「なんだか宗教色が強くて、それに気持ちが暗くなる。しかも文がまとまっていないし表現も硬いよ」
今回の日記を初めて読んだ家人の感想。
それでもよかろうと衆前に晒した。
死。
不吉なもの、忌まわしいものと避けられることが多いが、人生の終着である死に向かって生きているのは事実。
聖人君子めいた事を言うつもりはさらさらない。
宗教の勧誘をするつもりでもない。
感じたまでを認めただけである。
一昨年の暮れ、一ヶ月程入院した。
入院の日々、否が応にも自分を見詰めざるを得ない時間がたっぷりと横たわる。
私のような、考えなくてもいい事をくよくようだうだ考える貧乏性の質の人間は、自らを自らに孤に追いやる嫌いがある。
そうやって暇を持て余しては、人間観察と読書、そして、内観である。
相部屋の患者と同じ境遇にある今の立場を、傷を舐め合うように共有し合う仲間意識を持つこともない。
相部屋の患者同士、互いに狸寝入りをしながら、見舞う家族、客の会話を盗み聞き、あるいは素知らぬ振りを装いながら盗み見、その人間をそれとなく推し量る。
深刻な病の患者と自分を比べる。
その度合いの差に救いを見出そうとする。
それを家族にひそひそ話し、身内皆して知らず知らずに毒のある優越感に浸る。
医師、看護士の本統の顔が見える。
“医は仁術なり”
儒教の最高の徳である仁。
それを精一杯実践しようとするのは看護士の卵の研修生ばかりか。
経験を積めば積むほど、年齢を重ねれば重ねるほど、いたわり、思いやり、慈しみの心は離れ、時に使い分けておざなりになる。
慣れは、仕方のないもので具合がいいもので、恐ろしいものである。
莫迦な人間どもは、四苦八苦して痛い目に会って初めて自分の愚かさに気付く。
それに気付いてやり直せるならまだいい。
手遅れになれば嘆きの中で死ぬだけである。
四苦八苦は仏教における苦しみであり、根本的な苦しみを生老病死の四苦とし、この四苦に加え、愛別離苦(愛するものと分かれなければならない苦しみ)、怨憎会苦(憎んでいる対象に出会う苦しみ)、求不得苦(欲しいものが得られない苦しみ)、五陰盛苦(心身の機能が活発なため起こる苦しみ)の四つを加えて八苦と云う。
今回の入院で、当たり前に機能する身体の有り難み、身内の支え、木っ端のような人生を、ずしんとした鈍い響きが身体の芯から聞こえるくらいに思い知らされた。
見える、聴こえる、話せる、嗅げる、味わえる、感じられる、動かせる、排便排尿が出来る、呼吸が出来る、無意識の内に機能している身体は何と慎み深いものか。
当たり前と思っていたものが当たり前でないと知った時の衝撃、これは経験した者でないと分からない。
事故死、病死、殺人、自殺。
全国のどこかで毎日誰かが命を落としている。
その確率は天文学的な割合であっても新聞を見れば実感できる。
お悔やみの欄を見れば享年によって遺族の嘆きの顔が浮かぶ。
朝にあった命が、夕に存命しているかどうか、誰も保証できない。
まさかそんな不幸な出来事が、突然、我が身に降り懸かるとは誰も思わない。
そこに人間の愚かさがある。
遅かれ早かれ、死は必ず訪れる。
死は絶対である。
潮がひたひたと静かに満つるように、いつの間にか我が身に迫り来る。
死と向きあってようやく危うき生を知る。
何が大切で、何がほんものなのか、金、名声、地位、そんなものは糞喰らえ、となる。
哀しくも大方は老いてそれを知る。
そう思い行き着けば、日々の生き方は、仇や疎かにはできない。
病室から見える風景、自然の移ろいに自分の人生を重ねた。
すっぽりと街を被う晩秋の朝靄、凍雨に光るトタン屋根、黔々とした雨雲が発す幾筋もの稲光、初冬の空に舞う一匹の蜻蛉、夕闇と一になる稜線。
日常、何気なく目にしていた風景、自然が切なく胸に迫り、我が身が哀しいほど愛しく思えた。
就寝前、他者との空間を断ち切るようにカーテンを引くと、もう一人の自分が身体の中に滑り込む。
内には隣の患者の鼾と、就寝前に巡回する看護士の足音、外には漆黒の闇を走るタイヤの回転音。
眼を閉じた暗闇に、しばらくすると言葉や形にならない塊が茫と現れた。
その塊は何を示していたのか。
退院後、薄皮を一枚一枚剥ぐような冷徹した眼で、“もの”の本質を、人を、見るようになった。
入院中に読んだ書物の一節が、気弱になった心を、ぐいっと鷲掴みにして揺さぶった。
14世紀の文人、吉田兼好の徒然草の一節である。
死後は序を待たず。死は、前よりしも来たらず、かねて後ろに迫れり。人皆死ある事を知りて、待つことしかも急ならざるに、覚えずして来る。沖の干潟遥かなれども、磯より潮の満つるが如し。(第155段)
されば、人、死を憎まば、生を愛すべし。存命の喜び、日々に楽しまざらんや。愚かなる人、この楽しげを忘れて、いたづがはしく外の楽しびを求め、この財を忘れて、危うく他の財を貪るには、志満つ事なし。生ける間生を楽しまずして、死に臨みて死を恐れば、この理あるべからず。人皆生を楽しまざるは、死を恐れざる故なり。死を恐れざるにはあらず、死の近き事を忘るるなり。もしまた、生死の相にあづからずといはば、実の理を得たりといふべし。(第93段)
真実は時代を超える。
今回の日記を初めて読んだ家人の感想。
それでもよかろうと衆前に晒した。
死。
不吉なもの、忌まわしいものと避けられることが多いが、人生の終着である死に向かって生きているのは事実。
聖人君子めいた事を言うつもりはさらさらない。
宗教の勧誘をするつもりでもない。
感じたまでを認めただけである。
一昨年の暮れ、一ヶ月程入院した。
入院の日々、否が応にも自分を見詰めざるを得ない時間がたっぷりと横たわる。
私のような、考えなくてもいい事をくよくようだうだ考える貧乏性の質の人間は、自らを自らに孤に追いやる嫌いがある。
そうやって暇を持て余しては、人間観察と読書、そして、内観である。
相部屋の患者と同じ境遇にある今の立場を、傷を舐め合うように共有し合う仲間意識を持つこともない。
相部屋の患者同士、互いに狸寝入りをしながら、見舞う家族、客の会話を盗み聞き、あるいは素知らぬ振りを装いながら盗み見、その人間をそれとなく推し量る。
深刻な病の患者と自分を比べる。
その度合いの差に救いを見出そうとする。
それを家族にひそひそ話し、身内皆して知らず知らずに毒のある優越感に浸る。
医師、看護士の本統の顔が見える。
“医は仁術なり”
儒教の最高の徳である仁。
それを精一杯実践しようとするのは看護士の卵の研修生ばかりか。
経験を積めば積むほど、年齢を重ねれば重ねるほど、いたわり、思いやり、慈しみの心は離れ、時に使い分けておざなりになる。
慣れは、仕方のないもので具合がいいもので、恐ろしいものである。
莫迦な人間どもは、四苦八苦して痛い目に会って初めて自分の愚かさに気付く。
それに気付いてやり直せるならまだいい。
手遅れになれば嘆きの中で死ぬだけである。
四苦八苦は仏教における苦しみであり、根本的な苦しみを生老病死の四苦とし、この四苦に加え、愛別離苦(愛するものと分かれなければならない苦しみ)、怨憎会苦(憎んでいる対象に出会う苦しみ)、求不得苦(欲しいものが得られない苦しみ)、五陰盛苦(心身の機能が活発なため起こる苦しみ)の四つを加えて八苦と云う。
今回の入院で、当たり前に機能する身体の有り難み、身内の支え、木っ端のような人生を、ずしんとした鈍い響きが身体の芯から聞こえるくらいに思い知らされた。
見える、聴こえる、話せる、嗅げる、味わえる、感じられる、動かせる、排便排尿が出来る、呼吸が出来る、無意識の内に機能している身体は何と慎み深いものか。
当たり前と思っていたものが当たり前でないと知った時の衝撃、これは経験した者でないと分からない。
事故死、病死、殺人、自殺。
全国のどこかで毎日誰かが命を落としている。
その確率は天文学的な割合であっても新聞を見れば実感できる。
お悔やみの欄を見れば享年によって遺族の嘆きの顔が浮かぶ。
朝にあった命が、夕に存命しているかどうか、誰も保証できない。
まさかそんな不幸な出来事が、突然、我が身に降り懸かるとは誰も思わない。
そこに人間の愚かさがある。
遅かれ早かれ、死は必ず訪れる。
死は絶対である。
潮がひたひたと静かに満つるように、いつの間にか我が身に迫り来る。
死と向きあってようやく危うき生を知る。
何が大切で、何がほんものなのか、金、名声、地位、そんなものは糞喰らえ、となる。
哀しくも大方は老いてそれを知る。
そう思い行き着けば、日々の生き方は、仇や疎かにはできない。
病室から見える風景、自然の移ろいに自分の人生を重ねた。
すっぽりと街を被う晩秋の朝靄、凍雨に光るトタン屋根、黔々とした雨雲が発す幾筋もの稲光、初冬の空に舞う一匹の蜻蛉、夕闇と一になる稜線。
日常、何気なく目にしていた風景、自然が切なく胸に迫り、我が身が哀しいほど愛しく思えた。
就寝前、他者との空間を断ち切るようにカーテンを引くと、もう一人の自分が身体の中に滑り込む。
内には隣の患者の鼾と、就寝前に巡回する看護士の足音、外には漆黒の闇を走るタイヤの回転音。
眼を閉じた暗闇に、しばらくすると言葉や形にならない塊が茫と現れた。
その塊は何を示していたのか。
退院後、薄皮を一枚一枚剥ぐような冷徹した眼で、“もの”の本質を、人を、見るようになった。
入院中に読んだ書物の一節が、気弱になった心を、ぐいっと鷲掴みにして揺さぶった。
14世紀の文人、吉田兼好の徒然草の一節である。
死後は序を待たず。死は、前よりしも来たらず、かねて後ろに迫れり。人皆死ある事を知りて、待つことしかも急ならざるに、覚えずして来る。沖の干潟遥かなれども、磯より潮の満つるが如し。(第155段)
されば、人、死を憎まば、生を愛すべし。存命の喜び、日々に楽しまざらんや。愚かなる人、この楽しげを忘れて、いたづがはしく外の楽しびを求め、この財を忘れて、危うく他の財を貪るには、志満つ事なし。生ける間生を楽しまずして、死に臨みて死を恐れば、この理あるべからず。人皆生を楽しまざるは、死を恐れざる故なり。死を恐れざるにはあらず、死の近き事を忘るるなり。もしまた、生死の相にあづからずといはば、実の理を得たりといふべし。(第93段)
真実は時代を超える。
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