12.米と異なるもの(後編)
2007年3月2日コメント (2)糞の検査は必要である。
同様に、糞を提出するまでの行為も、人間にとって大切なことである。
現在の家庭の便所環境は、その多くは水洗化、洋式化し、それに洗浄、マッサージ、乾燥と驚くべき機能を備え、なかには便座の蓋が自動開閉するものもあり、ズボンをずり下ろして臀を差し出せば、あとはスイッチ一つで済んでしまう始末だ。
最近の新しい病院、飲食店でもそうだ。
たかが便所でありながら我が拙宅よりも遥かに居心地が良いところもある。
清潔である。
姿勢が楽である。
誠に快適である。
されど糞が見えない。
糞が便器の水の底に落ち込んで、その上に臀を拭いた紙が重なって見えない。(拙宅のそれには脱臭機能を優先させたので乾燥機能はない。よって洗浄したら便所紙で臀穴の水分を拭う。)
その点が不満である。
検便の度に痛く感ずる。
一日一回は自分の糞をまじまじと見る習慣を持つべきだと。
歯間ブラシもどきで糞を刮げ採る時、むっとする糞の臭いを嗅ぎ、間接的に手に伝わるその軟らかさを感じながら、“人間である前に動物である自分”を生々しく実感する。
拙宅を縄張りとして悠然とマーキングしてのし歩く野良猫、その猫が残す糞と同じものなのだ。
糞、糞と何を力んで書き込んでいるのか、“阿呆な奴”と読者は蔑むだろう。
己が糞を見て、“さもしい人間の驕り”を己の中に見てしまうのである。
日常、何も気付かないままに、密やかに己を人間様と崇めていた事実を教えられ、はっとするのである。
“臭いものに蓋”
現代の子供たちは、生まれて物心付いた時から自分の糞を見ずして済む“臭いものに蓋”の環境にある。
これは糞に限ったことだけではない。
一部の人間の都合で、“臭いものに蓋”となる隠蔽体質の、病巣を抱えた現代社会の姿でもある。
“臭いものに蓋”をしてはいけないのである。
いじめの一因に食事が上げられている。
善く善く咀嚼しなくとも容易に胃袋に納まるスナック菓子やファーストフード、炭酸飲料などがキレやすさを招くとも云われているが、食卓に並ぶ肉、魚料理にも原因があると。
鶏、豚、牛、馬、魚…。
これら動物は、我ら人間どもに喰われるために皮を剥がれ、細かく切断され、贓物が取り除かれ、骨から肉が削ぎ落とされ、終いにはミンチにもされて原形なくして店頭に並ぶ。
自ら手を下し、動物を殺し解体している訳でもなし、その過程を見ている訳でもないから、動物の命を奪い、その肉を喰らっている実感が皆無である。
人間も畜生である。
数知れぬ動植物を殺し、その上に人間の生は成り立っている。
その事実を、現実的に、謙虚に受け止める環境にないから、うそ寒いおかしな事件が発生するのかもしれない。
その事実を認識させるために、実際に子供の目の前で動物を屠殺し、捌いて喰わせれば手っ取り早くもあるが、昔のように鶏を絞めてお客をもてなした、または、狩猟によって得た獣肉を食する環境が身近にあった時代とは違う世の中において、今の子供たちにはそれら事実を受け入れる精神的下地がないのだから、逆に問題も出て来るだろう。
“世の中、綺麗事ばかりだけではない”
これは、“清濁併せ呑む”と同じような此の世の悪を肯定する喩えとして使われ、汚職でマスコミを騒がせた各県の前首長らが吐きそうな言葉でもあるが、事、糞の存在に関しては正にその通りなのである。
糞は人間に教えてくれる。
驕りと、人間どもに喰われる動物と同等の命を。
そして、有り難くも自己の健康状態をも。
検便を侮るなかれ。
(終わり)
同様に、糞を提出するまでの行為も、人間にとって大切なことである。
現在の家庭の便所環境は、その多くは水洗化、洋式化し、それに洗浄、マッサージ、乾燥と驚くべき機能を備え、なかには便座の蓋が自動開閉するものもあり、ズボンをずり下ろして臀を差し出せば、あとはスイッチ一つで済んでしまう始末だ。
最近の新しい病院、飲食店でもそうだ。
たかが便所でありながら我が拙宅よりも遥かに居心地が良いところもある。
清潔である。
姿勢が楽である。
誠に快適である。
されど糞が見えない。
糞が便器の水の底に落ち込んで、その上に臀を拭いた紙が重なって見えない。(拙宅のそれには脱臭機能を優先させたので乾燥機能はない。よって洗浄したら便所紙で臀穴の水分を拭う。)
その点が不満である。
検便の度に痛く感ずる。
一日一回は自分の糞をまじまじと見る習慣を持つべきだと。
歯間ブラシもどきで糞を刮げ採る時、むっとする糞の臭いを嗅ぎ、間接的に手に伝わるその軟らかさを感じながら、“人間である前に動物である自分”を生々しく実感する。
拙宅を縄張りとして悠然とマーキングしてのし歩く野良猫、その猫が残す糞と同じものなのだ。
糞、糞と何を力んで書き込んでいるのか、“阿呆な奴”と読者は蔑むだろう。
己が糞を見て、“さもしい人間の驕り”を己の中に見てしまうのである。
日常、何も気付かないままに、密やかに己を人間様と崇めていた事実を教えられ、はっとするのである。
“臭いものに蓋”
現代の子供たちは、生まれて物心付いた時から自分の糞を見ずして済む“臭いものに蓋”の環境にある。
これは糞に限ったことだけではない。
一部の人間の都合で、“臭いものに蓋”となる隠蔽体質の、病巣を抱えた現代社会の姿でもある。
“臭いものに蓋”をしてはいけないのである。
いじめの一因に食事が上げられている。
善く善く咀嚼しなくとも容易に胃袋に納まるスナック菓子やファーストフード、炭酸飲料などがキレやすさを招くとも云われているが、食卓に並ぶ肉、魚料理にも原因があると。
鶏、豚、牛、馬、魚…。
これら動物は、我ら人間どもに喰われるために皮を剥がれ、細かく切断され、贓物が取り除かれ、骨から肉が削ぎ落とされ、終いにはミンチにもされて原形なくして店頭に並ぶ。
自ら手を下し、動物を殺し解体している訳でもなし、その過程を見ている訳でもないから、動物の命を奪い、その肉を喰らっている実感が皆無である。
人間も畜生である。
数知れぬ動植物を殺し、その上に人間の生は成り立っている。
その事実を、現実的に、謙虚に受け止める環境にないから、うそ寒いおかしな事件が発生するのかもしれない。
その事実を認識させるために、実際に子供の目の前で動物を屠殺し、捌いて喰わせれば手っ取り早くもあるが、昔のように鶏を絞めてお客をもてなした、または、狩猟によって得た獣肉を食する環境が身近にあった時代とは違う世の中において、今の子供たちにはそれら事実を受け入れる精神的下地がないのだから、逆に問題も出て来るだろう。
“世の中、綺麗事ばかりだけではない”
これは、“清濁併せ呑む”と同じような此の世の悪を肯定する喩えとして使われ、汚職でマスコミを騒がせた各県の前首長らが吐きそうな言葉でもあるが、事、糞の存在に関しては正にその通りなのである。
糞は人間に教えてくれる。
驕りと、人間どもに喰われる動物と同等の命を。
そして、有り難くも自己の健康状態をも。
検便を侮るなかれ。
(終わり)
コメント