48. person to person
2008年12月24日 日常 10日の晩はいつもの時間より遅くまで起きていた。
最近、21時以降は寝るか本を読むか、どちらかだ。
面白いと思ってテレビを観ることも少なくなった。
私たちが生きる現代の聖人を取り上げた番組だから、しょぼしょぼする眼を何とかこじ開けてその時刻を待っていた。
本名アグネス・ゴンジャ・ボヤジュは1910年8月生まれ、今は亡き人である。
日本とは違い、陸続きになっている諸外国では昔から民族独立の戦いに明け暮れていた。アグネスが生まれたコソボ・ウシュクブ(現マケドニアの首都スコピエ)も一足早く独立を果たした周辺諸国の脅威に曝され、1912年からのバルカン戦争によって分割統治された。この戦争が後のコソボ紛争の要因とも言われ、現在もコソボは国として危うい不安要素を抱えている。
カトリック教徒の家庭に生まれたアグネスは、一部の権力者が引き起こす戦争によって殺され、貧しい生活に追い込まれた民衆に幼い頃から同情の哀しい目を向けていたのだろうか、12歳の時にはすでに修道女としてインド(当時はイギリスの殖民地)で働く意志を抱いていた。18歳になると母親を説得して、インドのベンガル地方で宣教活動をしていたロレット修道会(本部地アイルランドのタブリン)に入会、念願のインドに赴任するとカルカッタ(現コルタカ)の聖マリア女学校で地理、歴史、カトリック教理を教えた。34歳の時には校長に任命されている。
順風満帆に思えた教師生活だったが、カルカッタの街々の路上には誰からも振り返られずに虫の息で横たわる老人や病人が汚物のように置き去りにされ、貧しい子供等は教育という教育を知らずにひたすら飢えに耐え、ただ生きるために澄んだ瞳を保っていた。その情景がアグネスの胸には常に鋭利な矢となって突き刺さっていた。
― 参 考 ―
インド国民の8億以上はヒンドゥー教徒と言われ、ヒンドゥー教には悪しき身分差別のカースト制度がある。カースト制度には4つの身分があり、その中で身分が一番低い者をシュードラと呼ぶ。先住民でありながら支配される立場の人々、奴隷とも翻訳される。それ以外に制度外で生きる人々はアチュート(不可触賤民)と呼ばれ、社会から分離されてきた。1950年には憲法で禁止されたが、紀元前から歴史を持つ忌まわしい制度は完全に拭い去ることはできず、現在でも下級カーストから生まれた子供たちは重労働や売春を強要され、ストリートチルドレンを生み出す社会問題となっている。
外界に目を背け、安全な修道院内で裕福な上流階級の子女に愛を説く、そこに真の愛があろうか。
1946年9月10日、ダージリンに向かう列車の車窓から流れていく風景を眺めていた時、突如、アグネスの耳に“内なる声”が届いた。
「最も貧しい人の間で働くように」
アグネスに迷いはなかった。その声に従い、修道院を離れて活動する許可を大司教に求めるが、当時のカトリック教会法典第601条(1)、「あらゆる隠修道女は、立願後は聖座の特典がない限り、短期間であっても口実の如何を問わず、修道院から出てはならない。但し、死の危険、またはその他の極度の悪の危険が切迫した場合を除く。」を理由に許可が下りなかった。アグネスは信じる道に従い、許可を願う手紙を黙々と書き続けた。
(大司教宛の手紙の要約)
「貧しい人達を助けたい、という欲求が、私の心をずっと満たしています。それは日に日に強く、はっきりとしてきています。」
内なる声を聞いた2年後、ようやく修道院外活動の特別許可を得た。
アグネスは修道服を脱ぎ、インド女性の民族衣装である質素なサリー、それはシルク製が多い中でも一番低価な木綿製で身を包んだ。最初に飛び込んだのは修道院近くのスラム地区だった。小枝を白墨変わりに、地面を黒板にして貧しい子供たちに言葉を教えるのが活動の始まりだった。彼女の噂を聞きつけ、やがて聖マリア女学校時代の教え子たちが一人二人と協力してくれるようになった。僅かな所持金しか持たなかったアグネスは自ら托鉢して食糧や薬品などを集めた。
1950年、「神の愛の宣教者会」(修道会)設立。
1952年、「死にゆく貧しい人の家」(ホスピス施設)設立。
1955年、「子どもの家」設立。
骨と皮だけの、カゲロウの生命を想わせるような瞬き(まばたき)を重そうにゆっくり繰り返すだけの、人間の表情を失くした人々の手を優しく握り、最期の時を各人の宗教に副って看取った。極度の貧困や両親の病気などによって育てることができない子供や孤児を預かり、育てた。
(「死にゆく貧しい人の家」の理念についてアグネスが語った言葉)
「誰からも見捨てられてしまった人々が最期は大切にされ、愛されていると感じながら亡くなってほしい。彼らがそれまで味わえなかった愛を、最上の形で与えてあげたい。」
アグネスの活動に伴い、彼女の知名度が高くなると世界中から義援金や物資が届くようになった。個人からの寄付金は有り難く受け取ったが、国からの定期的な援助金は断り続けた。援助金を受けるとその事務処理のために、貧しい人々の救済活動に専念する修道女の貴重な時間が割かれてしまうと懸念したアグネスの考えによるものだった。
「神の愛の宣教者会」は、当時の教会法により創設されてから10年間は活動場所がカルカッタに限られていたが、1959年、この制度は撤廃され、その後、アグネスの活動は全インドに広がっていった。1965年には教皇パウロ6世直轄の組織として認可され、インド国外での活動が可能になり、世界中に支部を開設することになった。
全世界の貧しい人々のために活動する彼女には多くの賞が与えられるようになった。
主よ
あなたの平和をもたらす道具として
私をお使いください
憎しみのあるところには
愛を
争いのあるところには
許しを
分裂のあるところには
一致を
誤りのあるところには
真理を
疑いのあるところには
信仰を
絶望のあるところには
希望を
暗闇には
光を
悲しみのあるところには
喜びをもたらす者としてお使いください
慰められるよりも
慰めることを
理解されるよりも
理解することを
愛されるよりも
愛することを求める心をお与えください
忘れることによって自分を見出し
許すことによって許され
自分を捨てて
死に永遠の命をいただくのですから
これは、アグネスがノーベル平和賞受賞した際、スピーチの前に唱えた“聖フランシスコの平和の祈り”の言葉である。
アグネス・ゴンジャ・ボヤジュとは、マザー・テレサ、その人である。
テレビ番組の後半にマスコミ関係者から質問を受け、それに答えるマザーの顔が映し出された。
「あなたのしていることは確かに素晴らしいけど、もっと大掛かりで現実的なやり方があるのではないか」
いつものマザーの哀しみ湛えた表情は消え、厳峻な相貌で相手を見据え、口を開いた。
「私は大仕掛けのやり方には反対です。大切なのは一人一人の個人。愛を伝えるには一人の個人として相手に接しなければなりません。多くの数が揃うのを待っていては数の中に道を見失い、一人のために愛と尊敬を伝えることはできないでしょう。“一人一人の触れ合い”、それこそが何よりも大事なのです。」
英語で語るマザーの肉声、その一節が心に響いた。
I believe in person to person…
person to person…
一人一人…
歩む道は違っても、事の大きさに違いがあろうとも、良心を信じて生きている人々の精神の根っこは小さな愛で繋がっている。
身近なところから、出来ることから、小さなことから。
マザーが87歳で亡くなった時、「神の愛の宣教者会」の従事者は4,000名を数え、123国610箇所のホスピス施設、HIV患者の家、ハンセン病者の施設、炊き出し施設、児童養護施設、学校などで活動していたという。
ウィキペディアに載っていたマザーの言葉。出典基は不明だが、現代社会の闇夜を灯す言葉と思い、ここに紹介して下手な日記を終わりたい。
「私は、なぜ男性と女性が全く同じであると考え、男女の間の素晴らしい違いを否定する人たちがいるのか、理解できません。」
「女性特有の愛の力は、母親になったときに最も顕著に現れ、神様が女性に与えた最高の贈り物、それが母性なのです。」
「子供たちが愛することと、祈ることを学ぶのに最も相応しい場が家庭であり、家庭で父母の姿から学ぶのです。家庭が崩壊したり、不和になったりすれば、多くの子供は愛と祈りを知らずに育ちます。家庭崩壊が進んだ国は、やがて多くの困難な問題を抱えることになるでしょう。」
※参考資料
■NHK「その時歴史が動いた」12月10日 (水) 放送
第345回「一人、そしてまた一人 -マザー・テレサ 平和に捧げた生涯-」
■フリー百科事典「ウィキペディア」
最近、21時以降は寝るか本を読むか、どちらかだ。
面白いと思ってテレビを観ることも少なくなった。
私たちが生きる現代の聖人を取り上げた番組だから、しょぼしょぼする眼を何とかこじ開けてその時刻を待っていた。
本名アグネス・ゴンジャ・ボヤジュは1910年8月生まれ、今は亡き人である。
日本とは違い、陸続きになっている諸外国では昔から民族独立の戦いに明け暮れていた。アグネスが生まれたコソボ・ウシュクブ(現マケドニアの首都スコピエ)も一足早く独立を果たした周辺諸国の脅威に曝され、1912年からのバルカン戦争によって分割統治された。この戦争が後のコソボ紛争の要因とも言われ、現在もコソボは国として危うい不安要素を抱えている。
カトリック教徒の家庭に生まれたアグネスは、一部の権力者が引き起こす戦争によって殺され、貧しい生活に追い込まれた民衆に幼い頃から同情の哀しい目を向けていたのだろうか、12歳の時にはすでに修道女としてインド(当時はイギリスの殖民地)で働く意志を抱いていた。18歳になると母親を説得して、インドのベンガル地方で宣教活動をしていたロレット修道会(本部地アイルランドのタブリン)に入会、念願のインドに赴任するとカルカッタ(現コルタカ)の聖マリア女学校で地理、歴史、カトリック教理を教えた。34歳の時には校長に任命されている。
順風満帆に思えた教師生活だったが、カルカッタの街々の路上には誰からも振り返られずに虫の息で横たわる老人や病人が汚物のように置き去りにされ、貧しい子供等は教育という教育を知らずにひたすら飢えに耐え、ただ生きるために澄んだ瞳を保っていた。その情景がアグネスの胸には常に鋭利な矢となって突き刺さっていた。
― 参 考 ―
インド国民の8億以上はヒンドゥー教徒と言われ、ヒンドゥー教には悪しき身分差別のカースト制度がある。カースト制度には4つの身分があり、その中で身分が一番低い者をシュードラと呼ぶ。先住民でありながら支配される立場の人々、奴隷とも翻訳される。それ以外に制度外で生きる人々はアチュート(不可触賤民)と呼ばれ、社会から分離されてきた。1950年には憲法で禁止されたが、紀元前から歴史を持つ忌まわしい制度は完全に拭い去ることはできず、現在でも下級カーストから生まれた子供たちは重労働や売春を強要され、ストリートチルドレンを生み出す社会問題となっている。
外界に目を背け、安全な修道院内で裕福な上流階級の子女に愛を説く、そこに真の愛があろうか。
1946年9月10日、ダージリンに向かう列車の車窓から流れていく風景を眺めていた時、突如、アグネスの耳に“内なる声”が届いた。
「最も貧しい人の間で働くように」
アグネスに迷いはなかった。その声に従い、修道院を離れて活動する許可を大司教に求めるが、当時のカトリック教会法典第601条(1)、「あらゆる隠修道女は、立願後は聖座の特典がない限り、短期間であっても口実の如何を問わず、修道院から出てはならない。但し、死の危険、またはその他の極度の悪の危険が切迫した場合を除く。」を理由に許可が下りなかった。アグネスは信じる道に従い、許可を願う手紙を黙々と書き続けた。
(大司教宛の手紙の要約)
「貧しい人達を助けたい、という欲求が、私の心をずっと満たしています。それは日に日に強く、はっきりとしてきています。」
内なる声を聞いた2年後、ようやく修道院外活動の特別許可を得た。
アグネスは修道服を脱ぎ、インド女性の民族衣装である質素なサリー、それはシルク製が多い中でも一番低価な木綿製で身を包んだ。最初に飛び込んだのは修道院近くのスラム地区だった。小枝を白墨変わりに、地面を黒板にして貧しい子供たちに言葉を教えるのが活動の始まりだった。彼女の噂を聞きつけ、やがて聖マリア女学校時代の教え子たちが一人二人と協力してくれるようになった。僅かな所持金しか持たなかったアグネスは自ら托鉢して食糧や薬品などを集めた。
1950年、「神の愛の宣教者会」(修道会)設立。
1952年、「死にゆく貧しい人の家」(ホスピス施設)設立。
1955年、「子どもの家」設立。
骨と皮だけの、カゲロウの生命を想わせるような瞬き(まばたき)を重そうにゆっくり繰り返すだけの、人間の表情を失くした人々の手を優しく握り、最期の時を各人の宗教に副って看取った。極度の貧困や両親の病気などによって育てることができない子供や孤児を預かり、育てた。
(「死にゆく貧しい人の家」の理念についてアグネスが語った言葉)
「誰からも見捨てられてしまった人々が最期は大切にされ、愛されていると感じながら亡くなってほしい。彼らがそれまで味わえなかった愛を、最上の形で与えてあげたい。」
アグネスの活動に伴い、彼女の知名度が高くなると世界中から義援金や物資が届くようになった。個人からの寄付金は有り難く受け取ったが、国からの定期的な援助金は断り続けた。援助金を受けるとその事務処理のために、貧しい人々の救済活動に専念する修道女の貴重な時間が割かれてしまうと懸念したアグネスの考えによるものだった。
「神の愛の宣教者会」は、当時の教会法により創設されてから10年間は活動場所がカルカッタに限られていたが、1959年、この制度は撤廃され、その後、アグネスの活動は全インドに広がっていった。1965年には教皇パウロ6世直轄の組織として認可され、インド国外での活動が可能になり、世界中に支部を開設することになった。
全世界の貧しい人々のために活動する彼女には多くの賞が与えられるようになった。
主よ
あなたの平和をもたらす道具として
私をお使いください
憎しみのあるところには
愛を
争いのあるところには
許しを
分裂のあるところには
一致を
誤りのあるところには
真理を
疑いのあるところには
信仰を
絶望のあるところには
希望を
暗闇には
光を
悲しみのあるところには
喜びをもたらす者としてお使いください
慰められるよりも
慰めることを
理解されるよりも
理解することを
愛されるよりも
愛することを求める心をお与えください
忘れることによって自分を見出し
許すことによって許され
自分を捨てて
死に永遠の命をいただくのですから
これは、アグネスがノーベル平和賞受賞した際、スピーチの前に唱えた“聖フランシスコの平和の祈り”の言葉である。
アグネス・ゴンジャ・ボヤジュとは、マザー・テレサ、その人である。
テレビ番組の後半にマスコミ関係者から質問を受け、それに答えるマザーの顔が映し出された。
「あなたのしていることは確かに素晴らしいけど、もっと大掛かりで現実的なやり方があるのではないか」
いつものマザーの哀しみ湛えた表情は消え、厳峻な相貌で相手を見据え、口を開いた。
「私は大仕掛けのやり方には反対です。大切なのは一人一人の個人。愛を伝えるには一人の個人として相手に接しなければなりません。多くの数が揃うのを待っていては数の中に道を見失い、一人のために愛と尊敬を伝えることはできないでしょう。“一人一人の触れ合い”、それこそが何よりも大事なのです。」
英語で語るマザーの肉声、その一節が心に響いた。
I believe in person to person…
person to person…
一人一人…
歩む道は違っても、事の大きさに違いがあろうとも、良心を信じて生きている人々の精神の根っこは小さな愛で繋がっている。
身近なところから、出来ることから、小さなことから。
マザーが87歳で亡くなった時、「神の愛の宣教者会」の従事者は4,000名を数え、123国610箇所のホスピス施設、HIV患者の家、ハンセン病者の施設、炊き出し施設、児童養護施設、学校などで活動していたという。
ウィキペディアに載っていたマザーの言葉。出典基は不明だが、現代社会の闇夜を灯す言葉と思い、ここに紹介して下手な日記を終わりたい。
「私は、なぜ男性と女性が全く同じであると考え、男女の間の素晴らしい違いを否定する人たちがいるのか、理解できません。」
「女性特有の愛の力は、母親になったときに最も顕著に現れ、神様が女性に与えた最高の贈り物、それが母性なのです。」
「子供たちが愛することと、祈ることを学ぶのに最も相応しい場が家庭であり、家庭で父母の姿から学ぶのです。家庭が崩壊したり、不和になったりすれば、多くの子供は愛と祈りを知らずに育ちます。家庭崩壊が進んだ国は、やがて多くの困難な問題を抱えることになるでしょう。」
※参考資料
■NHK「その時歴史が動いた」12月10日 (水) 放送
第345回「一人、そしてまた一人 -マザー・テレサ 平和に捧げた生涯-」
■フリー百科事典「ウィキペディア」
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