チン。
戸川幸夫著「高安犬物語」に登場する地犬(特定地域のみに生息する犬)の名である。
著書の冒頭に、高安犬は山形県東置賜郡高畠町高安を中心に繁殖した中型の日本犬で、主として番犬や熊猟犬に使われた、と記述がある。

「高安犬物語」は、チンと猟師の吉蔵、青年時代の著者との交流を描いた動物文学である。

人間の感情の機微を敏感に嗅ぎ取り、いざ獣と戦闘になるや電光石火の如く、凄まじい勢いで獲物に飛び掛かり鋭い牙を喰い込ませる。
繊細にして大胆不敵な性質を併せ持つ古武士然とした犬。
そんなチンのような犬を飼いたいと思うが、その資格は、今の私にはない。

戸川文学の影響にも因るが、地犬の優れた性質には身震いするほどの衝撃を受けた。

飼い主に手招きされても尻尾を2、3度振る程度の無愛想ぶり。
道の中央に寝そべり、車が向かって来ても素知らぬ顔で、警笛がなってようやくのそりと立ち上がり、運転手に一瞥をくれて立ち去る太々しさ。
人間の赤ん坊の子守を任されるほどの信頼を受け、幼子に耳を掴まれ、尾を強く引っ張られても決して牙を向けず、ただ迷惑そうな顔をしてすごすごと立ち去るだけの従順さ。
一旦猟に出れば、幾日も雪山を彷徨する強靭な体力を示し、熊に対して一歩も怯むことなく、相手が斃れるまで喰らいつく猛々しさ。

普段はのっそりとして目立たず、しかし、いざとなれば驚くような真価を発揮する燻し銀のような渋さ。

高安犬は絶滅した。

昔、会津にも“会津犬”が生息していたように、全国各地に地犬が存在したが、ニホンオオカミと同じような運命を辿り絶滅した。

小型の柴犬を始め、日本犬が国の天然記念物に指定されていることを知らない人は意外に多いだろう。
現存している指定犬種は、指定順に秋田犬、甲斐犬、紀州犬、柴犬、四国犬、北海道犬の6犬種。

日本犬の歴史については詳らかではないが、秋田犬に関して云えば、元来、中型のマタギ犬だったものが、江戸時代に秋田領内の領主が、家臣の闘志を養うために闘犬を奨励したことにより、より大きく強いものへと他犬との交配によって大型化された。
明治に入ると闘犬熱に更に拍車が掛かり、グレートデンやマスティフなどの大型洋犬との交配が進み、地犬の特徴は失われていった。
人間の飽くなき欲望によって雑化した秋田犬。
片や、それを危惧し始めた良識ある人間によっての保存活動が実を結び、昭和6年、日本犬として初めて国の天然記念物の指定を受けた。

ところが、またしても受難の時代が訪れる。
日本犬にも戦争と云う化け物が大口を開けて待ち構えていたのだ。
軍部の命令で食糧難や物資不足の理由から、犬の毛皮や肉の供出を余儀なくされ、その数は激減していった。
そして、追い打ちをかけるように、洋犬が持ち込んだ伝染病ジステンパーの蔓延によって多くの犬が死んだ。

何を基準にして純血種と云うのか、専門外の私が知るところではないが、天然記念物の指定を受けた現在の日本犬種に、完全なる純血種を見ることは無理だろう。

明治、大正、昭和と年号は変わり、人間を取り巻く生活環境も大きく様変わりしたが、取り返しのつかない、有相無相の、多くのものを喪っていった。
 
全国的に知られている犬の話に触れる。
忠犬と云えば、ハチ公。
渋谷駅前のハチ公の銅像は待ち合わせの目印として夙に有名だ。
実物のハチ公は、新聞の切り抜き写真で見る限り、耳は半立ちで尾は垂れ下がり、冴えない犬であるが、秋田犬の純血種に近いとされる。
よく見れば、顔付きにほのぼのとした懐かしさを滲ませている。

ハチ公は、関東大震災の翌年、大正12年に秋田県大舘市に生まれる。
東京帝国大学教授の許で飼われるが、ハチ公生後2歳の時を待たずして飼い主が急逝。
主人が亡くなったことを知らずに、ハチ公は雨の日も風の日も毎日、改札口で主人を待ち続ける。
数年後、改札口で亡き主人を待つ老犬となったハチ公を、心ない人間たちが邪険に扱っていた。
その哀れな姿が朝日新聞の記事となり、一躍、時の人ならぬ時の犬になった。

実は渋谷駅近くの、屋台の焼き鳥屋の餌を目当てにして通ったとも云われている。
動物のハチ公に主人が死んだ事実を理解出来るはずもなく、主人と過ごした17ケ月を優に越す月日を、只々、主人を待つためだけに通い詰めたとは俄かに信じ難い、とも思う。

後世に美談として伝えるために事実を歪曲することや、口を閉ざして語らずの隠された事実はままあることだが。
ふと、“悲劇の白虎隊”が脳裡に浮かんだ。

ハチ公の本音を知ることが出来ない以上、あるいは、人間の及ばぬ叡智が働いていたのかもしれない。
主人を待つためだけに。
それが事実としたら、主人に逢えず帰る道すがら、ハチ公はどんな想いだったのだろう。
ある種の人間が言う“莫迦な犬”とは簡単に割り切れない想いがある。
現実性に乏しい人間の世迷い言なのか。

私は、“鉄兵”、“太郎”と云う名の二匹の犬を飼い、殺した。
だから、犬が逃げ出しても捜そうとしない飼い主や、野山に捨て去る飼い主、虐待する飼い主、行政施設に犬の殺処分を依頼してガス室(窒息によって死に至らしめるため大きな苦痛を伴う)に送り込む飼い主たちを批難することは出来ない。

同じ穴の狢だ。

二匹の犬の、それぞれの今際の際、悔いても悔いても悔い切れない後悔の念が突き上げ、吼えるように犬の名を叫んだ。

「莫迦野郎、今更遅いんだよ」
耳鳴りのように嘲る声が頭骨に谺した。

私には犬を飼う資格がない。
けれど、許されるものなら、罪を贖えるなら、もう一度犬を飼いたい。
犬の目線で、日々変わらぬ愛情を注ぎ込める人間になれた時に。

名前は、決まっている。

自分勝手だが、それが棺桶に片足突っ込んだ取るに足らぬ老後の、ささやかな望みである。

コメント

nophoto
gy
2012年7月2日21:33

もっとくいわしく

最新の日記 一覧

<<  2025年6月  >>
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
293012345

お気に入り日記の更新

  • 早速 ねずみ一代 (2月26日 14:46)

最新のコメント

この日記について

日記内を検索