1989年(平成元年)11月の或る日、自宅でテレビを見ていた。
画面に大きく映し出されたのは、巨大なコンクリートの壁に向かい、ハンマーを振りかざし、あるいは重機を使って壁を破壊している人々の姿。
壁の天辺に立ち上がり、手を取り合って喜ぶ外国人の姿も映る。
“歓喜の渦”、この言葉以外に表現の仕様がない、そんな光景だった。
二十歳代半ば、己が前途に希望を見出せず、生きる屍の虚無の瞳で、テレビに映る訳の分からぬ光景を遠い国の出来事として、冷ややかに眺めていたのを覚えている。
先月9月の日曜日、久しぶりにスクリーンを通して観た映画を思い返し、そんな事を断片的に想い出した。

1945年、第二次世界大戦に敗北したドイツは、戦勝国の連合国(米・英・仏・ソ)に分割統治され、西ドイツ側を米・英・仏の資本主義国が、東ドイツ側をソ連の社会主義国がそれぞれ統治するようになった。
東ドイツに囲まれた旧ドイツ国の首都であったベルリン市も東西に分断された。
その際、資本主義、社会主義の思想の摩擦により、西ドイツの離れ小島と化した西ベルリン市を囲む形で建設されたのが、長さ155kmに及ぶ“ベルリンの壁”である。
この壁は形の上では西ベルリンを囲んでいるが、実際は、東ドイツ国民が民主化を求めて西ベルリンを経由して西ドイツへ流出(亡命)することを防ぐためのものであり、東ドイツ国民を隔離するための“壁”だったのである。
私が観た映画の舞台となったのは、1984年、ドイツ社会主義統一党のエーリッヒ・ホーネッカー書記長が秘密警察である国家保安省を動員して国民の統制を強めていた、東西冷戦下の東ベルリンであった。

国家保安省局員のヴィースラー大尉は、国家の忠実な下僕として反体制的思想家やそのシンパを、淡々と、冷酷無比に取り締まっていた。
その有能さを買われ、劇作家のドライマンとその恋人である舞台女優のクリスタが反体制派であるという証拠を掴むように命じられる。
国家という名の主人に忠実に仕える番犬の先には、その餌となる出世がぶら下がっていた。
ヴィースラー大尉はドライマンの家の至る所に盗聴器を仕掛け、屋根裏には監視室を設け、虫一匹の音さえ逃さぬ監視網を敷いた。
24時間の監視体制の下、家の内部で展開されるありとあらゆる会話や行動は全て盗聴され、逐一報告された。
動物実験を何度も繰り返す非情な科学者を思わせる眼差しでヴィースラー大尉は二人の容疑者を監視した。
しかし、盗聴中に聴こえてきたドライマンのピアノの演奏を境に、否、この二人に係わって間もなくしてからすでにヴィースラー大尉の内部では、私情挟むべからずという監視の初歩的な基本を外に追いやってしまうほどの何かが芽生え、何かが狂い始めていた。
日々紡ぎだされる言葉、音楽、愛、背徳、葛藤…。
監視室の下には自分が体験したことのない豊潤な世界が広がっていた。
二人の愛に感化され娼婦を抱くヴィースラー大尉。
愛があって男女の本当のセックスがあり、愛し愛される悦びがあることを知る。
いつしかヴィースラー大尉の眼差しは、二人を監視することから見守ることへ変化していった。

この後の展開はこの辺で止めよう。
私の拙いあらすじを読んで映画を観てくれる人がいるかもしれない。
その方に対してこれ以上の説明は野暮というもの。

自分の過去を振り返り、切れ切れの思い出を少しだけ繋ぎ合わせてみる。
ベルリンの壁の崩壊をテレビで目にした18年前、その頃の自分は何者だったのか。
当時の自分の写真を見ると、そこには、印象のない、のっぺりした顔の人間が突っ立っている。
顔は私本人でも別人のように見える。
魂がすっぽりと抜け落ちた蛻の殻。
自らの意志で抗うことのない、易きに流れる根無し草。
青底翳の発症、東京での失意の生活、無職の日々、祖父の死、伯母の死、飼い犬鉄平の死、就職、転職、結婚、両眼の手術、飼い犬太郎の死、離婚、左眼の再手術、昇段審査、友人の自殺、祖母の死、初めて死を意識した検査入院、最後の一人である伯母の死。
様々な体験を通して今の己の顔がある。
この体験がなかったら、汚穢にまみれた現代の世に、昔の、のっぺりとした自分がまだ居座っていただろう。
死にたいと思ったことは一度もないが、顧みてもう一度同じように生きたいとは思わない。
生きることはしんどい。
これからもそうだろう。
事実、そうであろうとも落胆はしない。
人生を、捨てはしない。
そう思い至るようになったのは様々な体験に因るばかりではない。
それは、成功者と犯罪者の紙一重に四苦八苦して生きる莫迦な人間どもであり、夏の暑い最中に道路工事に汗を流す六十歳代の女性の姿であり、駅や病院などの公衆便所を掃除する清掃員の姿であり、川から粗大ごみを一人黙々と引き上げる男性の姿であり、シベリアに抑留された日本兵の魂の絆であり、難病に立ち向かう人々であり、自然保護運動の先駆者として神社合祀に反対した南方熊楠であり、板画の鬼として力強い傑作を数多く遺した棟方志功であり、日本最初の公害である足尾鉱毒事件を告発し身命を賭して明治天皇に直訴を試みた田中正造であり、壮絶な人生を生きた“最後の瞽女”小林ハルであり、生涯をハンセン病患者の救済に捧げた井深八重であり、日本初の知的障害児教育に取り組んだ石井亮一・筆子夫妻であり、日本のナイチンゲールと称された社会福祉事業の先覚者の瓜生岩子であり、人間愛を教えてくれたマザー・テレサであり、貧困層を救うためにグラミン銀行を創設したモハメド・ユヌスであり、破天荒の禅僧一休宗純であり、風雅清貧の僧“大愚”良寛であり、徒然草の作者吉田兼好であり、私を取り巻く生きとし生ける身近な自然界であり、数々の書物、そして、妹、弟、母が、教えてくれた。

人間の営みが自然に則していなければ地球が滅亡するその時まで、世界で、日本で、巷で、人間のおぞましい所業は決して消滅することはない。
愚かな人間どもが蠢く悪行の闇を歩むとも、己が信じる道を生き抜いた先人を励みに、人知れず市井に埋もれながらも良心に生きる人間の存在を信じ、花鳥風月を友とし、生きられるだけしぶとく生き抜き、人間のみが意識し得る心に、光を灯し続けたい。
晩秋の夕暮れ、風に乗って部屋に届く燃した籾殻の匂いを、鼻腔の奥に微かに感じながらしばらくそんな事を考えていた。

※映画は2006年ドイツ作品「善き人のためのソナタ」

コメント

nophoto
浜通り山沿いの住人
2007年10月16日9:00

井の中の蛙様へ、本日の感想・・・重いですね。

あと、自分頭悪いので、時々わからない漢字があります。

朴念仁
スター
2007年10月16日12:06

毎回、一人相撲で書いていますが、書くことで自分の気持ちがしっかり固まるようです。
そのせいか、他人と会話して以前より自己主張が強くなったかもしれません。
我が現れないように気を付けていますが。
漢字には深みがありますよ。
不明な漢字はたくさんありますが、常用漢字が主流の世の中で本来の漢字が持つ深みがなくなっているような気がします。
洟と鼻、どちらに青ネギを垂らしたような“はな”をイメージしますか?
漢字でまざまざと浮かび上がることがよくあります。
英語が使えないこともありますが、まずは母国語を理解することが語学の基本だと思います。
日記を公開すること、私にとっては漢字の勉強にも大変役立っています。
当然、辞書を引き引きです。
コメント、ありがとうございました。

nophoto
正義の目方
2007年10月21日12:02

井の中の蛙様の書く文をいつも感銘を受けながら読んでいます。

朴念仁
スター
2007年10月22日12:03

日記は書いてから少し手元で温めて公開しています。
自分の気持ちに肉迫しているかどうか、それに納得してから。
他の人が書いた文などを読むと伝わり方が違いますね。
書き手が漢字を知っている、文法を知っている、博識である、そんな事は関係ないんですね。
野口シカさんが英世に書いた手紙が良い例です。
ろくに字さえ習わなかったのに、懸命に書いた母親の手紙は読み手の胸に迫ります。
折角こんな機会を与えられたのですから、心の襞を広げるつもりで今後も書いていきたいと思います。
読んでいただいてありがとうございます。
追伸:正義の味方先輩が言うように豚骨らーめんのK屋は噂どおりの旨さでした。次ぎはY屋に行ってみます。

朴念仁
スター
2007年10月22日12:16

味方ではなく目方でしたね。
失礼しました。

nophoto
くうやん
2007年11月25日13:59

初めて読ませて戴きました。井の中の蛙さんはとても本を読まれている事が文の書き方から伝ってきました。
生き方について人それぞれありますが、人は死を感じた時に初めて生に対して執着するようです。
井の中の蛙さんも色々苦労?しながら自分の生きる道を探してるみたいですね。
人生色々ありますが自分が生きているだけで誰かの役にたっていることもありますよ。
人もあまり居ない大自然で暮らしている私にとっては、自然が教えてくれますね、生き方を。。。。毎日が同じ日はありませんしね。
また楽しみに読ませて頂ます。

朴念仁
スター
2007年11月28日16:38

くうやんさん、コメントありがとうございます。
昨日、コメントに気付きました。
未知の方へのご返信は少し身構えてしまうような緊張感を覚えます。
ご返信が遅れたのもそのためです。
私の拙い戯言を読んでいただいて、しかもコメントまでいただくと、自分の中でいつにない恥ずかしいほどの高揚感がもやもやぁーと広がり、“豚もおだてりゃ木に登る”の如く、未熟な身に書く力を持たせてくれます。
勝手ながら、文面から人生の先輩と察しましたが、これからも率直なコメントがいただければ幸いです。
よろしくお願いします。

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