体妊娠は女の命で夫婦は前世の約束。子は三界(さんがい)かけての情の緒綱となり我身已(すで)に私のものでなく、命は光陰に移されて、また昔の俤もない。」

「何に女はというても、こう一家を持って見たり、他の家を見たりすると女の務の出来、不出来。賢、不賢。慈悲、無慈悲は一家の幸福と繁栄とにどのように影響するものかは解る。女は内を守り、内を整へ、内を住心地よくするのは日常の務であるが、親戚知己は勿論、配置小作人、出入人夫に至るまで心をとめ、病気不幸、災難でもあったら厚く慰め励ましてやるのは女の外に対しての務めである。それには日常万事節約を旨として奢侈を慎み、安逸に流れてはならぬ。あの下々の女の働を見よ、子を負うて田畑に出て働くではないか、働くのに健康と幸福がある。奥様、奥方と召使も多くあるのに身分、威厳を楯として、出でて鰥寡孤独(かんかこどく)を憐れむこともせず陰欝(いんうつ)に籠り居て、脂粉に身をやつすが故に病気もすれば心配もする。身分高いほど身を下し下を愍(あわれ)めば、人情敦(あつ)きに帰し、一家却(かへっ)て威厳を保ち、国家の威厳を増す基(もとい)ともなる。極楽へ行っても何もせず居る處はないぞ」

「従順は女の天地で、忍耐は女の運命だ。これは何も女ばかりのことではない。格式で勤める吾々もそうだ。只務の業が多く廣いので何とも思わぬが、女の業が少なく狭いので昔から三従(さんじゅう)を女に説くのだ。従うといえばはや忍ぶということはつきものだ。吾と吾さへ思うようにならぬ。まして人と人との組合せ、思慮に思慮を加えて、思慮以外のことあらば、只因縁と諦めるがよい。因縁皆菩提の行願と観じ日々の行持(ぎょうじ)を等閑(なおざり)にしてはならぬ。光陰は矢よりも迅(すみや)か。昔日の我を尋ねんとしても蹤跡(あとかた)はない。昨日を今日と復(ふたた)び還すことも出来ない。修繕の者は陞(のぼ)り、造悪のものは堕ちる。因果の道理歴然として、耄釐(ごうり)もたがう處はない。日々に行いを慎しみ、日々によく働け」
 天に月、太陽があるように、我々が住むこの世にも権勢と慈悲の光がある。日の光は権勢のように強く照らし、月の光は慈しみ哀れむように弱く柔らかに照らす。月と日の光は陰陽の如く、自然の法則によって成り立っているが、人間界の権勢と慈悲は兎角偏りやすい。各々が胸に手をあてその深淵を覗き込んで見よ。誰の胸にも権力を握りたい、金儲けがしたい、贅沢がしたいと願う反面、慾に惑わされず正しく生きたいと願う正邪相反する考えがぶつかって響き合う、その音が聞こえるではないか。
 人として、泣いて生まれて泣かれて一人死んでいく一生を、長い、短いと考えるのも永遠無限に変わりなく照らすこの月と日に、生者必滅の我が生とを比べるからである。昔、栄華の極に達した権力者は、その営みを手放したくないがために不老不死の薬を探し求めた。尽きることのない欲望がこれを求めたものであるが、欲望を満たすだけの栄華は続くものではない。これと対極する仏法で説く慈悲の光は、水が限りなく広がっていくように誰彼となく隈なく五大陸を照らす。
 現代社会の行動様式、生活様式は目まぐるしく変化し、落ち着くことはないが、すでに法や規則は整い、また、権力が一方に偏ることもないだろう。日の光は安定しているようだが月の光はどうであろうか。金と名誉を人生最高の幸せと敬い、金持ちの伴侶を得、豪壮な邸宅に住むことをただ願うならば、果てしない慈悲の光も己自身が歪めてしまい、眼、耳、鼻、舌、身、意によって生ずる様々な欲情に振り回され、如何に立派な家に住もうとも、如何に綺麗に着飾ろうとも、心に慈悲の光が宿ることはあるまい。
 山々から立ち上る朝日のように爽やかに、雲ひとつない夜空に浮かぶ月のように清らかに、雨上がりに水滴で光る草木の上をそよぐ風とそれを照らす月の如く、一点の隈も塵もなく、己の心や行動に決して愧じることのない気構え。小さな身体でも森羅万象の根本である大気を吸えば世間は広くあり、みすぼらしい家に住もうとも何の問題もない。天の恵みである水を味わうことに身分の上下もない。あらぬ罪を得てどこぞの島に流されようとも清き心を照らす月がある。心静めて有りのままに正しく人生を振り返って見れば、何が幸で、何が不幸であろうか。如何に己を誤魔化し、巧みに人の眼を欺くとも、日と月は神仏の如く、隠すことのできない人間の生き様を永遠に見通しているのだ。
 瓜生岩子は人生の浮き沈み、辛酸を味わい、運命の波に翻弄された。
 人間は弱く、嘆きの淵に一度陥ればなかなか這い上がることができない。
 這い上がったとしても、その中には善魂を悪魔に売り渡した者も少なくない。
 岩子は決然と這い上がった。岩子の心の持ちようが、岩子の前途をあまねく照らす慈悲の光を招き入れた。岩子はやがて生死を超越した境地に辿り着くまでとなった。己ができることは終生、己が力で成し遂げた。困難に遭う毎に心を練り、信ずる道を歩んだ。女の幸せとは、家族の幸せとは、真の幸福とは、岩子の生き様がそれを物語る。

(原文序言から)
 我等の仰ぎ見る、大にして明かなる光は月と日である。日の光は強く盛んでありありと萬物を照らす。月の光は弱く柔かでほんのりと萬象を包む。天に日月あるが如く、我が世に権勢と慈悲の光がある。月と日はどこまでも平等の光であるが、権勢と慈悲とはとかくかたよりやすい。胸の騒ぎをたぐり見よ。其の奥の奥に響きがある。高く低く。これ権勢、慈悲の響きであるまいか。
 泣いて生まれて、泣かれて死ぬる人の一生を長し、短しと度るのも、この月と日である。人は永遠無窮のこの尺度をかりて有為転変の我が生をはからんとする。昔は不老不死の薬を求めんとした人もあった。権勢一身にあつまり、栄耀、栄華の極。さても、はてしなき欲望ではあるまいか。はてしなき欲望の栄華は久しくない。慈悲を法(のり)の流れは洋々として海の東西に五大州をめぐる。
 今の世は文物燦然(ぶんぶつさんぜん)、制度整然。また権勢の偏倚(へんい)することもあるまい。世の人財宝と栄位を人生の至幸と敬い、玉の輿に乗り、瓊の臺(たまのうてな)に身を宿すを至福と念ずるならば、広大無辺の慈悲の光も一身に偏局(へんきょく)せられ、意馬六塵(いばろくじん)を蹴たてて煩悩の閃き内に燃え、宏壮の屋宇(おくう)に住むも世間は狭く、燦爛(さんらん)の扮装も身に光はあるまい。
 さしのぼる朝日の如くさわやかに、澄み渡る月影の如く清らかに、光風、霽月(せいげつ)、一點(一点)の隈もなく、身に一塵の汚れもなく、府仰天地(ふぎょうてんち)に愧(はづ)ることなき気宇。狭き胸ながら生気を吸うては世間は広く、茅屋(ほうおく)もいとはぬ。小さき唇ながら冷泉を味うては貴賎の別もない。配所にありても清き心は月ぞ照らさん心ばえ。観(かん)じ来たれば幸か不幸か。日月は永に我が世を照覧する。
 瓜生岩子は身を貧賤に起し、世態(せたい)の変遷と、運命の波にもまれた。然も慈悲の光に浴して彼岸に達した。忍びぬ心を広げて終生己の力でなし得る事をば為さざることはなかった。艱難(かんなん)に遇うて益々心を練り、操を磨いた。女は如何にして幸福なるべきかは岩子の小さき歴史が物語る。

37.月夜の晩に

2008年3月23日
米スペースシャトル「エンデバー」に搭乗している日本人の様子を、テレビ、新聞の各社が毎日のように報道している。
本来の任務の他に、無重力空間での水飲み、ブーメラン飛ばしなどユーモアある実験を紹介したり、迷走するばかりの福田首相もこの時ばかりは笑顔で日本人宇宙飛行士との交信に応じていた。
世界最大手の某旅行業社は、夢のような宇宙旅行を今年から実施予定としている。
いよいよ宇宙時代の到来か、と以前の私なら感慨深げにこれらの報道を見遣っていただろう。
ところが、某作家との出合いががらりと私の認識を変えた。
言霊溢れた文章は恐ろしいものである。

今の私は、宇宙時代をもてはやす連中を胸の内でこう呼ぶ。
何処も彼処も太平楽の“おんつぁげす”。(「おんつぁげす」は会津弁で、底抜けの馬鹿者を指す)

地球で飽き足らず、生活の場を、避難の場を、旅行の場を、宇宙に求めようなどとふざけた戯けをほざく連中が、人間の皮を被った悪魔か、宇宙上、知能最低のエイリアンとしか思えない。
地球に責任取らずして、有害無用の人類の排泄物を、今度は宇宙にばら撒こうと云うのか。
宇宙に居を移すことで人間の心が豊かになると思っているのか。
宇宙を頼りに逃げ延びて、その先に人間の真の生活があると思っているのか。
そうなればもう人間の枠を超えた怪物でしかない。

人間は地球と運命を共にし、地球が滅ぶとき、人類が滅亡するときである。

宇宙時代をもてはやす連中の、太平楽の笑顔を見ていると、ここにも責任の取り方を知らない、原点に返ろうとしない人間が目に付いて殺意に近い憎しみを抱く。

おんつぁげす達が帰還するまで、しばらくは旨い酒が呑めそうもない。

前夜、会津盆地の東に鋏できれいに円く切り取られたようにくっきりと浮かぶ月が、宇宙に触手を伸ばし始めた人間を、それでも温かく包むかのように隈なく照らしていた。

※「瓜生岩子 全」の紹介は次回に。

36.発端

2008年3月18日 日常
先月、調べものがあって図書館に行ってきた。
たまに仕事でも利用するが、小遣いに事欠き、文庫本も買えない月は頻繁に利用する。
無料で8冊まで借用できる図書館の存在は極めて大きい。
話題の作家、気になる作家、初めて目にする作家の本が試しに読めるのもいい。
そのお蔭で、私をして読むべきと思わしむる作家が増えていった。
新刊の単行本が読めるのも嬉しい。
薄給の身では賞与の月でもないと硬表紙の新刊なぞはとても買えないのだ。

本は身銭を切って買う、これが本統だろう。
良本よって浴する心の豊かさは金銭では計り知れないものがある。
身銭を切り、その恩恵に浴した時、自己の窮状をあっさりと笑い飛ばす余裕さえ生まれる。
だが、その良本に図書館で出合った時は困りものである。
琴線にぴんと触れた途端、物慾が擡げ、その本を返却するのが惜しくなる。
恨めしさが募る。
手元に置きたい、自己の所有物にしたいと願ってしまう。
惚れた女に出会った時のそれに近いものがある。
古本価格で購入できると嬉しいのだがそれは無理な話。

仕事の序に4冊、私用で借りた。
その内の一冊、「瓜生岩子 全」奥寺龍渓著は明治末期の美文で書かれたもの。
次回の日記から何回連載になるか分からないが、途中、中断しながらもこの美文を紹介していきたい。
現代の文体、あるいは会話調の文体に慣れ親しんでいる方には読みづらいことだろう。
私も解釈不明な文体、語彙にぶつかり飛ばし飛ばし読んだものの、大きな文字、振り仮名に助けられ以外にも読み易かった。
時代は変わっても良識ある明治人の高貴な精神性の薫りには魅せられてしまう。
この本には、過去の遺物として忘れ去られようとしている日本人の徳性が燦然とした輝きを放ち書かれている。
紹介するにあたり、私独自の解釈であること、誤りが少なからずあること、予めお断りしておく。

ここで貴重な読者に冷水を浴びせるようで多少気が引けるが、本音を吐けば、私は読み手を意識しながらも、その反応を意に介していない。
つれづれに記す、当初はお遊び感覚が強かったが、今は自己の確認作業に近い内容にまで嵩じてしまった。

世界の歴史を振り返ると、大方の人間は古来より慾に目が眩み、知らず知らずに自分の手足を喰らいて自滅の道を辿る生き物であることを、己もその種に属する一匹である遣り切れなさを、つくづくと思い知らされる。
現代の世をそうして眺むれば、地域開発、社会貢献とふざけた旗印の下にやりたい放題に森林を伐採し、大地を抉り、道路を造り、鉄道を敷設し、有害な人工物を生み出し、大量生産、大量消費を煽り、物慾を満たすだけの便利さを追求し、最後は生あるものの源である大気と海に地球上有害無用の汚物をばら撒き、垂れ流し、その様は形こそ違え歴史は繰り返される哀しさを物語っている。
今更になって二酸化炭素の排出規制など、しかも各国の下衆な思惑の絡んだ建前だけの、ふざけた戯言を投げ合っている間に愈々地球は最終局面に向かっている事実を真剣に受け止めようともしない。
人類の底なしの愚かさに対して、大気や海がいつまでもされるがままに黙っている筈があろうか。
地球滅亡、所詮、広大無限の宇宙にすれば然したる問題でもないだろうが。

社会、政治は疾うに見捨てているが、だからと言って狂躁を繰り返すばかりの社会と道連れになるのは真っ平御免であり、自分を、拗ねたガキのように見捨てる訳にもいかない。
己も業深き糞っ垂れ人間の一人であるが、糞は糞なりに綺麗事を抜かすだけの大衆が醜く貌を引き攣らせ逃げ去るほどに、己が生き様をぶち撒ける覚悟で、一日一日の生命に感謝して、精神は常に自分の中に自由に在ることを確認し、それを磨くこと、それが今の私に出来ることであり、それが私の生きる縁でもある。

つれづれに記す、どれもこれも己の魂の救済のためだけに。
四十男の戯言と、嗤わば嗤え。

35.冬の庭

2008年3月8日
つい最近まで、陋屋南側の庭に立つ樹木をナナカマドと疑うことがなかったが、先々月の地元新聞紙に冬の情景描写として掲載された写真を見て、それが誤りだったことに気付いた。
もう一つ、その樹木の赤い実を好んで食す鳥を百舌(モズ)と信じていたが、それも違っていた。
写真には赤い実を巡って争奪戦を繰り広げる鳥たちも紹介されていた。

陋屋の樹木はピラカンサ(トキワサンザシ)と云う名のバラ科の植物であり、鳥は鵯(ヒヨドリ)であった。

ナナカマド、百舌と疑うことを知らなかったのは単に浅薄の知識しか持ち合わせていなかったことによる。
秋に鮮やかに小さな赤い実を付け、冬の白さにそれを誇るのはナナカマドだけと信じ(実はそれしか知らないから)、小鳥は雀でも燕でも雲雀でもなければ浅薄の頭に残された挙げられる鳥の名は百舌しかなかった。
晩秋の雪囲い時によく見掛ける、ツツジの小枝に手足を広げ、頭から尻まで射抜かれ干乾び果てた蛙の姿、一般には「百舌の早贄(はやにえ)」と呼ばれているこの珍しい習性が頭の片隅をよぎり、枝に止まって品なく疳高く啼き叫ぶ声とその残虐性が重なり、百舌に間違いなしと決め付けていた。
初めてその処刑跡を目にした時、縫い針ならまだしも、爪楊枝ほどの太さの折れ易い小枝に蛙を突き刺す、人間の手でも難しいこの緻密な作業がよもや鳥の仕業とは信じられず、十字架のキリストを連想させる干乾びた蛙の姿を、両眼が寄り目になるほど顔を近付け、呆けたようにしばらく見入ったものだ。

ピラカンサは毎年、禍々しいほどの勢いで枝を伸ばす。
剪定しないでおれば樹木全体の均衡を考えずに縦横無尽に伸びた枝が雪を抱き込む結果となり、その重みで春先には何本もの手足が折れ、無惨にもぎざぎざに折れた白い骨先を晒すようになってしまう。
そうなれば見るに痛々しいし、横着な家主と近所の笑い物にもなるので、面倒でも雪囲いを兼ねて毎年剪定するのだが、その度にピラカンサの根元を叩き切ってやろうかと猛り狂うほどの殺意を抱く。
ピラカンサが手向かってくるのだ。
ピラカンサの鋭い棘が、作業服、革手の上から容赦なく突き刺さってくる。
ホームセンターで買ったばかりの長靴にも穴を開けてしまった。
刺された瞬間、腸が煮えくり返り、腹癒せに刺した枝を握って地面に叩き付けようものなら握った途端に再び呻く羽目になる。
額に青筋を立て、苛立つ気持ちを抑えながら刺されないよう慎重に剪定し、結束する。
そしてまた、ずぶり。
ええいっ、くそっー。
鬱憤が晴らせない、その苛々が昂じて一層の事叩き切ってやろうと怒りに任せて思うのだが、いつでも始末は付けられる、少し頭を冷やすとそう思え、手を下さずにいた。

2、3年前から件の鵯が頻繁に姿を現し始めては、早朝から盛りのついた猫のような鳴き声を上げ、賑やかな饗宴を繰り広げてはピラカンサの肥料ともなる人間の小指ほどの赤皮が混じった橙色の糞をぼたぼた捻り落とし、羨ましいほどのお通じぶりを見せている。
この鳥の様を観察していると、鵯の漢字が宛がわれた意味がよく分かる。
偏に卑が付いているのは、ぱっとしない灰色の羽毛で蔽われたみすぼらしい姿、品のない啼き声、食す時のいじぎたない仕種、これらが意味するのだろう。
だが、その卑しさは別にして、毎日のように目にしていると情が移るものなのか、耳障りな啼き声に雀ほどの愛着も覚えなかったこの鳥が次第に近しいものに思えてきた。
同様に、雑食動物の餌となる木の実や虫や、果実が乏しい冬の季節に、裸身の樹木が立ち並ぶ殺風景な庭に一際鮮やかに赤い実を浮かべ、この野暮ったい鳥を招く棘の木にも親しみが湧き始めてきた。

さて、ピラサンカの存在価値を認めはしたものの、長年、勘違いしていたナナカマドはもうどうでもいい、そうとは言い切れない愛着さがその名称にある。
和名ナナカマドは七竈と書く。
ピラサンカが中国、ヨーロッパ南部の外国人ならナナカマドは生粋の日本人、日本原産の木である。
七度、竈に入れても燃えないと言われ、この名が付いたとか。
それほど堅い木なのだろう。
良質の炭にもなるそうだ。
日本の和を表現する良い名だ。
実はその植物の名から、倉庫や玄関などの陰に潜み、やけに高く飛び上がって人を驚かすバッタを、私はどうしても連想してしまうのだ。
私はその虫もナナカマドと呼んでいた。
似たような名と分かっていたものの、いつの間にか植物と同じ名にしてしまった。
その虫はカマドウマ、竈馬と書く。
便所蟋蟀とも言われ、ゴキブリ、蝿の類と同じく、嫌われ者の代表である。
見つかったら最後、踏み潰さられるか、あるいは殺虫スプレーを吹き付けられ、いずれ殺される哀しい運命の下にある虫。
家人が見つけたものならさあ大変、大声上げて騒ぎ立て、直ぐ様、私に出動命令が下る。
姿を現す場所が他の虫と一風変わっている不思議な虫だ。
七竈と竈馬。
竈が共通しているから名前がごっちゃになった。
竈はガスコンロの前の時代に使われていた原始的調理設備で、一昔前の日本ではどこの家庭でも使われていた。
中国の山間部では現在でも竈を使って調理している様子がテレビで放映されることがある。
原始的調理設備であるが、その蓄熱性の高さが見直され、現在では電化製品の炊飯器にその仕組みが応用されている。

竈馬。
生活に欠かせない“竈”と、農耕の助っ人である“馬”が一つ屋根の下にあった時代の名残を彷彿させる。
その昔、竈馬はそれだけ身近な存在だったのだろう。
竈馬と名付けた古人の、身の回りの自然と共存していた慎ましい生活、自然へ注がれる優しい眼差し、大らかさが如実に感じられる。
身体の数倍もある長い触角、翅を持たない変わりに剥き出された黒の濃淡色の肌、異様に盛り上がった背、昆虫と云うよりはムカデ類に属するような容姿が現代をして忌み嫌われ、駆除対象となる害虫扱いを受けるまでになってしまったのだろう。
人工物のコンクリートやタイルの上に現れるよりも、電気が普及していなかった粗末な日本家屋時代に竈と地続きの薄暗い凸凹とした土間を、特別仕立ての触角を働かせながら歩き、身の危険を感じると胴体よりも長い強力な後脚を使って高く飛び上がり、一瞬にして闇に消えてしまう、その様が竈馬には断然似合う。
竈馬はゴキブリ同様、元々は、否、今でも森林や野っ原に住む雑食性の昆虫だが、その成育環境、縄張りに人間が入り込んできたから人間社会に出入りしているだけのことで、万物の霊長を宣ふ人間と比べ、どちらが有害な存在だろう。
共存を考えない侵略者の人間に先住者を殺す権利は何一つとしてないのだ。
中華思想が崩壊した今の中国を見よ。
歴史を繰り返す人間の愚かさを見よ。

話しが七竈から竈馬へと転じてしまったが、また先程の庭の出来事に戻ろう。
先月上旬の或る日、ピラサンカを脇目に車庫に向かって歩いていると眼の隅に何かを捉えた。
樹の根元に何か居る。
一瞬、猫かと思い、立ち止まって様子を窺った。
あちらもこっちを窺っている。
茶色の、鴨ほどの大きな鳥だ。
伸びもしない首を、亀のように伸ばすだけ伸ばしたつもりで覗き込んで見ると、何と雉ではないか。
珍しいこともあるもんだと驚きながら、雉を刺激しないようにそろりそろりと車庫に足を運んだ。
車庫から戻ってまた根元に目を凝らしてみると、もう雉の姿はなかった。
ピラサンカの樹上では相も変わらず、番いの鵯が疳高く啼いている。
その辺に身を隠したものか、雉の姿に誘われピラサンカの根元に近付くと、鵯が一声疳高く語尾を伸ばして飛び去り、風が仄かに野生の匂いを運んできた。
以前、どこかで嗅いだことがある匂いだ。
母の実家に打ち捨てられてあった、誰も身に付けようとしなかった襟巻きに姿を変えた狸、あるいは、旅館に据え置かれた剥製の熊、それらの匂いに近い。
獣の、雉の匂い。
匂いのするほうへ顔を向け、鼻をくんくん鳴らしながら雉の匂いを追った。
平和呆けの俗人から雉を追う狩人に入れ替わった感覚が身体を通り抜け、すぐ消えた。
雀の地味な身体の色に似た雌の雉だった。
此奴も根元に落ちた赤い実を啄ばんでいたのだろうか。
樹上を見上げると赤い実は疎らに、葉もすっかり寂しくなって、目を落とすと橙色の糞と赤い実が点々と地表を被っていた。
その後も、小鳥に遠慮しながら何かを啄ばむ雉の姿を何度か見かけた。
休日の午前中、窓からそれらを眺めるのが密かな楽しみとなった。

今年の冬はやたらと鳥の訪れが多かった。
何故だろうとぼんやり考えた。
頭の中の入り組んだ無数の線の中から断線している線を繋ぎ合わせる作業が繰り返される。
三十代半ば過ぎからこの作業が多くなった。
ようやく線が繋がり、北叟笑む。
昨年の暮れの、職場の大掃除の時を思い出した。
ゴミ袋と一緒に2kg入りの米袋3袋が無雑作に車の荷台に積まれていた。
手にしてみると何とコシヒカリの新米ではないか。
誰の仕業だ、この罰当たり奴が、むっとしながら米袋の裏面を見てみると平成12年産と書いてある。
勿体ないと思いながらもさすがに7年前の米を口にしようとする勇気はなかったが、袋の重みが依然として手にずっしりと勿体なさを伝えていた。
ただ捨てるには惜しい、喰う以外に使い道はないものか、家畜の餌にはどうだ、誰が好き好んで手間隙かけて農家や牧場に届けるものか、阿呆奴、こんな愚かな自問自答の末、手軽な結論を得た。
陋屋の、猫の額ほどの畑に、畑と云うには少しばかり気が引けるが、その肥料代わりに使おうとそっくり頂戴することにした。
早速、その一袋を畑と言わず、植物が一斉に芽吹く春に備えて陋屋の全ての植物の根元に撒いてやった。
それが原因だった。
そうと分かってから、窓から庭が良く見える場所に残りの古米を何日か置きに撒いて、それを啄ばむ鳥の姿を観察するようになった。
雉は、残念ながら、灰色の巻貝のような形をした糞を残したまま姿を見せなくなってしまったが、天候が荒れない日は毎朝、番いの鵯が朝一番に茶の間から良く見えるエゴノキに止まり、挨拶代わりに疳高い啼き声を発した後、神経質に首を動かして慎重に周辺を窺い、朝食に有り付く姿が見られるようになった。
しばらくして椋鳥も現れるようになった。
鵯を追い払うように鋭い黄色の嘴を持った椋鳥が7、8羽の徒党を組んで一斉に地上に降り立ち、子供喧嘩のような騒々しさで米粒を奪い合う。
椋鳥が飛び去ると、静けさに融け込むかのようにいつの間にか、生まれながらに侘び寂びの風情を身に付けた、近しげで近しげでない雀が、こっそりと米粒を啄ばんでいる。

生き物が活動を停止する冬、これら鳥、木は私の目を充分楽しませてくれた。
その感性が持続していれば、ピラカンサの命を絶つような阿呆な行為は犯さないだろう。
子犬に戯れつかれ、尖った犬歯に手を咬まれても優しく窘める寛容さで、剪定の度に刺される痛みを抑えることだろう。

もう3月。
冬と春の綱引きが何度か繰り返された揚句、冬は春に主役の座を明け渡す。
そうして間もなくすると三匹の野良猫が姿を現し出す。
この猫どもは、私の庭を勝手に縄張りにしてしまい、頼みもしないのに我が者顔で巡回し始める。
そうなれば鳥も警戒して寄り付かなくなるだろう。
それもいい。
万物は流転するのだ。
春近し、庭よ、今年はどんな顔を見せてくれるだろうか。

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