47.瓜生岩子という人④
2008年12月10日 日常 岩子一人歩む先に横たわっていたのは、日本全土を東西二分する同民族の戦いだった。
西郷勇左衛門に伴って金澤に赴いていた岩子の長男祐三が、京都の風雲急を告げる事態に速駕(はやかご)を使い、旅先から帰途に着いたのは慶応四年の正月。岩子は祐三から鳥羽伏見の戦い、会桑(会津藩と桑名藩)二藩が薩摩藩、長州藩と対戦中であることを知らされる。
この戦いは官軍、賊軍の色分けなど糞の役にも立たぬ、薩長二藩と朝廷を弄する公家の首魁、岩倉具視らが組み、狡猾に仕掛けた権力闘争の罠だった。これが後に薩長藩閥の横行となり、軍閥政治を引き起こし、第二次世界大戦敗戦で崩壊、それと同じ歩みで日本の古き文化、心も衰退していった。
鳥羽伏見の戦いに端を発した戊辰戦争は、やがて最新銃器を手にした薩長の爪牙の矛先を会津に向けさせ、会津戦争に及んだ。8月23日(旧暦、現在では10月上旬頃)には会津最後の要である十六橋が西軍の板垣退助隊に突破され、会津城下は火の海に包まれた。会津藩は朝敵の汚名を濯ぐべく徹底抗戦の構えを崩さず、史上最後の籠城戦に突入した。
岩子はこの頃、喜多方に居たが、若松の危急に居たたまれずに塩川に足を延ばし、そこで入城準備をしていた会津軍と出会い、隊の後尾に付いて神指の高久まで来た。戦況の話を伝え聞くうち、男装して薙刀を手に敵軍に進撃した女軍の勇ましい戦いぶりを耳にし、彼女らの仮宿所を訪ねた。彼女らの衣服は血潮に染まり、薙刀には生々しく血がこびりついていた。女軍の神保雪子、中野小竹(竹子)は敵の弾丸に打ち抜かれ、小竹の母は敵に首を捕られる前に我が手で娘の首を掻き落とし、次女の阿優(優子)とその首を葬った。壮絶な戦いを物語る凄惨な姿だった。仆(たお)れた竹子の薙刀には短冊が結び付けられていた。
武士(もののふ)の猛き(たけき)心にくらぶれば
数にも入らぬ(いらぬ)我身ながらも
彼女らは、会津藩家老、萱野権兵衛に説諭され喜多方に避難することになった。愚かな大儀で引き起こされた戦争によって殺され、疵付き、離れ離れになって逃げ惑う無辜(むこ)の民を目撃した岩子も我が家に戻った。
秋荒城の月皎々(こうこう)として白骨寒く
原野寥々(りゅうりゅう)深樹(しんじゅ)梟(ふくろう)鳴く
これは戊辰戦後の若松を嘆じた一節である。
家名を汚さんために自刃した家族も多かった。会津藩婦女子の辞世の句を幾つか挙げる。
八十里越えに出陣した沼澤出雲15歳の祖母貞子、母道子、娘姉妹、自害。
貞子
武士(もののふ)の かねて覚悟の 梓(あずさ)弓
引いてかへらね 今日となりぬる
道子
諸共(もろとも)に 死なん命も 親と子の
たた一筋の まことなりけり
姉娘
敵(あだ)の手に かからむよりは 勇ましく
死ぬも我身の 花とこそ知れ
妹娘
浮世には 残す思いも なかりけり
かねて覚悟の 今日にぞありける
家老、西郷頼母の妻千恵子、辞世の句を記した後、8歳、4歳、2歳の我が子を手に掛け自害、そればかりでなく頼母の母、妹ら親族合わせて21人もが西郷邸で自害するに及んだ。
千恵子
なよ竹の 風にまかする 身なからも
撓(たわ)まぬ節の ありとこそ聞け
頼母の妹
武士(もののふ)の 道と聞きしを たよりにて
思ひ立ちぬる 黄泉(よみ)の旅かな
会津戦争から逃げ延びた家中の子供らの多くは、喜多方の農家に預けられることになったが、現状に甘んじては土百姓の業(わざ)を身につけるのみと案じた岩子は、士分としての教育を受けさせ、亡き父親、兄らの遺志を継がせようと幼学所の設立に向けて動き出した。幼学所の敷地と教授は確保したものの、戦後設けられた民政局の認可がなければ運営することはできない。民政局では賊軍の子弟教育を容易に聞き入れるわけにはいかなかった。そこへまた新たな問題が生じた。各所に謹慎していた旧藩士は東京及び越後高田にお預けとなり、幼学所の教授となる浅岡源三郎も東京に謹慎を命ぜられてしまったのだ。
岩子は祐三を浅岡の代わりに東京に謹慎させたいと、その上で幼学所設立を願い出たが許されるものではなかった。己れ一人行く道を定めた岩子に迷いはなかった。命を賭した願いを祐三に託した。祐三の至誠を込めた嘆願は民政局長の琴線を震わせ、遂に幼学所設立が聞き入れられた。
祐三の言葉に、民政局長は岩子の命の覚悟を見たのである。
「此頃からの願(ねがひ)の旨はお前も知っての通り。あの子供等を見ろ、見習う處は百姓同様。悪者と一處になり盗み迄するといふ浅はかな考(かんがえ)。これといふのも人の道を知らないからだ。どうか、あの子供等に学問をさせてあげたいと思うて、学校を立てることを御願したが御許しがない。それに浅岡様まで東京に謹慎を命ぜられたので、お前を名代にとお願をすればこれも許されぬ。此上は致し方はない。お前も白虎隊の一人として出た。越後口で討死した二十人の一人と思ひ、命にかけて家中の子供の浅墓な仕様模様をよつく述べてお願いして見ろ。道理のあることを許さぬといふ筈はない。お許しがなかったら、お前は御役人の前で切腹してくれろ。それで私は満足する。」
西郷勇左衛門に伴って金澤に赴いていた岩子の長男祐三が、京都の風雲急を告げる事態に速駕(はやかご)を使い、旅先から帰途に着いたのは慶応四年の正月。岩子は祐三から鳥羽伏見の戦い、会桑(会津藩と桑名藩)二藩が薩摩藩、長州藩と対戦中であることを知らされる。
この戦いは官軍、賊軍の色分けなど糞の役にも立たぬ、薩長二藩と朝廷を弄する公家の首魁、岩倉具視らが組み、狡猾に仕掛けた権力闘争の罠だった。これが後に薩長藩閥の横行となり、軍閥政治を引き起こし、第二次世界大戦敗戦で崩壊、それと同じ歩みで日本の古き文化、心も衰退していった。
鳥羽伏見の戦いに端を発した戊辰戦争は、やがて最新銃器を手にした薩長の爪牙の矛先を会津に向けさせ、会津戦争に及んだ。8月23日(旧暦、現在では10月上旬頃)には会津最後の要である十六橋が西軍の板垣退助隊に突破され、会津城下は火の海に包まれた。会津藩は朝敵の汚名を濯ぐべく徹底抗戦の構えを崩さず、史上最後の籠城戦に突入した。
岩子はこの頃、喜多方に居たが、若松の危急に居たたまれずに塩川に足を延ばし、そこで入城準備をしていた会津軍と出会い、隊の後尾に付いて神指の高久まで来た。戦況の話を伝え聞くうち、男装して薙刀を手に敵軍に進撃した女軍の勇ましい戦いぶりを耳にし、彼女らの仮宿所を訪ねた。彼女らの衣服は血潮に染まり、薙刀には生々しく血がこびりついていた。女軍の神保雪子、中野小竹(竹子)は敵の弾丸に打ち抜かれ、小竹の母は敵に首を捕られる前に我が手で娘の首を掻き落とし、次女の阿優(優子)とその首を葬った。壮絶な戦いを物語る凄惨な姿だった。仆(たお)れた竹子の薙刀には短冊が結び付けられていた。
武士(もののふ)の猛き(たけき)心にくらぶれば
数にも入らぬ(いらぬ)我身ながらも
彼女らは、会津藩家老、萱野権兵衛に説諭され喜多方に避難することになった。愚かな大儀で引き起こされた戦争によって殺され、疵付き、離れ離れになって逃げ惑う無辜(むこ)の民を目撃した岩子も我が家に戻った。
秋荒城の月皎々(こうこう)として白骨寒く
原野寥々(りゅうりゅう)深樹(しんじゅ)梟(ふくろう)鳴く
これは戊辰戦後の若松を嘆じた一節である。
家名を汚さんために自刃した家族も多かった。会津藩婦女子の辞世の句を幾つか挙げる。
八十里越えに出陣した沼澤出雲15歳の祖母貞子、母道子、娘姉妹、自害。
貞子
武士(もののふ)の かねて覚悟の 梓(あずさ)弓
引いてかへらね 今日となりぬる
道子
諸共(もろとも)に 死なん命も 親と子の
たた一筋の まことなりけり
姉娘
敵(あだ)の手に かからむよりは 勇ましく
死ぬも我身の 花とこそ知れ
妹娘
浮世には 残す思いも なかりけり
かねて覚悟の 今日にぞありける
家老、西郷頼母の妻千恵子、辞世の句を記した後、8歳、4歳、2歳の我が子を手に掛け自害、そればかりでなく頼母の母、妹ら親族合わせて21人もが西郷邸で自害するに及んだ。
千恵子
なよ竹の 風にまかする 身なからも
撓(たわ)まぬ節の ありとこそ聞け
頼母の妹
武士(もののふ)の 道と聞きしを たよりにて
思ひ立ちぬる 黄泉(よみ)の旅かな
会津戦争から逃げ延びた家中の子供らの多くは、喜多方の農家に預けられることになったが、現状に甘んじては土百姓の業(わざ)を身につけるのみと案じた岩子は、士分としての教育を受けさせ、亡き父親、兄らの遺志を継がせようと幼学所の設立に向けて動き出した。幼学所の敷地と教授は確保したものの、戦後設けられた民政局の認可がなければ運営することはできない。民政局では賊軍の子弟教育を容易に聞き入れるわけにはいかなかった。そこへまた新たな問題が生じた。各所に謹慎していた旧藩士は東京及び越後高田にお預けとなり、幼学所の教授となる浅岡源三郎も東京に謹慎を命ぜられてしまったのだ。
岩子は祐三を浅岡の代わりに東京に謹慎させたいと、その上で幼学所設立を願い出たが許されるものではなかった。己れ一人行く道を定めた岩子に迷いはなかった。命を賭した願いを祐三に託した。祐三の至誠を込めた嘆願は民政局長の琴線を震わせ、遂に幼学所設立が聞き入れられた。
祐三の言葉に、民政局長は岩子の命の覚悟を見たのである。
「此頃からの願(ねがひ)の旨はお前も知っての通り。あの子供等を見ろ、見習う處は百姓同様。悪者と一處になり盗み迄するといふ浅はかな考(かんがえ)。これといふのも人の道を知らないからだ。どうか、あの子供等に学問をさせてあげたいと思うて、学校を立てることを御願したが御許しがない。それに浅岡様まで東京に謹慎を命ぜられたので、お前を名代にとお願をすればこれも許されぬ。此上は致し方はない。お前も白虎隊の一人として出た。越後口で討死した二十人の一人と思ひ、命にかけて家中の子供の浅墓な仕様模様をよつく述べてお願いして見ろ。道理のあることを許さぬといふ筈はない。お許しがなかったら、お前は御役人の前で切腹してくれろ。それで私は満足する。」
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