19.某寺にて
2007年4月19日先日、会津若松市にある会津三十三観音札所の一つを訪ねた折、偶々、其の寺の住職と話をする機会を得た。
人の言葉から、普段、自分の意識下に無かった“もの”が呼び起こされることがある。
この時がそうだった。
「ただの木偶(でく)の仏像を拝んで、それに掌合わせでもなぁんにも意味はねぇ。なにさ掌を合わせでぇんのが。それは“自分の心”に向けで掌を合わせでぇんだ。自分を省みて邪な考えがねぇがどうが、自分の心を見詰めるために掌は合わせるもんだ。」
この住職は、住職らしからぬことをずけずけと言った。
秘仏と称される観音像だが、たかが人間が造り上げたものに過ぎない。
その由緒も、後世の人間に末永く拝まれるよう、神懸かり的に造り上げられて伝承の類が多い。
一般的に云われている会津三十三観音巡りの由来にしても、会津領内の多くの者が伊勢神宮、あるいは西国三十三札所巡礼に出向くことによって多額の費用が領外に流出するため、会津藩祖の保科正之がその防止策として時の高僧らと諮り、会津領内の三十三ヶ所に霊場を選んだのが始まりとされる。
領内で金を使わせ、それで事を済まそうとする、名君誉れ高き人物と称された保科正之の邪な考えが起こりなのだ。
神社にしても、時の為政者が都合良く拵えた夷狄討伐などの大義名分によって各地に勧請されたものが多い。
夷狄の意味を辞書で調べてみると、夷は東方の蛮人、狄は北方の未開人の意とある。
東方の蛮人と云えば我ら東北人の祖先である。
何を指して蛮人と云い、何故討伐されなければならなかったのか。
権力を握った者の横暴さが、近代の世の辞書にさえ残されていることに驚きである。
会津には大っぴらにされてない歴史がある。
明らかな確証がないため伏されている面もあるが、梁国の青巌による仏教伝来、所謂、“高寺伝承”である。
仏教は、538年に大和朝廷の庇護の下、百済から伝わったとされ、会津には同時期に直接、梁国の青巌によって伝わったとされる。
地理的にも見ても、朝鮮半島から日本海を渡り、潮流の助けを借りれば労せずして越後へ辿りつく地の利があり、そこから阿賀野川を遡行すれば会津に入ることが出来た。
昭和39年、岡山県丸山古墳で発掘された三角縁神獣鏡と同型のものが、東北で唯一、会津大塚山古墳から発掘された。
これは中央との密接な繋がり持った東北を代表する豪族の存在を示し、また、東北で2番目の大きさを誇る会津坂下町青津の亀ヶ森古墳や鎮守森古墳群の存在も同様、他地域と異にする会津独自の文化圏を物語り、それら豪族の庇護下にあって堂塔伽藍三千余宇を誇る仏教文化が華開いたとされる。
中央集権化を目論み、国家宗教の布教によって人心掌握を図ろうとする朝廷にとっては、独自の仏教文化を形成した会津の高寺の存在は“目の上のたん瘤”だったのだろう。
地方統制のために各地に置かれた郡を治めるための役所機関、すなわち、郡衙(ぐんが)の画策によって高寺は歴史上から抹殺(殺戮)され、辛うじていくつかの地名の残存が高寺伝承を裏付けるだけとなった。
戊辰の役。
京都を焼き討ちにし、天皇を奪おうとした長州、その殺戮集団と同盟を結んだ薩摩。
裏工作に長け、偽の錦の御旗を掲げた長州、薩摩を中心とした西軍が官軍とされ、孝明天皇の信任厚かった会津が賊軍とされた。
江戸無血開城の立役者、幕臣の勝海舟(下工作は山岡鉄舟による)は江戸を救った英雄とされる。
勝の云う“誠”の一字を持ってすれば、同民族による悲惨な殺し合いはある程度避けられたのではないか。
江戸無血開城によって、振り上げられて刃は徳川幕府の捨て石となった会津へ向けられ、箱館戦争で終焉を迎えた。
その後、賊軍の汚名を着せられた会津は、長年、日の目を見ることはなかった。
勝海舟を小狡い奴と主観的に評価するのもよろしくないだろう。
再度、氷川清話を読んだ。
その中で会津藩に関しての記述は1ヶ所しかなかったように思う。
「第二次長州征伐に対して、会津藩だけがなかなか長州藩との和解に賛成せず、いろいろ譬えなど設けて説明してやったらやっと受け入れてくれた」、これだけの記述である。
この一文だけに、終生、徳川幕府に仕えると云う保科正之が示した家訓が藩風となった会津藩の盲目なまでの頑迷さに、勝は匙を投げていた様子が伺える。
大局を掴めなかった会津藩の閉鎖性は、山国の地形、雪国の気候も災いしたものか。
それに比べ、倒幕派の雄、薩摩藩、西郷隆盛の人物の評価にはかなりの紙面を割いている。
大胆識、大誠意の人物と絶賛しているだけでなく、西南の役で賊軍となった西郷の七回忌の折には遺族のために名誉回復の運動を行っている。
勝は53歳で官を辞するが、その後も徳川家の家政に注意すること怠らず、陰に日向に国家に貢献することが少なくなかった。
明治31年、一私人の徳川慶喜が幕末以来初めて参内して明治天皇、皇后に拝謁した。
これは、京都朝廷と旧徳川将軍の和解を示し、慶喜の逆賊としての汚名も拭われたことになる。
この裏にも勝の奔走があった。
会津では、鳥羽伏見の戦いの最中、味方を置き去りにして敵前逃亡を図った“おんつぁげす”として、会津藩に京都守護職を押し付けた松平春嶽と並び、悪名高き徳川慶喜奴だが、勝は慶喜の十男精(くわし)を養子とし、孫の伊代子に配して勝家を継がせ、その直後、77歳にして脳溢血で亡くなっている。
旧徳川家臣団の、西南の役で賊軍扱いを受けた人々の、明治政府に対する怨恨を消すために、勝は自ら恃みとする“正心誠意”に従い、如何に人から罵られようとも自分の信ずる道を生きた。
会津が晴れて賊軍の汚名から解放されるのは昭和に入ってからである。
戊辰の役から60年後の昭和3年、再び巡ってきた戊辰の年に、松平容保の四男恒雄の長女勢津子が秩父宮家に輿入れが決まってのことである。
この陰にも、勝のような人間の、知られざる奔走があったのだろう。
勝の評価はさておき、話が進む内にあれこれと引用してしまい、今回の日記をどう締め括ったらよいものかどうか。
歴史は勝者の論理によって作られ、勝者が正義とされる。
だから鵜呑みに出来ない。
そこに歴史のおもしろみもある。
そうして感じるのは、世の中の不条理さ。
だからいつまで経っても莫迦な人間が居なくなることはない。
そこに此岸での、まやかしの差が表れる。
それは社会的地位であったり、貧富の差であったり、学歴であったり。
それがどうしたことだ。
勝は云う。
無学な人ほど真実、知識よりも人間の精神、理屈よりも体験と。
彼岸に行けば精神、魂のみ。
それを磨くのが此岸の現世。
清貧に生きた古人は疾うに知っていた。
自分の心に神を宿し、それに掌を合わせ、自分に偽りなく正直に生きた。
見えざるものの力、存在を信じ、自然の流れに沿って謙虚に生きた。
精神は正心、律する心。
そうあれば何も恐れるものはない。
勝が脳溢血で亡くなる前に遺した最後の言葉、俗人に吐けるものではない。
コレデオシマイ、これだけである。
人の言葉から、普段、自分の意識下に無かった“もの”が呼び起こされることがある。
この時がそうだった。
「ただの木偶(でく)の仏像を拝んで、それに掌合わせでもなぁんにも意味はねぇ。なにさ掌を合わせでぇんのが。それは“自分の心”に向けで掌を合わせでぇんだ。自分を省みて邪な考えがねぇがどうが、自分の心を見詰めるために掌は合わせるもんだ。」
この住職は、住職らしからぬことをずけずけと言った。
秘仏と称される観音像だが、たかが人間が造り上げたものに過ぎない。
その由緒も、後世の人間に末永く拝まれるよう、神懸かり的に造り上げられて伝承の類が多い。
一般的に云われている会津三十三観音巡りの由来にしても、会津領内の多くの者が伊勢神宮、あるいは西国三十三札所巡礼に出向くことによって多額の費用が領外に流出するため、会津藩祖の保科正之がその防止策として時の高僧らと諮り、会津領内の三十三ヶ所に霊場を選んだのが始まりとされる。
領内で金を使わせ、それで事を済まそうとする、名君誉れ高き人物と称された保科正之の邪な考えが起こりなのだ。
神社にしても、時の為政者が都合良く拵えた夷狄討伐などの大義名分によって各地に勧請されたものが多い。
夷狄の意味を辞書で調べてみると、夷は東方の蛮人、狄は北方の未開人の意とある。
東方の蛮人と云えば我ら東北人の祖先である。
何を指して蛮人と云い、何故討伐されなければならなかったのか。
権力を握った者の横暴さが、近代の世の辞書にさえ残されていることに驚きである。
会津には大っぴらにされてない歴史がある。
明らかな確証がないため伏されている面もあるが、梁国の青巌による仏教伝来、所謂、“高寺伝承”である。
仏教は、538年に大和朝廷の庇護の下、百済から伝わったとされ、会津には同時期に直接、梁国の青巌によって伝わったとされる。
地理的にも見ても、朝鮮半島から日本海を渡り、潮流の助けを借りれば労せずして越後へ辿りつく地の利があり、そこから阿賀野川を遡行すれば会津に入ることが出来た。
昭和39年、岡山県丸山古墳で発掘された三角縁神獣鏡と同型のものが、東北で唯一、会津大塚山古墳から発掘された。
これは中央との密接な繋がり持った東北を代表する豪族の存在を示し、また、東北で2番目の大きさを誇る会津坂下町青津の亀ヶ森古墳や鎮守森古墳群の存在も同様、他地域と異にする会津独自の文化圏を物語り、それら豪族の庇護下にあって堂塔伽藍三千余宇を誇る仏教文化が華開いたとされる。
中央集権化を目論み、国家宗教の布教によって人心掌握を図ろうとする朝廷にとっては、独自の仏教文化を形成した会津の高寺の存在は“目の上のたん瘤”だったのだろう。
地方統制のために各地に置かれた郡を治めるための役所機関、すなわち、郡衙(ぐんが)の画策によって高寺は歴史上から抹殺(殺戮)され、辛うじていくつかの地名の残存が高寺伝承を裏付けるだけとなった。
戊辰の役。
京都を焼き討ちにし、天皇を奪おうとした長州、その殺戮集団と同盟を結んだ薩摩。
裏工作に長け、偽の錦の御旗を掲げた長州、薩摩を中心とした西軍が官軍とされ、孝明天皇の信任厚かった会津が賊軍とされた。
江戸無血開城の立役者、幕臣の勝海舟(下工作は山岡鉄舟による)は江戸を救った英雄とされる。
勝の云う“誠”の一字を持ってすれば、同民族による悲惨な殺し合いはある程度避けられたのではないか。
江戸無血開城によって、振り上げられて刃は徳川幕府の捨て石となった会津へ向けられ、箱館戦争で終焉を迎えた。
その後、賊軍の汚名を着せられた会津は、長年、日の目を見ることはなかった。
勝海舟を小狡い奴と主観的に評価するのもよろしくないだろう。
再度、氷川清話を読んだ。
その中で会津藩に関しての記述は1ヶ所しかなかったように思う。
「第二次長州征伐に対して、会津藩だけがなかなか長州藩との和解に賛成せず、いろいろ譬えなど設けて説明してやったらやっと受け入れてくれた」、これだけの記述である。
この一文だけに、終生、徳川幕府に仕えると云う保科正之が示した家訓が藩風となった会津藩の盲目なまでの頑迷さに、勝は匙を投げていた様子が伺える。
大局を掴めなかった会津藩の閉鎖性は、山国の地形、雪国の気候も災いしたものか。
それに比べ、倒幕派の雄、薩摩藩、西郷隆盛の人物の評価にはかなりの紙面を割いている。
大胆識、大誠意の人物と絶賛しているだけでなく、西南の役で賊軍となった西郷の七回忌の折には遺族のために名誉回復の運動を行っている。
勝は53歳で官を辞するが、その後も徳川家の家政に注意すること怠らず、陰に日向に国家に貢献することが少なくなかった。
明治31年、一私人の徳川慶喜が幕末以来初めて参内して明治天皇、皇后に拝謁した。
これは、京都朝廷と旧徳川将軍の和解を示し、慶喜の逆賊としての汚名も拭われたことになる。
この裏にも勝の奔走があった。
会津では、鳥羽伏見の戦いの最中、味方を置き去りにして敵前逃亡を図った“おんつぁげす”として、会津藩に京都守護職を押し付けた松平春嶽と並び、悪名高き徳川慶喜奴だが、勝は慶喜の十男精(くわし)を養子とし、孫の伊代子に配して勝家を継がせ、その直後、77歳にして脳溢血で亡くなっている。
旧徳川家臣団の、西南の役で賊軍扱いを受けた人々の、明治政府に対する怨恨を消すために、勝は自ら恃みとする“正心誠意”に従い、如何に人から罵られようとも自分の信ずる道を生きた。
会津が晴れて賊軍の汚名から解放されるのは昭和に入ってからである。
戊辰の役から60年後の昭和3年、再び巡ってきた戊辰の年に、松平容保の四男恒雄の長女勢津子が秩父宮家に輿入れが決まってのことである。
この陰にも、勝のような人間の、知られざる奔走があったのだろう。
勝の評価はさておき、話が進む内にあれこれと引用してしまい、今回の日記をどう締め括ったらよいものかどうか。
歴史は勝者の論理によって作られ、勝者が正義とされる。
だから鵜呑みに出来ない。
そこに歴史のおもしろみもある。
そうして感じるのは、世の中の不条理さ。
だからいつまで経っても莫迦な人間が居なくなることはない。
そこに此岸での、まやかしの差が表れる。
それは社会的地位であったり、貧富の差であったり、学歴であったり。
それがどうしたことだ。
勝は云う。
無学な人ほど真実、知識よりも人間の精神、理屈よりも体験と。
彼岸に行けば精神、魂のみ。
それを磨くのが此岸の現世。
清貧に生きた古人は疾うに知っていた。
自分の心に神を宿し、それに掌を合わせ、自分に偽りなく正直に生きた。
見えざるものの力、存在を信じ、自然の流れに沿って謙虚に生きた。
精神は正心、律する心。
そうあれば何も恐れるものはない。
勝が脳溢血で亡くなる前に遺した最後の言葉、俗人に吐けるものではない。
コレデオシマイ、これだけである。
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