39.瓜生岩子という人②
2008年4月7日 日常(激動の生い立ち)
喜多方界隈の名だたる油屋の総領息子、渡辺利左衛門と熱鹽村の瓜生りえとの間に長女として生を受けた岩子は、裕福な家庭環境にも恵まれ、すくすくと育った。ところが岩子5歳の年から歯車が狂い始める。未曾有の天保の大飢饉がその序章であった。天保4年から同9年頃まで続いた大飢饉によって米はもちろんのこと、食糧となる総てが騰貴し、貧賤の者は乞食に身を窶(やつ)し、押込み強盗、放火があちこちで発生した。村々では幽鬼の輩が食糧を奪い合い、其処彼処には餓死者の骸(むくろ)が横たわる、正に阿鼻叫喚の地獄絵図と化した。
飢饉という暗幕が日本を被い尽くしたこの時期、岩子9歳の時には父が急死し、その49日後には油屋が焼失してしまう。不幸は幾重にも重なり、ついには姑(岩子の祖母)から離縁を申し渡され、母の実家に弟と母子3人で引き揚げざるを得ない境遇となった。
(師、山内春瓏)
父なき子を育てる時、母、女の立派さが顕(あらわ)れると云う。母りえは人並みの見習いを身に付けさせようと、叔父の医師、山内春瓏(しゅんろう)の許に岩子を預け、岩子は春瓏の子女と共にその薫陶を受けた。
春瓏は、会津藩主の侍医として、特に産科、婦人科に秀で、門弟には古川春英らの名医を輩出した。
春英は、戊辰戦争時、日新館軍事病院に入り、将軍侍医なども勤めた院長松本良順を助け、松本退去後はその責任者として務めた。開城後も藩士らの治療にあたるとともに後進の指導に意欲を示したが、若松を襲ったチフスの治療中に感染し、多くの人々に惜しまれながら世を去った。
因みに、野口英世が書生時代の初恋の人、山内ヨネは春瓏の孫である、と会津の歴史に詳しい老兄に教えていただいたが、それが真実かどうかは未だ確証を得ていない。
人間万事塞翁が馬、人生の吉凶禍福は寄せては返す波の如し。
岩子、人生において最初の師、春瓏と出会う。
春瓏は、貧しき階層に蔓(はびこ)る悪しき慣習、“子おろし”で訪れる者に人の道を説き、堕胎防止に努めた。
“子は三界の首枷”とも云うが、子を得て、親を知り、我を知る。
子は、親にとって愛着の源であり、また、苦悩の種でもあるが、子から与えられる人生の豊かさは計り知れない。
心身病む者に接する春瓏の背を見て、その言葉を聞いて、岩子の胸に小さな火が灯る。
女の務めとは何か。
己の為すべきこと何か。
極論かもしれないが、現代は男女同権を背景とした女の社会進出によって男女の役目が薄れてきたために、親殺し子殺し、学校での陰湿ないじめ、育児虐待など鬼畜の所業が頻発するようになったのではないか。
近代の社会情勢が昔日の男女の役割を曖昧にしてしまったのではないか。
警察官や教師の信じ難い不祥事、企業ぐるみの偽装事件、国民を喰いものにする官僚や政治家、これら性根の腐った連中の横行は、家、企業、国家の順に、それぞれの持つ威厳、尊厳さが消滅していったから起こったのではないか。
野生の動物を見よ。
雌雄の別に応じてその役割が決まっているではないか。
人間も男女の性差は明らかである。
それに合わせた生き方が生きとし生けるものの基本であるはず。
嘗ての日本文化はそれに根差していたのではなかったか。
女の社会進出を盲目的に良くないと言っているのではない。
女の役割はそれだけ重く、家、企業、国家の根幹を為す務めなのだと声を大にして言いたい。
お里の育ち具合は、其奴の家、両親を見れば大方解る。
他者と接した私の拙(つたな)く、苦い経験上からもそれは疑うことがない。
四季のように時に優しく、時に厳しく、大なる自然のように慈しみ溢れた家庭が人間に人間の魂を注ぐ。
家庭にうららかな春の太陽を照らすのは母。
母のいない家は父が、両親がいない家は同居する身内の者が、施設が家ならば教師が、寮母が、母の変わりとなって子供に存分の愛を注いでほしい。
人として生まれ、人の愛を知らずして死んでいく人間ほど酷(むご)いものはない。
私が無頼の道にも進まず、今もこうして人並みに生活できるのは、女手一つで子供3人を育て上げた母の存在以外にない。
地に堕ちた教育、手段を選ばぬ利益優先の企業体質、金権政治、利権を争う世界情勢、人間の良心を喪った者どもによって引き起こされたこれら事象に、揺るぎない歯止めの楔を打ち込むのは家族愛ではないか。
女よ、原点に返れ。
(以下、原文「教えの庭」より抜粋)
善悪は津々浦々によする雄波、雌波のよせては返す世の習(ならい)。禍福は暴風に和風の天気模様。漕がねばならぬ人の世の、渡る浮世の波風に、のりきる船の彼岸は何処。女の道は裏道、田圃道。男の道の表通とは事違ふ。我庭ならば思う儘。世間の道は数多く、早道、ぬけ道、行どまり、曲がりくねたる大道、小径の人の道。人の行末、吉凶禍福。どうせ見るべき世の様、人の様。まった(待った)甘露の幸も、不幸の辛さ甞(な)めて知る。
「一体妊娠は女の命で夫婦は前世の約束。子は三界(さんがい)かけての情の緒綱となり我身已(すで)に私のものでなく、命は光陰に移されて、また昔の俤もない。」
「何に女はというても、こう一家を持って見たり、他の家を見たりすると女の務の出来、不出来。賢、不賢。慈悲、無慈悲は一家の幸福と繁栄とにどのように影響するものかは解る。女は内を守り、内を整へ、内を住心地よくするのは日常の務であるが、親戚知己は勿論、配置小作人、出入人夫に至るまで心をとめ、病気不幸、災難でもあったら厚く慰め励ましてやるのは女の外に対しての務めである。それには日常万事節約を旨として奢侈を慎み、安逸に流れてはならぬ。あの下々の女の働を見よ、子を負うて田畑に出て働くではないか、働くのに健康と幸福がある。奥様、奥方と召使も多くあるのに身分、威厳を楯として、出でて鰥寡孤独(かんかこどく)を憐れむこともせず陰欝(いんうつ)に籠り居て、脂粉に身をやつすが故に病気もすれば心配もする。身分高いほど身を下し下を愍(あわれ)めば、人情敦(あつ)きに帰し、一家却(かへっ)て威厳を保ち、国家の威厳を増す基(もとい)ともなる。極楽へ行っても何もせず居る處はないぞ」
「従順は女の天地で、忍耐は女の運命だ。これは何も女ばかりのことではない。格式で勤める吾々もそうだ。只務の業が多く廣いので何とも思わぬが、女の業が少なく狭いので昔から三従(さんじゅう)を女に説くのだ。従うといえばはや忍ぶということはつきものだ。吾と吾さへ思うようにならぬ。まして人と人との組合せ、思慮に思慮を加えて、思慮以外のことあらば、只因縁と諦めるがよい。因縁皆菩提の行願と観じ日々の行持(ぎょうじ)を等閑(なおざり)にしてはならぬ。光陰は矢よりも迅(すみや)か。昔日の我を尋ねんとしても蹤跡(あとかた)はない。昨日を今日と復(ふたた)び還すことも出来ない。修繕の者は陞(のぼ)り、造悪のものは堕ちる。因果の道理歴然として、耄釐(ごうり)もたがう處はない。日々に行いを慎しみ、日々によく働け」
喜多方界隈の名だたる油屋の総領息子、渡辺利左衛門と熱鹽村の瓜生りえとの間に長女として生を受けた岩子は、裕福な家庭環境にも恵まれ、すくすくと育った。ところが岩子5歳の年から歯車が狂い始める。未曾有の天保の大飢饉がその序章であった。天保4年から同9年頃まで続いた大飢饉によって米はもちろんのこと、食糧となる総てが騰貴し、貧賤の者は乞食に身を窶(やつ)し、押込み強盗、放火があちこちで発生した。村々では幽鬼の輩が食糧を奪い合い、其処彼処には餓死者の骸(むくろ)が横たわる、正に阿鼻叫喚の地獄絵図と化した。
飢饉という暗幕が日本を被い尽くしたこの時期、岩子9歳の時には父が急死し、その49日後には油屋が焼失してしまう。不幸は幾重にも重なり、ついには姑(岩子の祖母)から離縁を申し渡され、母の実家に弟と母子3人で引き揚げざるを得ない境遇となった。
(師、山内春瓏)
父なき子を育てる時、母、女の立派さが顕(あらわ)れると云う。母りえは人並みの見習いを身に付けさせようと、叔父の医師、山内春瓏(しゅんろう)の許に岩子を預け、岩子は春瓏の子女と共にその薫陶を受けた。
春瓏は、会津藩主の侍医として、特に産科、婦人科に秀で、門弟には古川春英らの名医を輩出した。
春英は、戊辰戦争時、日新館軍事病院に入り、将軍侍医なども勤めた院長松本良順を助け、松本退去後はその責任者として務めた。開城後も藩士らの治療にあたるとともに後進の指導に意欲を示したが、若松を襲ったチフスの治療中に感染し、多くの人々に惜しまれながら世を去った。
因みに、野口英世が書生時代の初恋の人、山内ヨネは春瓏の孫である、と会津の歴史に詳しい老兄に教えていただいたが、それが真実かどうかは未だ確証を得ていない。
人間万事塞翁が馬、人生の吉凶禍福は寄せては返す波の如し。
岩子、人生において最初の師、春瓏と出会う。
春瓏は、貧しき階層に蔓(はびこ)る悪しき慣習、“子おろし”で訪れる者に人の道を説き、堕胎防止に努めた。
“子は三界の首枷”とも云うが、子を得て、親を知り、我を知る。
子は、親にとって愛着の源であり、また、苦悩の種でもあるが、子から与えられる人生の豊かさは計り知れない。
心身病む者に接する春瓏の背を見て、その言葉を聞いて、岩子の胸に小さな火が灯る。
女の務めとは何か。
己の為すべきこと何か。
極論かもしれないが、現代は男女同権を背景とした女の社会進出によって男女の役目が薄れてきたために、親殺し子殺し、学校での陰湿ないじめ、育児虐待など鬼畜の所業が頻発するようになったのではないか。
近代の社会情勢が昔日の男女の役割を曖昧にしてしまったのではないか。
警察官や教師の信じ難い不祥事、企業ぐるみの偽装事件、国民を喰いものにする官僚や政治家、これら性根の腐った連中の横行は、家、企業、国家の順に、それぞれの持つ威厳、尊厳さが消滅していったから起こったのではないか。
野生の動物を見よ。
雌雄の別に応じてその役割が決まっているではないか。
人間も男女の性差は明らかである。
それに合わせた生き方が生きとし生けるものの基本であるはず。
嘗ての日本文化はそれに根差していたのではなかったか。
女の社会進出を盲目的に良くないと言っているのではない。
女の役割はそれだけ重く、家、企業、国家の根幹を為す務めなのだと声を大にして言いたい。
お里の育ち具合は、其奴の家、両親を見れば大方解る。
他者と接した私の拙(つたな)く、苦い経験上からもそれは疑うことがない。
四季のように時に優しく、時に厳しく、大なる自然のように慈しみ溢れた家庭が人間に人間の魂を注ぐ。
家庭にうららかな春の太陽を照らすのは母。
母のいない家は父が、両親がいない家は同居する身内の者が、施設が家ならば教師が、寮母が、母の変わりとなって子供に存分の愛を注いでほしい。
人として生まれ、人の愛を知らずして死んでいく人間ほど酷(むご)いものはない。
私が無頼の道にも進まず、今もこうして人並みに生活できるのは、女手一つで子供3人を育て上げた母の存在以外にない。
地に堕ちた教育、手段を選ばぬ利益優先の企業体質、金権政治、利権を争う世界情勢、人間の良心を喪った者どもによって引き起こされたこれら事象に、揺るぎない歯止めの楔を打ち込むのは家族愛ではないか。
女よ、原点に返れ。
(以下、原文「教えの庭」より抜粋)
善悪は津々浦々によする雄波、雌波のよせては返す世の習(ならい)。禍福は暴風に和風の天気模様。漕がねばならぬ人の世の、渡る浮世の波風に、のりきる船の彼岸は何処。女の道は裏道、田圃道。男の道の表通とは事違ふ。我庭ならば思う儘。世間の道は数多く、早道、ぬけ道、行どまり、曲がりくねたる大道、小径の人の道。人の行末、吉凶禍福。どうせ見るべき世の様、人の様。まった(待った)甘露の幸も、不幸の辛さ甞(な)めて知る。
「一体妊娠は女の命で夫婦は前世の約束。子は三界(さんがい)かけての情の緒綱となり我身已(すで)に私のものでなく、命は光陰に移されて、また昔の俤もない。」
「何に女はというても、こう一家を持って見たり、他の家を見たりすると女の務の出来、不出来。賢、不賢。慈悲、無慈悲は一家の幸福と繁栄とにどのように影響するものかは解る。女は内を守り、内を整へ、内を住心地よくするのは日常の務であるが、親戚知己は勿論、配置小作人、出入人夫に至るまで心をとめ、病気不幸、災難でもあったら厚く慰め励ましてやるのは女の外に対しての務めである。それには日常万事節約を旨として奢侈を慎み、安逸に流れてはならぬ。あの下々の女の働を見よ、子を負うて田畑に出て働くではないか、働くのに健康と幸福がある。奥様、奥方と召使も多くあるのに身分、威厳を楯として、出でて鰥寡孤独(かんかこどく)を憐れむこともせず陰欝(いんうつ)に籠り居て、脂粉に身をやつすが故に病気もすれば心配もする。身分高いほど身を下し下を愍(あわれ)めば、人情敦(あつ)きに帰し、一家却(かへっ)て威厳を保ち、国家の威厳を増す基(もとい)ともなる。極楽へ行っても何もせず居る處はないぞ」
「従順は女の天地で、忍耐は女の運命だ。これは何も女ばかりのことではない。格式で勤める吾々もそうだ。只務の業が多く廣いので何とも思わぬが、女の業が少なく狭いので昔から三従(さんじゅう)を女に説くのだ。従うといえばはや忍ぶということはつきものだ。吾と吾さへ思うようにならぬ。まして人と人との組合せ、思慮に思慮を加えて、思慮以外のことあらば、只因縁と諦めるがよい。因縁皆菩提の行願と観じ日々の行持(ぎょうじ)を等閑(なおざり)にしてはならぬ。光陰は矢よりも迅(すみや)か。昔日の我を尋ねんとしても蹤跡(あとかた)はない。昨日を今日と復(ふたた)び還すことも出来ない。修繕の者は陞(のぼ)り、造悪のものは堕ちる。因果の道理歴然として、耄釐(ごうり)もたがう處はない。日々に行いを慎しみ、日々によく働け」
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