45.餞に

2008年10月28日 日常
あらゆる人種の、あらゆる情念が犇(ひしめ)く不可解な世界でお知り合いになれたのも何かの縁でしょう。
私の愚かしい文章のどこかに引っかかりを覚えられたから感想を寄せていただいたと思います。
私は楽しいだけの人生で逝きたくありません。
ましてや、強いて薄幸の歩みもしたくありません。
享楽に伴う幸福感は打揚げ花火のようなもので、その後は虚無感という暗闇が忍び寄ります。
本統の幸せとは苦しさの中から生まれ出で、それはその人を支え、いつまでも忘れ難いものとして有り続けることでしょう。
誰もが表層に漂う儚き一生ですが、蝶が蝶であるように、鳥が鳥であるように、己の心に感じたままを受け入れ、肯定も否定もせず、愚昧な天上天下唯我独尊の存在でありたいと私は願っています。

中村天風は藤平光一氏の著で改めて知りました。
私の興をそそる人物の一人に、安政2年(1855)に生まれ、明治から昭和初期にかけて日本の黒幕的存在として血気盛んな憂国の士を束ねていた玄洋社代表の頭山満がいます。
頭山は国家主義者、今でいう右翼の生みの親で、頭山の並外れた度量の大きさに多くの人間が魅了されています。
中村は若かりし頃、頭山と莫逆の友となり、その後、軍事探偵として中国大陸で暗躍、数々の修羅場を潜り抜け、いつしか「人斬り天風」と呼ばれるようになった人物です。

心が身体を動かす。
天風の教えの基本はこの一点のみ。
心身統一、心と身体の均衡が合っていれば天地の理に合った考え、行動に自ずと導かれる。
天風理論を確立し、それに共鳴した山本五十六、東郷平八郎、原敬、杉浦重剛、松下幸之助らが弟子入りしています。

心とは何でしょう。
心という字は心臓の形を表した象形文字ですが、存在する臓器の一部を指すものではありません。
心は眼に見えない魂、気と同意であり、物心が付いた時には無意識のうちに話す言葉に、書く文字に使い、形として無い心の存在をいつしか感じるようになります。
「三つ子の魂百まで」と言われるように、危なっかしい足取りで歩き始め、片言の言葉を口にするようになると、それまで蛻(もぬけ)の殻だった身体に魂が入りこみ、一個の人間が誕生します。
物心が身体に宿る三歳までに懸ける肉親の情愛の深さがその幼子の運命を左右し、その愛如何によって心ある人間と心失くした獣(けだもの)が生まれます。
その差は歴然として姿に、行動に表れます。
身体の存在を超えて精神を築き上げ、恐ろしくも個々の人間性を決めてしまう心を、私は何ものも見透かす水晶の玉のように磨きたいのです。

日常の風景の一部のように振り返ることもなかった人間に気を留めた時、望むと望まずに関係なく与えられた環境下で慎ましく生きる姿に、私にはその人が現世に生きる菩薩に思えるようになりました。

ローマ帝政時代の哲学者セネカは「人生の短さについて」と題した著述書の中で、良い生活ができるように多忙を極めている人生を次のように述べています。
「髪が白いとか皺が寄っているといっても、その人が長く生きたと考える理由にはならない。長く生きたのではなく、長く有ったにすぎない。たとえば或る人が港を出るやいなや激しい嵐に襲われて、あちらこちらへと押し流され、四方八方から荒れ狂う風向きの変化によって、同じ海峡をぐるぐる引き回されていたのであれば、それをもって長い航海をしたとは考えられないだろう。この人は長く航海したのではなく、長く翻弄されたのである。」

間もなく私は生まれて44年の歳月を数えます。
この先の寿命は神のみぞ知るですが、魂が解き放たれる最後の瞬間まで限られた己の時間を大切にして、心と身体、自己との対話を楽しみ、世の流れに無理に同調することなく生きていくつもりです。

終わりに、渡米されるくうやんさんへ「いのち仕上げの名台詞」から一句呈上し、私からの餞の一言とさせていただきます。

生や素より好し。されど、死も亦悪しからず。
疾症は彼岸に到達する階段のみ、順序のみ。
(国木田独歩 享年38)

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