先月、調べものがあって図書館に行ってきた。
たまに仕事でも利用するが、小遣いに事欠き、文庫本も買えない月は頻繁に利用する。
無料で8冊まで借用できる図書館の存在は極めて大きい。
話題の作家、気になる作家、初めて目にする作家の本が試しに読めるのもいい。
そのお蔭で、私をして読むべきと思わしむる作家が増えていった。
新刊の単行本が読めるのも嬉しい。
薄給の身では賞与の月でもないと硬表紙の新刊なぞはとても買えないのだ。
本は身銭を切って買う、これが本統だろう。
良本よって浴する心の豊かさは金銭では計り知れないものがある。
身銭を切り、その恩恵に浴した時、自己の窮状をあっさりと笑い飛ばす余裕さえ生まれる。
だが、その良本に図書館で出合った時は困りものである。
琴線にぴんと触れた途端、物慾が擡げ、その本を返却するのが惜しくなる。
恨めしさが募る。
手元に置きたい、自己の所有物にしたいと願ってしまう。
惚れた女に出会った時のそれに近いものがある。
古本価格で購入できると嬉しいのだがそれは無理な話。
仕事の序に4冊、私用で借りた。
その内の一冊、「瓜生岩子 全」奥寺龍渓著は明治末期の美文で書かれたもの。
次回の日記から何回連載になるか分からないが、途中、中断しながらもこの美文を紹介していきたい。
現代の文体、あるいは会話調の文体に慣れ親しんでいる方には読みづらいことだろう。
私も解釈不明な文体、語彙にぶつかり飛ばし飛ばし読んだものの、大きな文字、振り仮名に助けられ以外にも読み易かった。
時代は変わっても良識ある明治人の高貴な精神性の薫りには魅せられてしまう。
この本には、過去の遺物として忘れ去られようとしている日本人の徳性が燦然とした輝きを放ち書かれている。
紹介するにあたり、私独自の解釈であること、誤りが少なからずあること、予めお断りしておく。
ここで貴重な読者に冷水を浴びせるようで多少気が引けるが、本音を吐けば、私は読み手を意識しながらも、その反応を意に介していない。
つれづれに記す、当初はお遊び感覚が強かったが、今は自己の確認作業に近い内容にまで嵩じてしまった。
世界の歴史を振り返ると、大方の人間は古来より慾に目が眩み、知らず知らずに自分の手足を喰らいて自滅の道を辿る生き物であることを、己もその種に属する一匹である遣り切れなさを、つくづくと思い知らされる。
現代の世をそうして眺むれば、地域開発、社会貢献とふざけた旗印の下にやりたい放題に森林を伐採し、大地を抉り、道路を造り、鉄道を敷設し、有害な人工物を生み出し、大量生産、大量消費を煽り、物慾を満たすだけの便利さを追求し、最後は生あるものの源である大気と海に地球上有害無用の汚物をばら撒き、垂れ流し、その様は形こそ違え歴史は繰り返される哀しさを物語っている。
今更になって二酸化炭素の排出規制など、しかも各国の下衆な思惑の絡んだ建前だけの、ふざけた戯言を投げ合っている間に愈々地球は最終局面に向かっている事実を真剣に受け止めようともしない。
人類の底なしの愚かさに対して、大気や海がいつまでもされるがままに黙っている筈があろうか。
地球滅亡、所詮、広大無限の宇宙にすれば然したる問題でもないだろうが。
社会、政治は疾うに見捨てているが、だからと言って狂躁を繰り返すばかりの社会と道連れになるのは真っ平御免であり、自分を、拗ねたガキのように見捨てる訳にもいかない。
己も業深き糞っ垂れ人間の一人であるが、糞は糞なりに綺麗事を抜かすだけの大衆が醜く貌を引き攣らせ逃げ去るほどに、己が生き様をぶち撒ける覚悟で、一日一日の生命に感謝して、精神は常に自分の中に自由に在ることを確認し、それを磨くこと、それが今の私に出来ることであり、それが私の生きる縁でもある。
つれづれに記す、どれもこれも己の魂の救済のためだけに。
四十男の戯言と、嗤わば嗤え。
たまに仕事でも利用するが、小遣いに事欠き、文庫本も買えない月は頻繁に利用する。
無料で8冊まで借用できる図書館の存在は極めて大きい。
話題の作家、気になる作家、初めて目にする作家の本が試しに読めるのもいい。
そのお蔭で、私をして読むべきと思わしむる作家が増えていった。
新刊の単行本が読めるのも嬉しい。
薄給の身では賞与の月でもないと硬表紙の新刊なぞはとても買えないのだ。
本は身銭を切って買う、これが本統だろう。
良本よって浴する心の豊かさは金銭では計り知れないものがある。
身銭を切り、その恩恵に浴した時、自己の窮状をあっさりと笑い飛ばす余裕さえ生まれる。
だが、その良本に図書館で出合った時は困りものである。
琴線にぴんと触れた途端、物慾が擡げ、その本を返却するのが惜しくなる。
恨めしさが募る。
手元に置きたい、自己の所有物にしたいと願ってしまう。
惚れた女に出会った時のそれに近いものがある。
古本価格で購入できると嬉しいのだがそれは無理な話。
仕事の序に4冊、私用で借りた。
その内の一冊、「瓜生岩子 全」奥寺龍渓著は明治末期の美文で書かれたもの。
次回の日記から何回連載になるか分からないが、途中、中断しながらもこの美文を紹介していきたい。
現代の文体、あるいは会話調の文体に慣れ親しんでいる方には読みづらいことだろう。
私も解釈不明な文体、語彙にぶつかり飛ばし飛ばし読んだものの、大きな文字、振り仮名に助けられ以外にも読み易かった。
時代は変わっても良識ある明治人の高貴な精神性の薫りには魅せられてしまう。
この本には、過去の遺物として忘れ去られようとしている日本人の徳性が燦然とした輝きを放ち書かれている。
紹介するにあたり、私独自の解釈であること、誤りが少なからずあること、予めお断りしておく。
ここで貴重な読者に冷水を浴びせるようで多少気が引けるが、本音を吐けば、私は読み手を意識しながらも、その反応を意に介していない。
つれづれに記す、当初はお遊び感覚が強かったが、今は自己の確認作業に近い内容にまで嵩じてしまった。
世界の歴史を振り返ると、大方の人間は古来より慾に目が眩み、知らず知らずに自分の手足を喰らいて自滅の道を辿る生き物であることを、己もその種に属する一匹である遣り切れなさを、つくづくと思い知らされる。
現代の世をそうして眺むれば、地域開発、社会貢献とふざけた旗印の下にやりたい放題に森林を伐採し、大地を抉り、道路を造り、鉄道を敷設し、有害な人工物を生み出し、大量生産、大量消費を煽り、物慾を満たすだけの便利さを追求し、最後は生あるものの源である大気と海に地球上有害無用の汚物をばら撒き、垂れ流し、その様は形こそ違え歴史は繰り返される哀しさを物語っている。
今更になって二酸化炭素の排出規制など、しかも各国の下衆な思惑の絡んだ建前だけの、ふざけた戯言を投げ合っている間に愈々地球は最終局面に向かっている事実を真剣に受け止めようともしない。
人類の底なしの愚かさに対して、大気や海がいつまでもされるがままに黙っている筈があろうか。
地球滅亡、所詮、広大無限の宇宙にすれば然したる問題でもないだろうが。
社会、政治は疾うに見捨てているが、だからと言って狂躁を繰り返すばかりの社会と道連れになるのは真っ平御免であり、自分を、拗ねたガキのように見捨てる訳にもいかない。
己も業深き糞っ垂れ人間の一人であるが、糞は糞なりに綺麗事を抜かすだけの大衆が醜く貌を引き攣らせ逃げ去るほどに、己が生き様をぶち撒ける覚悟で、一日一日の生命に感謝して、精神は常に自分の中に自由に在ることを確認し、それを磨くこと、それが今の私に出来ることであり、それが私の生きる縁でもある。
つれづれに記す、どれもこれも己の魂の救済のためだけに。
四十男の戯言と、嗤わば嗤え。
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