「人生の目的は、好きなことを堪能するほどやり抜き、素晴らしい、面白い、愉快な愉快な一生を送り、しかも総ての人々に永く永く喜ばれ、感謝されることである。」

 昨年末の北川八郎氏の講演を機に二人の人物を知り得た。
 北川氏の著書、というよりは講話録の「繁栄の法則」「断食の本」「心の力」からマクロビオティックの久司道夫氏を知り、そして久司氏の師である桜沢如一氏に辿り着いた。
 冒頭の言葉は、桜沢氏の著書「新食養療法」で述べられた幸福の定義である。前半だけ読めば利己的に生きる能天気な阿呆だが、後半の一文でそれが一転する。
 数ある桜沢氏の著書の中から最初に手にした「宇宙の秩序」には、真顔で人に尋ねたら疑りの眼で見られるであろう以前からもやもやと抱いていた事柄、それらを一息で吹き飛ばすかのような同氏独自の哲学的思想が雄弁な文章で語られていた。

 宇宙は、無限に果てなく、どこまでも闇の世界を有しているのか。
 地球の誕生は何故…。
 人類が、海の微生物から進化したとしてもその微生物の始まり、その根元は何物だったのか。
 植物の種子は、何故水を吸うと根を出し、陽の光を受けると緑の茎、葉を伸ばすのか。
 植物は、何故土から得た養分を別の物質に変換することができるのか。
 植物は、何故二酸化炭素を吸収して酸素を放出できるのか。
 言葉を持たない蟻は、何故一糸乱れることなく団体行動が可能なのか。
 蜘蛛は、体内から糸を紡ぎ、何故幾何学模様の巣を編み出すことができるのか。
 鮭は、羅針盤なくして何故大海から母なる一つの河へ辿り着くことができるのか。
 渡り鳥も鮭同様、何故大海原を過たずに、決まった時節に、決まった地に飛来することができるのか。
 雀は、厳冬であろうとも冬仕立ての毛皮を特別に羽織ることなく、毎朝の如く、何故楽しそうに囀ることができるのか。
 熊は、何故数ヶ月もの冬期に亘り、絶食状況下で眠りに徹して生き永らえることができるのか。
 人間の言葉と文字は何故生まれたのか。
 古人は、何故自然を畏れ、敬ったのか。
 古人は、祭祀、年中行事、風俗、習慣を何故大切に受け継いだのか。
 科学の最先端を走る現代でさえも遥かに及ばぬ土木建築技術、芸術、武術、漢方学、思想、文化が何故古人の間に生じたのか。
 何故人間だけが諸々の慾に溺れるのか。
 何故人間だけが大便を排泄して尻穴を拭うようになってしまったのか。
 何故人間だけが奇怪な感情に左右されて同じ人間を殺し、ましてや何故親が子を、子が親を、兄弟を、血縁者を殺すのか。
 人間は、何故戦争を繰り返すのか。
 人間の存在に意味はあるのか。
 太陽が昇り沈み、月が満ち欠け、春の次には夏が、そして秋、冬と続く揺るぎなき季節の流れ、その流れに従う自然界の生物、それに反する人間、何故…。

 漫画好きのセメント会社の社長で、有限界では偉いとされる人物が、“みぞおゆう”と読んだ未曾有の世界的大不況。
 人間を何か特別の存在と勘違いし、自然との共存なしに便利さを追い求め、情報の波に溺れては最新機器の開発を競い、使い捨ての消費を煽り、利を最優先した結果、不様な状況を招いた。
 ものの使い捨てが人の使い捨てを招いたのだ。
 不況がどん底に行き着けばいずれ上向きになるだけだが、先行き不透明な現在、それまで辛抱できない企業はこれからもバタバタと倒れていくだろう。
 不況が回復したとしても、この不況に学び、気付き、アスファルトを引っくり返し、原油や電気の供給、車の生産を必要最低限に留め、食を見直し、昔の生活を、精神を取り戻そうとする人間がどれだけ現れるだろうか。
 現在の資本主義社会を根本から改めない限り、景気の大きな波は何度も世界を襲い、その度に右往左往しては不幸な人間を生み落とす、その繰り返し。

 「なにごとの おわしますかは知らねども かたじけなさに 涙こぼるる」
 日本人よ、西行の感性を知れ。

 北川氏も言う。
 「快適さ、便利さ、裕福さ、速さを求めるばかりが、人生を豊かに、幸せにするものではないのに」と。
 一時の利に目が眩み、たとえそれを手にしたとしてもそれも一時。
 人の一生は短く、死ぬる時、手にした金、財産は彼の世に伴うことはできない。
 持ち得ることができるのは生前、人に与えた喜び、哀しみ、憎しみだけとか。
 ならば、できるだけ多くの人に喜ばれ、感謝されたい。
 それこそが最高の人生である。
 これは冒頭の桜沢氏の言葉にも通じる。

 無限と有限、遠心力と求心力、拡散と収縮、月と太陽、宇宙と地球、天と地、生と死、明と暗、動物と植物、男と女、肉体と精神、白人と有色人、健康と病気、動脈と静脈、赤血球と白血球、五臓と六腑、頭と手足、左と右、善と悪、愛と憎しみ、幸せと不幸、緊張と弛緩、赤外線と紫外線、南半球と北半球、東洋と西洋、寒さと暑さ、喜怒哀楽、栄枯盛衰、始まり終わり…。
  
 形あるものは必ず亡ぶ。
 生は死の始まり、死は生の終わり。
 表裏一体。
 陰極まれば陽を生じ、陽極まれば陰を生ず。
 桜沢氏が唱える無双原理とは、宇宙が、対応、交感、相補、親和性の陰陽秩序の構成を有することを示す世界観をいう。

 僅かばかりの空気の層に囲まれた地球の存在は宇宙の奇跡であり、その奇跡の星で生を営むことができる生物もまた奇跡の中の奇跡。
 今を生きる誰もが、世界人口66億人の分の、数字上の一つではない。
 過去にも未来にも、現在の自分と同じ人間は決して存在しない。
 
 私は、北川氏から怒りの消失を、久司氏から食の基が穀物であることを、桜沢氏からは宇宙の原理と此の世が楽園であることを教えてもらった。
 まだ漠然とした心持ちではあるが、明治時代に始まった急速な西欧化によって現実だけが真実として有限の実体験のみを信じ、それ以上探ることの無意味さを知らず知らずに刷り込まれた脳とは別に、身体のどこか深層に置きっ放しにしてあった数々の問いを解く鍵が生物の根源である食にあることを、己れの行動を静かに見詰めるもう一人の形なき自分が確かに感じ取ったことだけは間違いないようである。


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