今年の正月番組で「白虎隊」が放映された。
脚色された物語の中身について兎や角述べるつもりはないが、この番組に登場したある人物の生き様に触れたい。
その人物の名は日向内記(ひなたないき)。
白虎隊士中ニ番隊隊長として、慶応4年(1868年)、8月22日、上級武士の子弟16、17歳で構成された白虎隊士30数名を率いて戸ノ口原に出陣するも、予想を上回る西軍の猛攻に成す術なく退却を余儀なくされる。
菰土山(こもつちやま)の陣地で一時待機するが、この頃の8月は新暦で10月、冷たい雨が降りしきる中、食料もなく空腹に堪える隊士らを見た日向は、隊長自ら食料調達に出向くことを決する。
残された隊士らは寒さ、飢え、疲れで途方に暮れ、敵の攻撃が強くなったのを境に退却。途中、滝沢山麓では何人かが逸れ、弁天洞門を潜り飯盛山に辿り着いたのは20名だった。
飯盛山から見える会津城下は、敵の攻撃だけでなく、会津藩兵らが放った火によって地獄絵図と化していた。
立ち上る黒煙に鶴ケ城が見え隠れした。
疲労困憊の白虎隊士20名らは戦わずして自刃を決めた。
これが“白虎隊の悲劇”である。
白虎隊ほど知られていないが、“少年達の悲劇”はもう一つある。
白虎隊自刃の約一月前、二本松藩は三春藩の裏切りによって孤立無援になった。
藩領に急迫した西軍への防備のため霞ケ城の兵力は不足、そのため藩は13歳までの少年の出陣を許可した。
少年達の数度に亘る出陣嘆願も藩の決断を促した。
正式に編成された会津藩の白虎隊とは違い、落城を直前して俄かに配属された彼らに隊名はなかった。
後に、“二本松少年隊”と呼ばれた彼らは、新式銃を手にした西軍相手に怯むことなく果敢に戦いを挑んだ。
刀を抜くのも少年達の身体が小さかったため、仲間に抜いてもらったり、あるいは二人が向かい合い腰を折って、互いに相手の刀を抜いたと少年隊の生存者が伝えている。
7月29日、隊長の木村銃太郎ほか数名が戦死し、ついに霞ケ城は炎上、焼け落ちた。奥羽越列藩同盟の信義のために戦った二本松藩の玉砕戦は長岡藩同様、他の藩には見られない壮絶な最後だった。
戦死した少年隊は、隊長の木村22歳、副隊長の二階堂衛守33歳の二人を除き、14名に上る。
戦わずして自刃した白虎隊士中二番隊。
片や、獅子奮迅の戦いの末、負傷、戦死した二本松少年隊。
話は白虎隊に戻り、日向内記は隊士らと離れ離れになった後、どうにかして鶴ヶ城に辿り着き、生き長らえた白虎隊士らで新たに組織された白虎隊の隊長に再選された。
郡上藩の凌霜隊も指揮下において西出丸口で奮戦、籠城戦を戦い抜いている。
日向が士中二番隊の自刃を知ったのは会津藩が降伏開城した後だった。
そして、日向の不運は戊辰戦争後から始まる。
戊辰戦争に敗れた会津藩は、北辺の地の田名部に新生“斗南藩”を再興すべく、旧藩士家族ら1万7千人が陸路、海路を経て移住した。
その中には日向一家の姿もあった。
寒冷不毛の地での厳しい開墾作業が軌道に乗るまで政府の救助米に頼るが、割当少ない救助米を補充するために山野の葛や蕨の根を掘り起こして澱粉とし、海岸に出向いては昆布、若布などの海草を拾って食いつないだ。
山鳩も捕って食した。
地元の人間からは“会津のげだか(毛虫)”と呼ばれ蔑まされた。
そうまでしても栄養失調者は続出、着る物も真冬の厳寒時に夏物の単衣を重ねて凌ぐ有様だった。
そんな飢餓地獄の中、日々の苦しさの吐け口がいつの間にか日向に向けられるようになった。
“白虎隊を置き去りにした卑怯者”
同郷者からそう罵られるようになった。
明治4年(1871年)、廃藩置県が施行されると同時に、藩知事であった幼い松平容大(かたはる)と容保親子は斗南を去り、斗南県は弘前県に合併、さらに青森県に改められた。
会津藩再興の地“斗南”はこの時、消滅した。
主が去り、国を失って、精神的支柱を失くした旧藩士らは身も心も難民となった。
女子供の身売りにまで及ぶ飢餓地獄から脱するには故郷の愛する山河に帰るしかなかった。
斗南に移住した人間の約6割が会津に戻ったと云う。
日向一家も会津に戻るが、数年振りの懐かしい会津の地でも日向に対する怨嗟の声は止むことなく、そのため満足に職に就くことも出来ず、日向にとって会津は最早安住の地には成り得なかった。
止むなく喜多方に移住するが、ここでも卑怯者呼ばわりされ、日雇い仕事で糊口を凌ぐほかなかった。
明治18年(1885年)11月14日、喜多方で失意の内に59歳の生涯を閉じた。
「あなたは日向がどんな人間か知っているのか。会津に住めなかったんだよ。」
「私が日向の立場だったら切腹している。恥晒しだ。」
現在の会津においても年長者から強い口調で言われたことがこれまで二度ある。
日向に対して良い評価を私は一度たりとも聞いたことがない。
しかし、私には、隊長の命令を守らずして持ち場を離れた白虎隊にも非はあるところ、一切の弁明せずして心の内を一人胸にしまい、墓に持ち去った日向に、会津武士の本統の姿が見える。
“会津藩の若き指導者”である山川大蔵(後に浩)の後任として砲兵隊長に任命され、歴戦の朱雀隊を指揮し、籠城戦でも活躍、凌霜隊からも慕われていたほどの日向がどうして切腹を恐れようか。
我が身可愛さに敵前逃亡を謀る小心者に、同郷者から相手にされない針の筵の過酷な状況の中で、どうして斗南での想像を絶する飢餓地獄を乗り越えることが出来ようか。
生き恥を晒すより自裁することのほうが遥かに容易だったに違いない。
自裁しなかったことに日向の無言の抵抗を感じる。
死ぬよりも、より苦しい生きる道を選んだ日向の心の内を誰が知るものか。
現在の会津人からも謗られる日向が憐れでならない。
日向の心情を思い遣った時、吉川英治著「宮本武蔵」の最後の一節が脳裏に浮かんだ。
波騒は世の常である。
波にまかせて、泳ぎ上手に、雑魚は歌い雑魚は躍る。けれど、誰か知ろう、百尺下の水の心を。水のふかさを。
日向の墓は喜多方市の万福寺にある。
近いうち必ずや訪れたい。
脚色された物語の中身について兎や角述べるつもりはないが、この番組に登場したある人物の生き様に触れたい。
その人物の名は日向内記(ひなたないき)。
白虎隊士中ニ番隊隊長として、慶応4年(1868年)、8月22日、上級武士の子弟16、17歳で構成された白虎隊士30数名を率いて戸ノ口原に出陣するも、予想を上回る西軍の猛攻に成す術なく退却を余儀なくされる。
菰土山(こもつちやま)の陣地で一時待機するが、この頃の8月は新暦で10月、冷たい雨が降りしきる中、食料もなく空腹に堪える隊士らを見た日向は、隊長自ら食料調達に出向くことを決する。
残された隊士らは寒さ、飢え、疲れで途方に暮れ、敵の攻撃が強くなったのを境に退却。途中、滝沢山麓では何人かが逸れ、弁天洞門を潜り飯盛山に辿り着いたのは20名だった。
飯盛山から見える会津城下は、敵の攻撃だけでなく、会津藩兵らが放った火によって地獄絵図と化していた。
立ち上る黒煙に鶴ケ城が見え隠れした。
疲労困憊の白虎隊士20名らは戦わずして自刃を決めた。
これが“白虎隊の悲劇”である。
白虎隊ほど知られていないが、“少年達の悲劇”はもう一つある。
白虎隊自刃の約一月前、二本松藩は三春藩の裏切りによって孤立無援になった。
藩領に急迫した西軍への防備のため霞ケ城の兵力は不足、そのため藩は13歳までの少年の出陣を許可した。
少年達の数度に亘る出陣嘆願も藩の決断を促した。
正式に編成された会津藩の白虎隊とは違い、落城を直前して俄かに配属された彼らに隊名はなかった。
後に、“二本松少年隊”と呼ばれた彼らは、新式銃を手にした西軍相手に怯むことなく果敢に戦いを挑んだ。
刀を抜くのも少年達の身体が小さかったため、仲間に抜いてもらったり、あるいは二人が向かい合い腰を折って、互いに相手の刀を抜いたと少年隊の生存者が伝えている。
7月29日、隊長の木村銃太郎ほか数名が戦死し、ついに霞ケ城は炎上、焼け落ちた。奥羽越列藩同盟の信義のために戦った二本松藩の玉砕戦は長岡藩同様、他の藩には見られない壮絶な最後だった。
戦死した少年隊は、隊長の木村22歳、副隊長の二階堂衛守33歳の二人を除き、14名に上る。
戦わずして自刃した白虎隊士中二番隊。
片や、獅子奮迅の戦いの末、負傷、戦死した二本松少年隊。
話は白虎隊に戻り、日向内記は隊士らと離れ離れになった後、どうにかして鶴ヶ城に辿り着き、生き長らえた白虎隊士らで新たに組織された白虎隊の隊長に再選された。
郡上藩の凌霜隊も指揮下において西出丸口で奮戦、籠城戦を戦い抜いている。
日向が士中二番隊の自刃を知ったのは会津藩が降伏開城した後だった。
そして、日向の不運は戊辰戦争後から始まる。
戊辰戦争に敗れた会津藩は、北辺の地の田名部に新生“斗南藩”を再興すべく、旧藩士家族ら1万7千人が陸路、海路を経て移住した。
その中には日向一家の姿もあった。
寒冷不毛の地での厳しい開墾作業が軌道に乗るまで政府の救助米に頼るが、割当少ない救助米を補充するために山野の葛や蕨の根を掘り起こして澱粉とし、海岸に出向いては昆布、若布などの海草を拾って食いつないだ。
山鳩も捕って食した。
地元の人間からは“会津のげだか(毛虫)”と呼ばれ蔑まされた。
そうまでしても栄養失調者は続出、着る物も真冬の厳寒時に夏物の単衣を重ねて凌ぐ有様だった。
そんな飢餓地獄の中、日々の苦しさの吐け口がいつの間にか日向に向けられるようになった。
“白虎隊を置き去りにした卑怯者”
同郷者からそう罵られるようになった。
明治4年(1871年)、廃藩置県が施行されると同時に、藩知事であった幼い松平容大(かたはる)と容保親子は斗南を去り、斗南県は弘前県に合併、さらに青森県に改められた。
会津藩再興の地“斗南”はこの時、消滅した。
主が去り、国を失って、精神的支柱を失くした旧藩士らは身も心も難民となった。
女子供の身売りにまで及ぶ飢餓地獄から脱するには故郷の愛する山河に帰るしかなかった。
斗南に移住した人間の約6割が会津に戻ったと云う。
日向一家も会津に戻るが、数年振りの懐かしい会津の地でも日向に対する怨嗟の声は止むことなく、そのため満足に職に就くことも出来ず、日向にとって会津は最早安住の地には成り得なかった。
止むなく喜多方に移住するが、ここでも卑怯者呼ばわりされ、日雇い仕事で糊口を凌ぐほかなかった。
明治18年(1885年)11月14日、喜多方で失意の内に59歳の生涯を閉じた。
「あなたは日向がどんな人間か知っているのか。会津に住めなかったんだよ。」
「私が日向の立場だったら切腹している。恥晒しだ。」
現在の会津においても年長者から強い口調で言われたことがこれまで二度ある。
日向に対して良い評価を私は一度たりとも聞いたことがない。
しかし、私には、隊長の命令を守らずして持ち場を離れた白虎隊にも非はあるところ、一切の弁明せずして心の内を一人胸にしまい、墓に持ち去った日向に、会津武士の本統の姿が見える。
“会津藩の若き指導者”である山川大蔵(後に浩)の後任として砲兵隊長に任命され、歴戦の朱雀隊を指揮し、籠城戦でも活躍、凌霜隊からも慕われていたほどの日向がどうして切腹を恐れようか。
我が身可愛さに敵前逃亡を謀る小心者に、同郷者から相手にされない針の筵の過酷な状況の中で、どうして斗南での想像を絶する飢餓地獄を乗り越えることが出来ようか。
生き恥を晒すより自裁することのほうが遥かに容易だったに違いない。
自裁しなかったことに日向の無言の抵抗を感じる。
死ぬよりも、より苦しい生きる道を選んだ日向の心の内を誰が知るものか。
現在の会津人からも謗られる日向が憐れでならない。
日向の心情を思い遣った時、吉川英治著「宮本武蔵」の最後の一節が脳裏に浮かんだ。
波騒は世の常である。
波にまかせて、泳ぎ上手に、雑魚は歌い雑魚は躍る。けれど、誰か知ろう、百尺下の水の心を。水のふかさを。
日向の墓は喜多方市の万福寺にある。
近いうち必ずや訪れたい。
コメント
淀みなく、一気に読み通しました。
日向内記とは、敗者のなかの更なる敗者でしょうか?
西郷頼母にも同様の悲哀を感じます。
さらにいえば、戦国武将の荒木村重にも。
あえて生き恥をかいた男たち。
生きる苦しみこそが、彼らの選んだ道なのでしょうね。
村重、利休七哲の一人と言えば何度かその名は目にしているはずですが、改めて知った思いです。
会津領主、利休七哲の筆頭、蒲生氏郷とも親交があったでしょう。
ウィキメディアで読みましたが、当時、勢い凄まじい信長に反旗を翻すとは、剛毅な男ですね。
名は覚えましたので機会があれば関連する書物を読みたいと思います。
陰陽道にも通じ、御式内(殿中武術)を武田惣角に伝え、西郷四郎の父とも言われるこ西郷頼母、私にとってなかなか理解できない人物でもあり、大変興味深い人物でもあります。
郷土史に詳しい諸先輩にも伺ってみても、私の中では確とした評価を得るまでには至っておりません。
私なりに深い人生経験を踏まえることができれば、いずれ濁りなき眼で見えることがあるでしょう。
いやいや、一生理解できないかもしれません。
でも、それが歴史のおもしろさでもありますね。