温情がない。
先月の17日(金)、酒気帯び運転で捕まった会津某高校の教師の処分に対してである。
新聞の投稿欄にも意見が出ていたが、厳罰に処するのは当然であるとの意見が初めの頃は多数占めていた。
ところが、ここに来て最近は厳し過ぎるとの意見も出始めた。
“高校教師、酒気帯び運転で捕まる”
この見出しを見た時、またか、の思いを強くした。
職場の、あの検便の同僚は、
「この先生よぉ、気の毒だよなぁ、捕まって」と新聞を手に朝っぱらから暢気なことを言う。
「何言ってんだ、捕まんの当り前だべ」、何寝言ほざいてけつかる、かなり憤慨しながら言い捨てた。
「だって、捕まったのは呑んだ翌日の午前11時だよ」、同僚はさらりとのたまった。
「はぁっ」、語尾が尻上がり調となって、すぐに二の句が継げなかった。
この教師は、東山温泉の旅館で同僚の教師らと酒を呑み、宿泊して、翌朝は温泉にでも浸かり旅館をゆっくり後にしたのだろう。
まさか朝酒を引っ掛けてはいまい。
帰宅途中、一時停止で捕まり、その時、酒気帯び運転が発覚した。
時間は午前11時。
これに対して県教育委員会の下した処分は、退職金なしの懲戒免職である。
捕まった事は仕方がないが、県教委が下した処分に対しては、さも有りなん、とは到底頷けるものでない。
処分を下したお偉い方々は、憐憫や惻隠の情、その欠片さえも持ち合わせていないのだろう。
女子児童の下腹部に手を差し込んだ小学校長の場合とは訳が違うのだ。
よくもまあ、こんな変態野郎が、長年教師としてのさばっていたものだと驚き呆れるが、人として模範となるべき人間に辱められた女子児童の、生涯消えることのない精神的苦痛を考えれば、この阿呆が犯した罪は一生贖えるものではない。
此奴の一物をちょん切ってもまだ足りぬ。
哀しいかな、これに類した教師は多い。
教師である前に人間として失格である。
話が脇道に逸れたが、飲酒運転による事故は後を立たず、当事者だけでなく他人の人命も奪うものであるから厳罰に処するのは当然である。
だが、この程度の酒気帯び運転は、人並みに酒を呑む者であれば誰にでも心当りがあることだ。
年末年始の忘年会、新年会の時期に、早朝、温泉場の出入口で警察による一斉取締りを実施したら、どれだけの人間が酒気帯びで捕まるか知れたものではない。
だからと言って正当化するつもりは毛頭ないが、今回の件は、これを教訓として各自が我が身の体調を把握しつつ、翌日にまで飲酒による影響が及ぶことがなきよう、全教師に注意を喚起することとして、精々、諭旨免職が妥当ではないか。
全くもって、この教師に代わり、県教委への不服申立て、処分取消の提訴を起こしたいくらいだ。
県によって処分内容は違い、兵庫県では、飲酒3時間後、オートバイを運転し捕まった高校教師が停職6ヶ月の処分となっている。
福島県教委は昨年10月、飲酒運転をした職員は原則懲戒免職と処分基準を改定し、この基準が初めて適用されたようだが、私には、この教師はその“見せしめ”のために処分されたとの思いが強い。
“見せしめ”によって、定年退職を目前にして、この教師の30年以上の教職人生は、儚く水疱に帰してしまったのだ。
ここまで厳罰に処するのであれば、この教師の上司である校長、処分基準を改定した県教委の面々(教育長)にも監督不行き届きとして処分が及ぶのが当然であろう。
自分たちは安全な枠の中に潜み、当事者だけを他人事のように処分する、こんな身勝手な教職者、教育関係者らの下で、生徒らは如何に思いやり溢れた人間に成長するものか。
彼岸の休日、墓参の帰りに、古希を迎えた尊敬する翁の家を訪ねた。
帰り際、翁は、確とした力強い口調で私に言った。
「人の痛みを、自分の痛みとして知る人間になれ。これだけ忘れずにいたら人生に間違いはない」
砂が水をすんなりと吸い込むように、実践してきた人間の言霊が、聞く者の胸底深くに沁み渡った。
教師、教育関係者らが本気で変わらなければ、教育は何も変わらない。
先月の17日(金)、酒気帯び運転で捕まった会津某高校の教師の処分に対してである。
新聞の投稿欄にも意見が出ていたが、厳罰に処するのは当然であるとの意見が初めの頃は多数占めていた。
ところが、ここに来て最近は厳し過ぎるとの意見も出始めた。
“高校教師、酒気帯び運転で捕まる”
この見出しを見た時、またか、の思いを強くした。
職場の、あの検便の同僚は、
「この先生よぉ、気の毒だよなぁ、捕まって」と新聞を手に朝っぱらから暢気なことを言う。
「何言ってんだ、捕まんの当り前だべ」、何寝言ほざいてけつかる、かなり憤慨しながら言い捨てた。
「だって、捕まったのは呑んだ翌日の午前11時だよ」、同僚はさらりとのたまった。
「はぁっ」、語尾が尻上がり調となって、すぐに二の句が継げなかった。
この教師は、東山温泉の旅館で同僚の教師らと酒を呑み、宿泊して、翌朝は温泉にでも浸かり旅館をゆっくり後にしたのだろう。
まさか朝酒を引っ掛けてはいまい。
帰宅途中、一時停止で捕まり、その時、酒気帯び運転が発覚した。
時間は午前11時。
これに対して県教育委員会の下した処分は、退職金なしの懲戒免職である。
捕まった事は仕方がないが、県教委が下した処分に対しては、さも有りなん、とは到底頷けるものでない。
処分を下したお偉い方々は、憐憫や惻隠の情、その欠片さえも持ち合わせていないのだろう。
女子児童の下腹部に手を差し込んだ小学校長の場合とは訳が違うのだ。
よくもまあ、こんな変態野郎が、長年教師としてのさばっていたものだと驚き呆れるが、人として模範となるべき人間に辱められた女子児童の、生涯消えることのない精神的苦痛を考えれば、この阿呆が犯した罪は一生贖えるものではない。
此奴の一物をちょん切ってもまだ足りぬ。
哀しいかな、これに類した教師は多い。
教師である前に人間として失格である。
話が脇道に逸れたが、飲酒運転による事故は後を立たず、当事者だけでなく他人の人命も奪うものであるから厳罰に処するのは当然である。
だが、この程度の酒気帯び運転は、人並みに酒を呑む者であれば誰にでも心当りがあることだ。
年末年始の忘年会、新年会の時期に、早朝、温泉場の出入口で警察による一斉取締りを実施したら、どれだけの人間が酒気帯びで捕まるか知れたものではない。
だからと言って正当化するつもりは毛頭ないが、今回の件は、これを教訓として各自が我が身の体調を把握しつつ、翌日にまで飲酒による影響が及ぶことがなきよう、全教師に注意を喚起することとして、精々、諭旨免職が妥当ではないか。
全くもって、この教師に代わり、県教委への不服申立て、処分取消の提訴を起こしたいくらいだ。
県によって処分内容は違い、兵庫県では、飲酒3時間後、オートバイを運転し捕まった高校教師が停職6ヶ月の処分となっている。
福島県教委は昨年10月、飲酒運転をした職員は原則懲戒免職と処分基準を改定し、この基準が初めて適用されたようだが、私には、この教師はその“見せしめ”のために処分されたとの思いが強い。
“見せしめ”によって、定年退職を目前にして、この教師の30年以上の教職人生は、儚く水疱に帰してしまったのだ。
ここまで厳罰に処するのであれば、この教師の上司である校長、処分基準を改定した県教委の面々(教育長)にも監督不行き届きとして処分が及ぶのが当然であろう。
自分たちは安全な枠の中に潜み、当事者だけを他人事のように処分する、こんな身勝手な教職者、教育関係者らの下で、生徒らは如何に思いやり溢れた人間に成長するものか。
彼岸の休日、墓参の帰りに、古希を迎えた尊敬する翁の家を訪ねた。
帰り際、翁は、確とした力強い口調で私に言った。
「人の痛みを、自分の痛みとして知る人間になれ。これだけ忘れずにいたら人生に間違いはない」
砂が水をすんなりと吸い込むように、実践してきた人間の言霊が、聞く者の胸底深くに沁み渡った。
教師、教育関係者らが本気で変わらなければ、教育は何も変わらない。
コメント
自分も常々そうありたいと思い、日々人に接しておりますが、世の中なんと自分勝手な人の多い事かと日々傷心の思いです。
少しは負け惜しみの気持ちが入っていますが、“正直者が馬鹿をみる”、いつかはそんな本当の馬鹿になりたいものです。