(再び試練、そして、出発)
 岩子の弟、長男の半治は親戚の会津藩士、鈴木家へ養子に出したため、岩子は婿を迎えて一家を構えることになった。
 岩子17歳の時、若松城下の呉服屋大黒屋に奉公していた佐瀬茂助を婿に迎える。
 夫婦で呉服屋を開業、開店10周年を迎える頃には、番頭1人、小僧3人を雇うまでに順調に売り上げを伸ばし、その間、長女おつね、長男祐三の二人の子供にも恵まれ、商売、家内ともに繁盛した。
 翌年、臨月になっていた岩子の身に幼少の頃に立て続いた不吉な暗い影が再び忍び寄る。夫が寝込むほどの重い病気に罹ってしまった。その上、家族同様に世話し、労わりもした番頭が店の呉服、反物を勝手に持ち出し、金まで漁(あさ)って近所の女と出奔してしまった。岩子は金品を持ち逃げされた裏切りよりも、行方知れずになった子を思い煩(わずら)う番頭の母親の身を案 じ、嘆き哀しんだ。
 夫の病気は、叔父の医師、春瓏が手を尽くしても一向に恢復の兆しを見せず、小康状態が続くかと思うとまた重くなる、その繰り返しであった。そうして、親と頼む春瓏までもが病気に罹り、終には帰らぬ人となってしまった。岩子の嘆きは一方(ひとかた)ではなかった。

 岩子が生まれた文政12年(1829年)前後から此の頃までの国内の世情を大まかに整理してみる。

 文化3年(1806年)頃から蝦夷地でのロシアの武装船による焚掠(ふんりゃく)行為が頻発、幕命により会津藩は文化5年(1808年)に蝦夷地警護に当たる。この後も、ロシア以外にも武力に物を言わせて開国を迫る欧米列強の外圧に対し、会津藩は同7年(1810年)から10年間に及び三浦半島の警備に就く。天保4年(1833年)から同9年までには未曾有の大凶作、天保の大飢饉が東北、越後、関東方面を襲った。弘化4年(1847年)、再び会津藩は房総半島警備を命じられる。数度に亘る警備のために会津藩の財政は逼迫(ひっぱく)、そうした中、嘉永5年(1852年)、第8代会津藩主松平容敬(かたたか)の養嗣子であった松平容保(美濃高須藩主松平義建の第6子)が封を継ぐ。その翌年にはペリーが浦賀に入港、安政元年(1854年)には和親と名ばかりの、不平等の日米和親条約締結を余儀なくされ、江戸幕府による鎖国体制は崩壊した。同5年(1858年)、幕府大老に就任した井伊直弼(彦根藩主)は、日米総領事タウゼント・ハリスの強硬説得により天皇の勅許がないまま独断で日米修好通商条約に調印、将軍継嗣(徳川家茂)も決めた。また、直弼は、これに反発した尊王攘夷派や徳川慶喜派ら100名以上を弾圧、長州藩の吉田松陰を始め、優秀な人材を死刑、永蟄居に処し、遠島に追いやった。直弼によるこの一連の弾圧は安政の大獄と言われ、これに因って水戸藩や薩摩藩ら過激浪士の恨みを買い、万延元年(1860年)3月、直弼は桜田門外で死を招くことになる。
 この後、直弼に異を唱え謹慎処分にあった徳川慶喜(水戸藩主徳川斉昭の第7子、御三卿の一橋家を相続)と松平春嶽(福井藩主)は幕政へ復帰、幕府に新設された将軍後見職、政事総裁職にそれぞれ就任し、同時に新設された京都守護職には、慶喜、春嶽の再三の就任要請を断り続けていた第9代会津藩主松平容保が、会津藩祖保科正之が制定した家訓を引き合いに出され、止む無く泪を呑みつつ火中の栗を拾う覚悟で承諾、就任した。
 後の鳥羽伏見の戦いでは容保を伴い、味方の兵を置き去りにして江戸へ敵前逃亡し、我が身可愛さ故に只管(ひたすら)恭順に徹した将軍慶喜。片や、損得勘定に長けた春嶽率いる福井藩は、あろうことか、新政府軍に与(くみ)し同朋であった会津藩に銃砲を向けた。この両者は後年大層な勲章を授かり、作り上げられた名誉に守られていたが、醜悪卑劣な風見鶏2羽の甘言に弄された挙句、抗い難い激動の荒波に引き込まれ、新政府軍への徹底抗戦によって大海の藻屑となった会津藩は長年賊軍の汚名を着せられ、悲劇の一途を辿った。
 この件(くだり)になると文面にはついつい私情が強く表れてしまう。

 病の夫を抱えた岩子はその後どうしたか。
 夫を助けるため、子を守るため、老いた母を慰めるため、行商に出かけるようになった。
 歩いては手は暇と思って歩きながら糸屑で手球を造り、得意先の子供らに与えた。子供が喜べば親も喜び、商売が上がる。行商からの帰路、我家の手土産とした品は立ち寄る他家の子供に与え、土産を心待ちにするよりも母の帰りが素直に喜べる子となるよう気を配った。
 岩子は行商によって人情の機微、世間の実情を学んだ。

 富みて貧しくなった人は気の毒。
 貧しくなって昔の富を念(おも)ふ人は猶(なお)気の毒。
 貧しくなって身分を下して働くことを知らぬ人は一層気の毒。

 行商から帰っては休む間もなく食事の準備をし、子供を寝かしては縫い針の仕事。夫の病床に着の身着のまま看護の仮寝、枕を用いたことはない。朝は暗いうちからその日の食事を万端整えて早くから行商に出る。
 文久2年(1862年)、岩子34歳、長年の困苦辛労に堪えた看病甲斐なく、夫茂助は亡くなった。明年には実母りえまでが帰らぬ人となった。悲しみの果てに尼になろうと覚悟したその時、叔父の山内春瓏に続くもう一人の人生の師に諭される。実家のある熱塩加納の示現寺住職、隆寛である。
 「この世には、前途に一筋の希望も見出せずともその日その日を必死に生き、貧しく、苦しく、精一杯に命を繋いでいる人間が大勢いる。あなたはまだまだ恵まれている。見える眼がある、聴こえる耳がある、嗅ぎ分ける鼻がある、話せる口がある、動かせる手足がある。それが出来ない人達の手足となって力の限り尽くすことがあなたのこれからの生き方であるまいか。それからでも尼になるのは遅くない。」

 己が為すべきことは何か。

 子の行末のため岩子は私情を捨てた。子の幸福を思えば、気運の開ける機会に我が愛の愛(いと)しい糸を裁ち切るのが親の真の愛で、その気運を見定めるのは親の賢明。
 子は一男三女あった。三女はすでに実家に託し、二女は長尾という会津藩士の養女にし、長女はその長尾の伝(つて)で会津藩主容保の姉照姫の召使いに、長男は会津藩士の西郷勇左衛門に頼み小姓として奉公させた。
 一人となった岩子。商売は変わらずに始めたが、得た金は貧者に施し、母や夫の冥福を祈って寺に寄進した。相当期間、喪に服した後、呉服店を他人に譲り渡し、家財道具は知り合いに配り、多少の金を懐にして喜多方に引き揚げた。

 己が為すべきことを為す。
 ここに岩子の生涯を懸けた慈善活動の芽が胎動し始める。会津戦争2、3年前のことであった。

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