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雨蛙か昆虫の糞だろう。
山椒の葉の上のそれを指で弾き飛ばそうと身を屈めた。
ん、小さな驚きが口の中で漏れた。
見た目は紛れもなく糞だが、何かが違う。
それは5、6mmの大きさで、凹凸のあるごつごつした黒色の表面に覆われており、中心部には白い液体状のものが飛び散って乾いたような痕跡がある。
全く動く気配はない。
糞であれば当然。
だが、葉への取り付き方がどことなく変なのだ。
自らの意志で取り付いている、そんな代物だった。
出勤前の慌しい時間帯にゆっくり観察している暇もなく、何かの成長過程の幼虫だろうと早々と結論を下し、その場を離れた。
葉山椒は、昨年の3月、近くの農園を冷やかしに覗いた時に買ったものだ。
食い意地が張る性分からだろう、どうせ庭に植えるなら食用になるものが良いと買った。
庭には、このさもしい性格故に山椒の他にも食用となる植物が所狭しと無雑作に植えてある。
高田梅、姫林檎、ゆすら梅、朝倉山椒、ラズベリー、プルーン、ソルダム、アーモンド、鳥の糞に混じっていた種から自然発生したグミの木。
茶、料理、香り付けに使えるハーブに至っては、フェンネルほか多年草を中心に十数種類に及ぶ。
大層な広さの庭を想像するかもしれない。
さにあらず、食い意地と、草むしりの作業から解放されることを見越して少しでも空いている敷地に植えただけ。
成長後の大きさを念頭に置かずに植えれば、いずれ間引く必要に迫られるだろう。
己、この業突く張りの植栽者めが。
手入れの行き届かない山林のような庭だが、植物の身を考えぬ独善的な人間にでも、植物たちは四季の移り変わりによって生ずる彩り、香りを無償で提供してくれる。
どれだけ癒されているか知れない。
万物の霊長たる人間の、何と身勝手なものか。
定植した山椒に変な代物が取り付き始めたのは6月からだった。
何かの幼虫と認めた翌日の朝、山椒の様子を見に行くと、その変な代物は別の枝に移動していた。
相変わらずじっとしている。
目の前で一度も動いた試しがない。
なのに移動していた。
凝り固まって動かない棒状のそれは、どのように動き、移動するのか。
尺取虫のように歩むのか、それとも芋虫のようにうねうねと進むのか。
見詰められていることを知ってか知らずか、人の目を盗んでは瞬時に移動する術を隠し持っているかのように、其奴の佇まいに奥床しささえ感じるまでになった。
其奴は日増しに少しずつ大きくなっていった。
ネットで調べて此奴の正体が判明した。
ナミアゲハ。
糞のような塊の此奴が、はたはたと儚く夏空を舞う蝶の幼虫だったとは。
愛想の無い相変わらずの容姿が、ある朝、くるりと姿を変えた。
変態である。
ごつごつとした黒い肌がビロードのように滑らかな肌に変わり、鮮やかな青緑色になった。
頭部には目のような紋様が描かれている。
以前のような奥床しさは消え、人の目を気にせず、頭部を上げ下げして生まれたばかりの赤子のような柔らかな若葉ばかりを、一心不乱に、がつがつと貪り喰っている。
やがて、幼虫は子供の小指ほどの大きさになり、忽然と消えた。
山椒の葉に溶け込むかのような隠蔽色の幼虫を目を皿にして捜した。
見つからない。
昨年の夏はこの繰り返しだった。
何匹の幼虫が消えただろう。
我が家から飛び立つ蝶の姿を見ることなく、夏は終わった。
今年。
また違う夏が訪れた。
山椒の幼木に、無愛想な彼奴が、また姿を現した。
そして消えた。
消える度に、通りすがりに忘れる程度の、僅かな失望を覚えた。
8月中旬、また一匹、懲りずに山椒の葉に取り付き、大地から這い出たような姿から若葉のような鮮やかな姿に変態した。
人為的な行動に打って出た。
山椒の周りに鳥除けの幕を張った。
電線に止まっている鳥に疑いを抱いた。
幼虫は消えたのではなく、鳥に喰われたものと判断した。
ころころと太った幼虫の食べ頃を鳥どもは知っているのだ。
鳥除けの幕の中で幼虫は無心に若葉を貪り喰っていた。
8月25日、幼虫は奇妙な姿で固まっていた。
鳥除けの幕の支柱に、尾を支点として頭を上にして傾き、腕の役目を担う細い透明な糸2本が、身体の中心部と支柱をぴんと繋いでいた。
翌日には、幼虫の痕跡を一切留めず、数枚の衣をぴっしりと羽織ったようにミイラ化していた。
蛹になった。
それから1週間後、まだ飛び立つ気配を見せてはいない。
糞状の幼虫の“静”から、鮮やかな青緑色の幼虫の“動”へ、そして今、最後の“動”となる蝶の姿に変わる前に、蛹として静謐の時を過ごしている。
此奴に何かを期待している。
期待しているから手を差し伸べた。
自分の庭から飛び立つ蝶の姿を見たい、それだけでないことは確かだ。
宇宙規模で考えれば人間は糞にも屁にもならない滓以下だ。
そんな存在でありながら一生の大半を齷齪と暮らす。
自分のため、家族のため、社会のため。
好きなように生きる、それがどれだけ困難な事か、まともな大人なら誰でも知っている。
何かしらに繋がっている、だから生きていける。
四十而不惑。
こんな戯けを誰が言ったか、惑うばかりの四十を越えて、それら繋がりを全て絶ち、身を野に晒しながら生きてみたいと狂気染みた想いに囚われるようになった。
首都高から見える河川敷の青いテントを見るにつけ、私と同種の人間の存在に、それを実践していることに羨望に近い感情を持つようになった。
ただ違うのは、彼らがまだ都会と繋がっていること。
飛翔し、吸蜜し、一瞬の交尾に命を燃やして卵を産み果てる蝶の短き一生。
生きる、その濃密さにおいて人間はたかが虫ごときの足元に遠く及ばない。
生の長短ではない。
蛹の殻を破り、紺碧の空へ飛び立つ時、私も飛び立つ。
洗い浚い、何もかも捨てろ。
自然に身を投げろ。
命を燃やせ。
その無念を、飛翔の時を静かに待つ此奴に、私は託す。
山椒の葉の上のそれを指で弾き飛ばそうと身を屈めた。
ん、小さな驚きが口の中で漏れた。
見た目は紛れもなく糞だが、何かが違う。
それは5、6mmの大きさで、凹凸のあるごつごつした黒色の表面に覆われており、中心部には白い液体状のものが飛び散って乾いたような痕跡がある。
全く動く気配はない。
糞であれば当然。
だが、葉への取り付き方がどことなく変なのだ。
自らの意志で取り付いている、そんな代物だった。
出勤前の慌しい時間帯にゆっくり観察している暇もなく、何かの成長過程の幼虫だろうと早々と結論を下し、その場を離れた。
葉山椒は、昨年の3月、近くの農園を冷やかしに覗いた時に買ったものだ。
食い意地が張る性分からだろう、どうせ庭に植えるなら食用になるものが良いと買った。
庭には、このさもしい性格故に山椒の他にも食用となる植物が所狭しと無雑作に植えてある。
高田梅、姫林檎、ゆすら梅、朝倉山椒、ラズベリー、プルーン、ソルダム、アーモンド、鳥の糞に混じっていた種から自然発生したグミの木。
茶、料理、香り付けに使えるハーブに至っては、フェンネルほか多年草を中心に十数種類に及ぶ。
大層な広さの庭を想像するかもしれない。
さにあらず、食い意地と、草むしりの作業から解放されることを見越して少しでも空いている敷地に植えただけ。
成長後の大きさを念頭に置かずに植えれば、いずれ間引く必要に迫られるだろう。
己、この業突く張りの植栽者めが。
手入れの行き届かない山林のような庭だが、植物の身を考えぬ独善的な人間にでも、植物たちは四季の移り変わりによって生ずる彩り、香りを無償で提供してくれる。
どれだけ癒されているか知れない。
万物の霊長たる人間の、何と身勝手なものか。
定植した山椒に変な代物が取り付き始めたのは6月からだった。
何かの幼虫と認めた翌日の朝、山椒の様子を見に行くと、その変な代物は別の枝に移動していた。
相変わらずじっとしている。
目の前で一度も動いた試しがない。
なのに移動していた。
凝り固まって動かない棒状のそれは、どのように動き、移動するのか。
尺取虫のように歩むのか、それとも芋虫のようにうねうねと進むのか。
見詰められていることを知ってか知らずか、人の目を盗んでは瞬時に移動する術を隠し持っているかのように、其奴の佇まいに奥床しささえ感じるまでになった。
其奴は日増しに少しずつ大きくなっていった。
ネットで調べて此奴の正体が判明した。
ナミアゲハ。
糞のような塊の此奴が、はたはたと儚く夏空を舞う蝶の幼虫だったとは。
愛想の無い相変わらずの容姿が、ある朝、くるりと姿を変えた。
変態である。
ごつごつとした黒い肌がビロードのように滑らかな肌に変わり、鮮やかな青緑色になった。
頭部には目のような紋様が描かれている。
以前のような奥床しさは消え、人の目を気にせず、頭部を上げ下げして生まれたばかりの赤子のような柔らかな若葉ばかりを、一心不乱に、がつがつと貪り喰っている。
やがて、幼虫は子供の小指ほどの大きさになり、忽然と消えた。
山椒の葉に溶け込むかのような隠蔽色の幼虫を目を皿にして捜した。
見つからない。
昨年の夏はこの繰り返しだった。
何匹の幼虫が消えただろう。
我が家から飛び立つ蝶の姿を見ることなく、夏は終わった。
今年。
また違う夏が訪れた。
山椒の幼木に、無愛想な彼奴が、また姿を現した。
そして消えた。
消える度に、通りすがりに忘れる程度の、僅かな失望を覚えた。
8月中旬、また一匹、懲りずに山椒の葉に取り付き、大地から這い出たような姿から若葉のような鮮やかな姿に変態した。
人為的な行動に打って出た。
山椒の周りに鳥除けの幕を張った。
電線に止まっている鳥に疑いを抱いた。
幼虫は消えたのではなく、鳥に喰われたものと判断した。
ころころと太った幼虫の食べ頃を鳥どもは知っているのだ。
鳥除けの幕の中で幼虫は無心に若葉を貪り喰っていた。
8月25日、幼虫は奇妙な姿で固まっていた。
鳥除けの幕の支柱に、尾を支点として頭を上にして傾き、腕の役目を担う細い透明な糸2本が、身体の中心部と支柱をぴんと繋いでいた。
翌日には、幼虫の痕跡を一切留めず、数枚の衣をぴっしりと羽織ったようにミイラ化していた。
蛹になった。
それから1週間後、まだ飛び立つ気配を見せてはいない。
糞状の幼虫の“静”から、鮮やかな青緑色の幼虫の“動”へ、そして今、最後の“動”となる蝶の姿に変わる前に、蛹として静謐の時を過ごしている。
此奴に何かを期待している。
期待しているから手を差し伸べた。
自分の庭から飛び立つ蝶の姿を見たい、それだけでないことは確かだ。
宇宙規模で考えれば人間は糞にも屁にもならない滓以下だ。
そんな存在でありながら一生の大半を齷齪と暮らす。
自分のため、家族のため、社会のため。
好きなように生きる、それがどれだけ困難な事か、まともな大人なら誰でも知っている。
何かしらに繋がっている、だから生きていける。
四十而不惑。
こんな戯けを誰が言ったか、惑うばかりの四十を越えて、それら繋がりを全て絶ち、身を野に晒しながら生きてみたいと狂気染みた想いに囚われるようになった。
首都高から見える河川敷の青いテントを見るにつけ、私と同種の人間の存在に、それを実践していることに羨望に近い感情を持つようになった。
ただ違うのは、彼らがまだ都会と繋がっていること。
飛翔し、吸蜜し、一瞬の交尾に命を燃やして卵を産み果てる蝶の短き一生。
生きる、その濃密さにおいて人間はたかが虫ごときの足元に遠く及ばない。
生の長短ではない。
蛹の殻を破り、紺碧の空へ飛び立つ時、私も飛び立つ。
洗い浚い、何もかも捨てろ。
自然に身を投げろ。
命を燃やせ。
その無念を、飛翔の時を静かに待つ此奴に、私は託す。
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