今年の正月番組で「白虎隊」が放映された。
脚色された物語の中身について兎や角述べるつもりはないが、この番組に登場したある人物の生き様に触れたい。
その人物の名は日向内記(ひなたないき)。
白虎隊士中ニ番隊隊長として、慶応4年(1868年)、8月22日、上級武士の子弟16、17歳で構成された白虎隊士30数名を率いて戸ノ口原に出陣するも、予想を上回る西軍の猛攻に成す術なく退却を余儀なくされる。
菰土山(こもつちやま)の陣地で一時待機するが、この頃の8月は新暦で10月、冷たい雨が降りしきる中、食料もなく空腹に堪える隊士らを見た日向は、隊長自ら食料調達に出向くことを決する。
残された隊士らは寒さ、飢え、疲れで途方に暮れ、敵の攻撃が強くなったのを境に退却。途中、滝沢山麓では何人かが逸れ、弁天洞門を潜り飯盛山に辿り着いたのは20名だった。
飯盛山から見える会津城下は、敵の攻撃だけでなく、会津藩兵らが放った火によって地獄絵図と化していた。
立ち上る黒煙に鶴ケ城が見え隠れした。
疲労困憊の白虎隊士20名らは戦わずして自刃を決めた。
これが“白虎隊の悲劇”である。

白虎隊ほど知られていないが、“少年達の悲劇”はもう一つある。
白虎隊自刃の約一月前、二本松藩は三春藩の裏切りによって孤立無援になった。
藩領に急迫した西軍への防備のため霞ケ城の兵力は不足、そのため藩は13歳までの少年の出陣を許可した。
少年達の数度に亘る出陣嘆願も藩の決断を促した。
正式に編成された会津藩の白虎隊とは違い、落城を直前して俄かに配属された彼らに隊名はなかった。
後に、“二本松少年隊”と呼ばれた彼らは、新式銃を手にした西軍相手に怯むことなく果敢に戦いを挑んだ。
刀を抜くのも少年達の身体が小さかったため、仲間に抜いてもらったり、あるいは二人が向かい合い腰を折って、互いに相手の刀を抜いたと少年隊の生存者が伝えている。
7月29日、隊長の木村銃太郎ほか数名が戦死し、ついに霞ケ城は炎上、焼け落ちた。奥羽越列藩同盟の信義のために戦った二本松藩の玉砕戦は長岡藩同様、他の藩には見られない壮絶な最後だった。
戦死した少年隊は、隊長の木村22歳、副隊長の二階堂衛守33歳の二人を除き、14名に上る。

戦わずして自刃した白虎隊士中二番隊。
片や、獅子奮迅の戦いの末、負傷、戦死した二本松少年隊。

話は白虎隊に戻り、日向内記は隊士らと離れ離れになった後、どうにかして鶴ヶ城に辿り着き、生き長らえた白虎隊士らで新たに組織された白虎隊の隊長に再選された。
郡上藩の凌霜隊も指揮下において西出丸口で奮戦、籠城戦を戦い抜いている。
日向が士中二番隊の自刃を知ったのは会津藩が降伏開城した後だった。
そして、日向の不運は戊辰戦争後から始まる。
戊辰戦争に敗れた会津藩は、北辺の地の田名部に新生“斗南藩”を再興すべく、旧藩士家族ら1万7千人が陸路、海路を経て移住した。
その中には日向一家の姿もあった。
寒冷不毛の地での厳しい開墾作業が軌道に乗るまで政府の救助米に頼るが、割当少ない救助米を補充するために山野の葛や蕨の根を掘り起こして澱粉とし、海岸に出向いては昆布、若布などの海草を拾って食いつないだ。
山鳩も捕って食した。
地元の人間からは“会津のげだか(毛虫)”と呼ばれ蔑まされた。
そうまでしても栄養失調者は続出、着る物も真冬の厳寒時に夏物の単衣を重ねて凌ぐ有様だった。
そんな飢餓地獄の中、日々の苦しさの吐け口がいつの間にか日向に向けられるようになった。
“白虎隊を置き去りにした卑怯者”
同郷者からそう罵られるようになった。

明治4年(1871年)、廃藩置県が施行されると同時に、藩知事であった幼い松平容大(かたはる)と容保親子は斗南を去り、斗南県は弘前県に合併、さらに青森県に改められた。
会津藩再興の地“斗南”はこの時、消滅した。
主が去り、国を失って、精神的支柱を失くした旧藩士らは身も心も難民となった。
女子供の身売りにまで及ぶ飢餓地獄から脱するには故郷の愛する山河に帰るしかなかった。
斗南に移住した人間の約6割が会津に戻ったと云う。
日向一家も会津に戻るが、数年振りの懐かしい会津の地でも日向に対する怨嗟の声は止むことなく、そのため満足に職に就くことも出来ず、日向にとって会津は最早安住の地には成り得なかった。
止むなく喜多方に移住するが、ここでも卑怯者呼ばわりされ、日雇い仕事で糊口を凌ぐほかなかった。
明治18年(1885年)11月14日、喜多方で失意の内に59歳の生涯を閉じた。

「あなたは日向がどんな人間か知っているのか。会津に住めなかったんだよ。」
「私が日向の立場だったら切腹している。恥晒しだ。」
現在の会津においても年長者から強い口調で言われたことがこれまで二度ある。
日向に対して良い評価を私は一度たりとも聞いたことがない。
しかし、私には、隊長の命令を守らずして持ち場を離れた白虎隊にも非はあるところ、一切の弁明せずして心の内を一人胸にしまい、墓に持ち去った日向に、会津武士の本統の姿が見える。
“会津藩の若き指導者”である山川大蔵(後に浩)の後任として砲兵隊長に任命され、歴戦の朱雀隊を指揮し、籠城戦でも活躍、凌霜隊からも慕われていたほどの日向がどうして切腹を恐れようか。
我が身可愛さに敵前逃亡を謀る小心者に、同郷者から相手にされない針の筵の過酷な状況の中で、どうして斗南での想像を絶する飢餓地獄を乗り越えることが出来ようか。
生き恥を晒すより自裁することのほうが遥かに容易だったに違いない。
自裁しなかったことに日向の無言の抵抗を感じる。
死ぬよりも、より苦しい生きる道を選んだ日向の心の内を誰が知るものか。
現在の会津人からも謗られる日向が憐れでならない。

日向の心情を思い遣った時、吉川英治著「宮本武蔵」の最後の一節が脳裏に浮かんだ。

波騒は世の常である。
波にまかせて、泳ぎ上手に、雑魚は歌い雑魚は躍る。けれど、誰か知ろう、百尺下の水の心を。水のふかさを。

日向の墓は喜多方市の万福寺にある。
近いうち必ずや訪れたい。
3、4年前の或る日、何気なく見た店舗のガラスに映る人物と目が合って驚いた。
否、驚いたと云うより、愕然としたに近い。
誰だ、俺をじっと見つめるこの変な親爺は。
その親爺は、猿のように額に三本皺を寄せ、毛髪は側頭部に残るのみで、燦々と降り注ぐ陽に照らされた前頭部は陽の光を反射するように照り輝いている。
十人位の孫に取り囲まれてもおかしくない年代の猿親爺は、よく見ると私と同じ服を着て私を見ているのだ。
そう、ガラスに映るそいつは紛れもなく私、だった。

文章にすると長くなるが、この間数秒である。
たった数秒間で現実を突きつけられた。
これが俺か。
現実は冷やかである。

7年前位から頭髪の薄さが気になり始めていたが、陽の下や照明の下に入れば光加減によって誰でもそう見えるもので、気のせいだろうと自分を誤魔化していた。
それが、この時は見えぬ何かに頭をがばっと鷲掴みにされ、これが今のお前の姿だ、よく見ろ、とガラスに押し付けられたような強い衝撃を受けた。

決して大袈裟に誇張して云っているのではない。
こんな些細な心情の揺れを身内にさらりと吐露することもできずに秘かに胸の内に隠していた。
便所で、洗面所で、風呂場で、鏡に映る自分の顔を見る度に目を背けた。
鬘で禿げを隠す人間の気持ちが少しだけ分かった。

理髪店で、禿げを誤魔化すには何色で染めたらいいか、とまで聞いた。
店主は、日本人は黄色がいいと教えてくれた。
なるほど、イエローモンキーと蔑称された黄色人種には相応しい色だ。
そうして一時、禿げを誤魔化そうと染めた。
だが、色気付いたような自分に反吐が出るほどの嫌気が差し、すぐに染めることを止めた。
芸能人でもあるまいし、さすがに黄色に染める勇気はなかった。

時間は有り難い。
取るに足らぬ愚かな気掛かりや、悲しみ、辛さも、頭上で吹き荒れる嵐が過ぎ去るのを静かにじっと待っていれば元の状態に戻るように、時間が解決してくれる。
禿げであろうが何だろうが、俺は俺、俺自身に何も変わりはない、そう思えるまでにどの位の時間を要したろう。
半年か、1年か。
卑しくも恥ずべきことは、禿げの自分を人生の落伍者のように見なし、ただ見掛けだけを気にしていたこと。
今振り返ると実にくだらない。

祖父を思い出す。
母方の祖父は前頭部から頭頂部にかけて見事に禿げ上がり、その祖父が若かりし頃(此の頃から禿げていた)にパン屋を営んでいたそうで、それで近所の悪餓鬼どもに渾名を付けられ、よく囃し立てられたと母が話してくれたことがあった。
祖父に付けられた渾名は、“禿げパン”。

祖父の相貌を思い返すと確かにその禿げ方は私と似ている。
隔世遺伝。
血筋は争えないものだ。

祖父の話が出たところで先祖についてだが、所詮一介の水呑み百姓に過ぎない系統だろうと思っていたが、それはそれで喰うや喰わずの生きにくい世の中をしぶとく生き抜き、平成の世にしても子孫が生き残っていることは、唯々先祖に対して頭が下がるばかりである。
ところが、どうもそうでもないらしい。

以前から会津で有名な拝み屋さん(こんこん様とも云う)の噂を何度も耳にして、それが好奇心を煽り、一昨年、到頭足を運んだ。
特別驚くことはなかったが、そこで飼われている猫の佇まいにただならぬ“もの”を感じ、息呑む思いをした。
人間には見えなくても動物には何かが見えるようである。
さて、その辺の話はまたの機会にしたい。
そこで言われたことは、先祖は、豪族、武士である、と。
しかもその先祖の名前まで教えられた。
半信半疑であったが、先祖が武士と云われれば悪い気はしない。
日置かずして、脳軟化が進行している頭では云われたことはすぐに忘れてしまった。

それが、洗面所に映る己が禿げ面を見た或る日、先祖が武士と云われたことが不意に思い出された。
さては、この禿げは先祖が武士であった時分の月代の名残なのかと頭をつるり撫で回した。
武士の時代であれば髷を結い、さぞや大手を振って町中を闊歩したことだろう。

平成や いと口惜しき 禿げ頭

22.皐月、水無月

2007年6月11日 日常
自然のあらゆる気を、毎日、全身に浴びたい。
見えぬ何かに縋りたくなるほど、過ぎ行く日々を引き止めたい。
5月、6月、身体が一番喜ぶ時期。

新緑の、柔らかな赤子のような葉。
銀杏や、欅の大樹の下から天を仰ぎ見ると、透き通るような淡い緑の葉が気持ち良さそうにさわさわと泳ぎ、木洩れ日がきらきらと優しく降り注ぐ。
大樹に抱かれた、心休まる一時。

山が嗤う。
新緑の、こんもりとした山々が、清らかな酸素を空に放ち、風に合わせて豪快に踊る。

会津平野に眩く広がる水田の海原と、棚田の、自然と調和した美しさはどうだ。
これぞ日本の原風景、誇らしい気分に満たされる。

夜空が割れんばかりに谺する蛙の宴。
蛙の子守唄を聴きながら、うつらうつらと寝床に伏していると、いつの間にか、水面から気持ち良さそうに顔を出して鳴いている蛙に姿が入れ替わる。

郭公の声で眼が覚めた。
樹木の天辺、屋根、アンテナ、電柱の天辺で尾羽を上げ下げしながら啼く。
群れない郭公の姿は孤高を感じさせ、好ましく映る。
百舌鳥などの巣に卵を産みつけ、雛を育てることがない郭公は、生来孤独で、冷淡なのかもしれない。
それでも、まだ見ぬ相手に向かい、いつも一人啼くだけの郭公が気の毒にも思える。
ぴゅるるるる。
或る日、郭公の啼き声が変わった。
声のするほうに目を向けると二羽の郭公の姿が見えた。
直ぐさま一羽が飛び立ち、残る一羽が一声啼いて後を追う。
二羽が大欅に消えた。
ぴゅるるるる。
声だけが残った。
連れ添いを見つけたのか。

今朝も夏鳥、郭公が啼く。
夜には蛙の声が響き渡る。
間もなく螢も舞うだろう。

この日この時は二度と戻らない。
季節は巡り、また違う皐月、水無月がやって来る。

21.存命の喜び

2007年6月4日 日常
「なんだか宗教色が強くて、それに気持ちが暗くなる。しかも文がまとまっていないし表現も硬いよ」
今回の日記を初めて読んだ家人の感想。
それでもよかろうと衆前に晒した。

死。
不吉なもの、忌まわしいものと避けられることが多いが、人生の終着である死に向かって生きているのは事実。
聖人君子めいた事を言うつもりはさらさらない。
宗教の勧誘をするつもりでもない。
感じたまでを認めただけである。

一昨年の暮れ、一ヶ月程入院した。
入院の日々、否が応にも自分を見詰めざるを得ない時間がたっぷりと横たわる。
私のような、考えなくてもいい事をくよくようだうだ考える貧乏性の質の人間は、自らを自らに孤に追いやる嫌いがある。
そうやって暇を持て余しては、人間観察と読書、そして、内観である。
相部屋の患者と同じ境遇にある今の立場を、傷を舐め合うように共有し合う仲間意識を持つこともない。
相部屋の患者同士、互いに狸寝入りをしながら、見舞う家族、客の会話を盗み聞き、あるいは素知らぬ振りを装いながら盗み見、その人間をそれとなく推し量る。
深刻な病の患者と自分を比べる。
その度合いの差に救いを見出そうとする。
それを家族にひそひそ話し、身内皆して知らず知らずに毒のある優越感に浸る。

医師、看護士の本統の顔が見える。
“医は仁術なり”
儒教の最高の徳である仁。
それを精一杯実践しようとするのは看護士の卵の研修生ばかりか。
経験を積めば積むほど、年齢を重ねれば重ねるほど、いたわり、思いやり、慈しみの心は離れ、時に使い分けておざなりになる。

慣れは、仕方のないもので具合がいいもので、恐ろしいものである。
莫迦な人間どもは、四苦八苦して痛い目に会って初めて自分の愚かさに気付く。
それに気付いてやり直せるならまだいい。
手遅れになれば嘆きの中で死ぬだけである。

四苦八苦は仏教における苦しみであり、根本的な苦しみを生老病死の四苦とし、この四苦に加え、愛別離苦(愛するものと分かれなければならない苦しみ)、怨憎会苦(憎んでいる対象に出会う苦しみ)、求不得苦(欲しいものが得られない苦しみ)、五陰盛苦(心身の機能が活発なため起こる苦しみ)の四つを加えて八苦と云う。

今回の入院で、当たり前に機能する身体の有り難み、身内の支え、木っ端のような人生を、ずしんとした鈍い響きが身体の芯から聞こえるくらいに思い知らされた。
見える、聴こえる、話せる、嗅げる、味わえる、感じられる、動かせる、排便排尿が出来る、呼吸が出来る、無意識の内に機能している身体は何と慎み深いものか。
当たり前と思っていたものが当たり前でないと知った時の衝撃、これは経験した者でないと分からない。

事故死、病死、殺人、自殺。
全国のどこかで毎日誰かが命を落としている。
その確率は天文学的な割合であっても新聞を見れば実感できる。
お悔やみの欄を見れば享年によって遺族の嘆きの顔が浮かぶ。
朝にあった命が、夕に存命しているかどうか、誰も保証できない。
まさかそんな不幸な出来事が、突然、我が身に降り懸かるとは誰も思わない。
そこに人間の愚かさがある。

遅かれ早かれ、死は必ず訪れる。
死は絶対である。
潮がひたひたと静かに満つるように、いつの間にか我が身に迫り来る。
死と向きあってようやく危うき生を知る。
何が大切で、何がほんものなのか、金、名声、地位、そんなものは糞喰らえ、となる。

哀しくも大方は老いてそれを知る。
そう思い行き着けば、日々の生き方は、仇や疎かにはできない。

病室から見える風景、自然の移ろいに自分の人生を重ねた。
すっぽりと街を被う晩秋の朝靄、凍雨に光るトタン屋根、黔々とした雨雲が発す幾筋もの稲光、初冬の空に舞う一匹の蜻蛉、夕闇と一になる稜線。
日常、何気なく目にしていた風景、自然が切なく胸に迫り、我が身が哀しいほど愛しく思えた。
就寝前、他者との空間を断ち切るようにカーテンを引くと、もう一人の自分が身体の中に滑り込む。
内には隣の患者の鼾と、就寝前に巡回する看護士の足音、外には漆黒の闇を走るタイヤの回転音。
眼を閉じた暗闇に、しばらくすると言葉や形にならない塊が茫と現れた。
その塊は何を示していたのか。

退院後、薄皮を一枚一枚剥ぐような冷徹した眼で、“もの”の本質を、人を、見るようになった。

入院中に読んだ書物の一節が、気弱になった心を、ぐいっと鷲掴みにして揺さぶった。
14世紀の文人、吉田兼好の徒然草の一節である。

死後は序を待たず。死は、前よりしも来たらず、かねて後ろに迫れり。人皆死ある事を知りて、待つことしかも急ならざるに、覚えずして来る。沖の干潟遥かなれども、磯より潮の満つるが如し。(第155段)

されば、人、死を憎まば、生を愛すべし。存命の喜び、日々に楽しまざらんや。愚かなる人、この楽しげを忘れて、いたづがはしく外の楽しびを求め、この財を忘れて、危うく他の財を貪るには、志満つ事なし。生ける間生を楽しまずして、死に臨みて死を恐れば、この理あるべからず。人皆生を楽しまざるは、死を恐れざる故なり。死を恐れざるにはあらず、死の近き事を忘るるなり。もしまた、生死の相にあづからずといはば、実の理を得たりといふべし。(第93段)

真実は時代を超える。

20.宝籤

2007年5月26日 日常
この時期、ドリームジャンボ宝籤が販売中である。
以前は、宣伝用の幟旗に気持ちも煽られ、一攫千金を夢見て、懲りずに、突発的に絶え間なく、せこく、宝籤を買った。
特に年末ジャンボ宝籤の購入の時は気合が入った。
もしも1等宝籤が当たれば、過ぎ去りし日々、踏んだり蹴ったりの地団駄を踏む散々の人生であったにしても、そんな浮世の波なぞ全てご破算、めでたし、めでたしと相成る。
浮かれた正月気分がそれに拍車をかけた。
晦日の抽選会を無視して、翌日の朝刊に思いを馳せる。
晦日の晩は取らぬ狸の皮算用式に思いを巡らす。
どこそこの銀行にどれだけのお金を目立たぬように分配しようか。
如何に目立たぬように陋屋を建て直そうか。
老後に備え、病院の近くに、買い物に便利で、交通の便が良く、除雪の心配がないセカンドハウス、そんな立地条件を満たしたマンションを如何に人知れずに購入しようか。
レンジローバーを購入したいところだが、如何にもこれ見よがしなので、そこそこの国産車で誤魔化してやろうか。
職場で不意に洩れる一人嗤いを、同僚たちに如何に悟られないようにしようか、とか。
思い巡らすと切りがなく、終いには興奮して寝付きが悪くなる。

元旦の朝、折込みチラシでいつもより数倍重くなった朝刊を手に心は躍る。
「目の前にある福は逃げはせん」と逸る気持ちを抑えるように一枚一枚チラシに目を通した後、徐に新聞をテーブルに広げる。
両手には買った宝籤が15枚。
1等前後賞の旨味も外し難く、連番10枚と、少ない軍資金で少しでも当る確率が高くなるようにバラで5枚、締めて僅か4500円で俗な夢を買う。
朝刊の籤番号を喰い入るように見る。
期待に胸膨らませ、1等の番号を呪文のようにぶつぶつ唱えながら手元の宝籤に目を移す。
1等、該当なし、外れ。
「本数も少ないし仕方ない、まぁいいだろう」、一人合点し、次の当りに期待を寄せる。
1等前後賞、外れ。
これも仕方ない。
1等の組違い賞、外れ。
これも仕方ない、か。
2等、外れ。
大きく膨らんでいた期待の風船は徐々に萎み、3等外れ、4等外れ、ラッキー賞も外れ、5等300円お情けの当りのみ。
これで完全に風船は萎み、夢は幣えた。

“会津若松市の某販売所から1等大当り!”
この記事を目にした途端、今此の時、その当選者が市内のどこかでほくそ笑み、喜びに浸っているかと思うと、無性に其奴が恨めしく思えてきた。
これが中通り、浜通り地方、ましてや県外の話であればこんな下衆な思いに囚われることはない。
用意周到には程遠いが、生涯一度の夢のような購入計画が、会津の、他の人間に奪われたと考え違える捻くれた愚かな欲、それがどろどろと溢れ出す。
宝籤が外れたことよりもそう思い至った、腐った自分に腹が立つ。
目出度い正月に何と愚かな、これが一昨年までの我の姿。
20代の頃はもっと度し難い莫迦だった。
若さ故の恥じ知らずと云えば救いがあろうか。
大金が転がり込んだらインターチェンジの近辺にラブホテルを建てよう、人材派遣業を起そう、人より楽に、見掛け良く、小狡く暮らしたいと思っていた。
老若男女へまぐわう場を提供することに、自分は額に汗することなしに他人の上前を刎ねることに、然したる疑問も抱かず、屁にもならない大義名分に隠れてそう思っていた。

誰にでも転機は訪れる。
それに気付くか気付かないか、気付いても気に止めないか。
本人次第。
幸いにして私にも転機は訪れた。
それからと云うもの、何かのスイッチが入ったかのように自分の内部で変わった。
多少の負け惜しみはあるが、他人と自分を比べないことにした。
お金がないことを嘆かないようにした。
宝籤を買うことに、喉に小骨が引っかかった程度の抵抗を感じるようになった。
自分に正直に行動したいと思うようになった。
自分が今置かれている境遇に不満を洩らすことが少なくなってきた。
身の丈に合った生き方をしたいと思うようになった。
足るを知るようになった。
見えないものの大切さを知り、何を大切にしなければならないのか、優先すべきものを知った。

生かされている自分。

奇麗事だけでは喰っていけない薄汚い人間界だが、魑魅魍魎の輩が蠢く世にあってもぎりぎりの線で踏み止まれるだけの信念は手放したくない。

以上、偉そうに人生を達観したようなことを書き連ねながらも、購入回数は減ったが以前として宝籤を買うことを止めてはいない。
日々の生活に汲々しながら心のどこかでは一攫千金を夢見ている。

“富貴なること慳貧なり”

最近、ドリームジャンボ宝籤発売の広告を目にすると、本阿弥妙秀さんの言葉が妙に心に刺さる。
初めに断っておくが、私は昔から政治音痴の無党派である。

安倍首相が14日、参院補選、自民党公認候補者応援のために来県した。
地元紙にその内容が掲載された。
安倍首相は、会津での演説の冒頭で、「先輩が随分迷惑をかけたことをお詫びします」と謝罪した。
会津では、山口県と云えば長州、鹿児島県と云えば薩摩である。
山口県出身の安倍首相は、戊辰戦争において長州が会津に対して行なった非道を詫びた訳である。
これをある作家は、「歴史的な和解。今後は会津の人もわだかまりを氷解させるために努力すべき。」と評した。

安倍首相の謝罪には、飼い主に喉を摩られて気持ち良く目を細めてゴロゴロ喉を鳴らす飼い猫になったような、まんまと為て遣られた、そんな心持ちがする。
一国の首相が謝罪したからと云って、会津はこれを受け、特段、山口に近づく必要もないし、こちらから握手を誘う必要もない。
我関せず、これまで同様の態度でいい。
今回の安倍首相来県の目的は、自民党公認候補者応援のためであって、山口と会津の架け橋となるために訪れたのではない。
選挙前のパフォーマンスに過ぎない。
それを氷解したのどうのと、お門違いも甚だしい。

1945年8月3日は広島へ、その3日後の6日は長崎へ原爆が投下され、一つの爆弾で十数万人の一般市民が亡くなった。
世界唯一の被爆国である日本は、アメリカの、この悪魔の所業を、人類ある限り、永久に伝えていくのと同様、戊辰戦争において同民族が非情な殺戮を繰り広げた事実を決して風化させないために、会津は頑な姿勢を貫くべきである。
戦争は、絶対悪であることを伝えるために。
山口県萩市と手を結ぶ結ばないは、謝罪とは別問題である。

ましてや、会津藩士が眠る京都の金戒光明寺の副住職が云われるように、戊辰戦争における会津の、戦後処理はまだ終っていないのだから。
今朝は、自己嫌悪と、家人の小言に始まった。

昨晩は送別会。
ひどく、無様に酔っ払った。

舌が廻らないようだとかなり酩酊している証拠。
やばいな、と自覚症状があるのに、もういけない。
日頃、鬱積していた感情が爆ぜる。
べらんめぇ口調で捲くし立てる。
その揚句、苦い胃液までも吐き尽くし、何もかも洗いざらいに吐き出した後には、海岸に打ち上げられた溺死体のように、横たえた身体に、じわじわと自己嫌悪の虫が這い上がってくる。

送別会の主役である上司Aを打っちゃって、上司Bへ口角沫を飛ばして発破をかけた。
恐らくは今後、Bは、私を酒に誘うことはないだろう。

自己の感情を律することが出来ないから自己嫌悪に陥る。
見かけは社会の中堅どころを装いながら、その実、中身は何も伴っていない我。
春風駘蕩の如く、いつになったら穏やかな人になれるものか知らん。

今日一日、この自己嫌悪と付き合う破目になったが、夜の同級会までには少しは気も晴れるだろう。
迎え酒を呷って、騒ぐ感情をうまくコントロール出来るかどうか、それに挑んでみたいやけっぱちな気持ちがむくむくと擡げてくるが、今回は、怒髪天を衝くような行為に至る時事問題などは決して話題にせず、酒も口にせずに三浦綾子著の氷点の感想でも述べ、終始穏やかに過ごそう。

宮澤賢治の、“雨ニモマケズ”の“ワタシ”のように、イツモ静カニ笑ッテイル、そんな人になれるように。
昨晩、芋焼酎で酒呑童子のように酔っ払い、テレビを観ていた。
全日空機役員の記者会見の一コマ。
常務がお詫びの言葉を述べる。
「まず初めに詫びを入れるのは常務じゃねえべ、社長だべ」
テレビに向かい文句を言う。
そこに社長の姿はなかった。

「社会全体、すっきりとした潔さがねぇ。ほんとにごせやげる。」
「松岡農水相、おめぇもだ」
「松岡農水相に引導を渡すか否か、安倍首相の潔さ次第だな。」

この日はいつもより口も滑らかに、テレビに吠える酒呑爺であった。
次に検便。
社会人のそれは別として、私の記憶ではどうも小学生の頃しか記憶にない。
担任の教師から直径2、3?位の小さな、白いプラスチック製の容器(器と云うほどのものではない)が渡され、指定日に持参するようにと言われた。
「またかよ」
その度に心の中で舌打ちしたものだ。

その頃、まだ水洗便所は浸透しておらず、当然、洋式の便所なんて聞いたことがなかった。
大半は、金隠しがあって跨がってする和式の、落とし穴を覗けば、こんもりと、糞と、臀を拭いた塵紙が堆く頂になって見えた。
要は、母の実家のそれに便器が付いて足場の板敷きが頑丈になっただけの“どっぽん便所”であった。

提出当日、母は厳かな儀式を始めるかのように、慎重に便器の脇の板場に新聞紙を敷きつめた。
便器に用を足すのではなく、その新聞紙の上に用を足せ、と云うのだ。
尿はどうしたか。
普通、糞をひねり出せば自然と尿も出てくるものだが、新聞紙に脱糞した後、すぐ便器に臀をずらし放尿したのだろうか。
広くない便所内でズボンを下げたまま、臀も拭かずに移動出来るものか。
子供にその切り替えは至難の業である。
下手すると糞で床、足を汚してしまう。
であれば、しゃがむ前に放尿したのか。
気になる。
最近、頓に記憶の断片を思い起こすことが困難となり、躍起になって思い出そうとすると、その断片が掴まえようとする手からするりするりと抜け出るようで、至って精神衛生上良くないのでこの辺で止める。

儀式は続く。
私の役割を終えた後、母は爪楊枝を手に便所に入り込んだ。
新聞紙に脱糞したばかりの、ほかほかの湯気が立ち上る糞に爪楊枝をすっと差し込み、適量を引っ掛けるように掬い上げてプラスチックの専用容器にその爪楊枝を移した。
容器の回りを汚さないよう、その縁に爪楊枝を引っ掛け、慎重に糞を引き落とした。
無事、綺麗に納まったことを確認し、パチンと蓋をする。
新聞紙の残りの糞は便器に落とし、その新聞紙はゴミ袋に入れて処分した。
糞の納まった検便容器は、薬局で薬を処方してもらう時に薬を入れるような小さな紙袋に入れ、万が一に洩れた時、あるいは防臭のために更にその上から二重にしたビニール袋で包んだ。
子供に兄弟が多いと、この儀式を繰り返さなくてはいけないので母親は大変である。
私のところは都合3回あった。

検便を話題にして職場の同僚と話しをした。
同僚も私と同じ世代で、その方法も便器の脇に新聞紙を広げての口だった。
初めての検便は同僚にとって強烈な印象があったようだ。
同僚の母堂は、爪楊枝ではなく割り箸を使い、糞の臭いにおぇっーと空嘔吐の声を吐き、目に涙を溜め、顔を背けながら検便容器に糞を入れた。
その母の姿を傍目に見た同僚は、
「成長するにつれ赤ん坊の糞と違ってえらく臭くなるんだなって、子供ながらに実感したよ」
その話に思わず吹き出してしまい、私の目にも涙が溜まった。

検便は、回虫検査を目的に行なっていた。
人糞尿が農作物の肥料に使われていた時代、土が寄生虫の感染源となり寄生虫病が蔓延、その頃の日本人の70%が感染していた。

私の親の世代は、糞をマッチ箱に入れて学校に持参したそうだ。
「マッチ箱から溢れんばかりにたっぷりと雲古を入れこんだ子もいたよ」
母が笑いながら話すのを聞いて、時代は変わっても子供時代の糞の話題には事欠かないものだなと妙な感心をしてしまった。
マッチ箱では糞が染み出し、教室中がその臭いで充満したことだろう、と余計な心配までも。

検便の方法も現物を専用容器に入れる方法から、朝起きがけにセロテープのようなものを肛門に貼り付け、寄生虫の卵の有無を調べる方法(説明書きにキューピー人形のイラストをモデルにしてあったような記憶がある)、社会人になっては職場の健康診断の一項目として、歯間ブラシのようなもので糞の表面を刮げ採り、それを検査液が入った4、5?の細長い容器に差し込んで蓋をする方法という具合に、回虫検査から便潜血反応による大腸癌検査へと検査目的が変わった。
私の一回り下の世代であれば、小学時代から社会人の健康診断と同じ“歯間ブラシもどき差し込み方式”で検便を行なったそうだ。
寄生虫感染の心配がない世代は初めから大腸癌検査とは、食の変化がそうさせたのか深刻さが増すばかりだが、さてさていかに。
もしかすると、その目的は、次回の「米と異なるもの(後編)」の記述内容であったら驚きである。
いや、間違っても、それはない、だろうな。
糞、雲古のこと。
これから食事をする人は読まないでいただきたい。
平気な人は、どうぞ。

糞の思い出。
誰にでも一つや二つはあるだろう。
私は一つや二つどころではない、結構ある。
自慢することではないが、人間として必要不可欠な、重大な事柄なので表題とした。

まず思い浮かぶのは母の実家の便所。
離れにあって、木戸を開けると四角い穴が空いているだけの“どっぽん便所”.
ここは俺の縄張りである、とでも主張するように、いつも黒色の虻が穴の回りを旋回していた。
床は、小学生の身の重みでさえやっと支えるほどの薄い板切れ1枚で、嫌な軋みが一層心細さを煽った。
臀拭きは新聞紙であったり、凹凸のある塵紙であったり、それが紙製の菓子の空き箱に納まっていた。
便所の穴を覗くと、不気味に黒々として、陽の射し具合によっては黄金色の水面がゆらゆら光って見えた。
黒々としたその穴から、何者かの手がにょろりと臀を撫でそうで、急いで用を足したのを覚えている。
夜中に尿意を催したら最悪である。
祖母、あるいは妹や弟を起こして便所に付き合わせた。
その便所には子供心に人間の及ばぬ世界を感じた。

便所神。
便所に居ると信じられていた神で清潔を好む神である。
雪隠神とも云う。
仏教では烏芻沙摩明王(うすさまみょうおう)と称して崇めている。
会津では、赤ん坊のお七夜を祝う時、産婆がその地方の風習の供物を持ち、雪隠参りをしたそうだ。
この日を赤ん坊が初めて外出する日として尊び、橋を渡らない近隣の三戸の便所を拝み回り、便所神のご守護で、赤ん坊が健康で幸福に育つことを祈る習いがあった。

古人は、身の回りの至る所に神が居ることを信じ、謙虚に生きたのである。

※便所神の説明は「会津大辞典」より引用。

9.矢沢永吉

2007年2月24日 日常
特別な矢沢ファンでもない。
歌も滅多に聴かない。
それでも、矢沢が歌う曲には、正直、惹かれてしまう。

還暦を迎えるお袋が、最近、矢沢の歌を聴き始めた。

以前は、小型のラジオチューナーでラジオを聴くだけだったが、音が途切れる、電池がすぐなくなるなどの繰り言を聞かされて、それで思い出して、私の部屋に眠っていた従妹から貰ったお古のラジカセを引っ張り出し、それを預けた。
機械音痴のお袋にFM、AMの切り替え、チューナーの合わせ方を説明すると、早速、使い始めた。
当初は、ラジオしか聴いていなかった。
ところが、実家に遊びに来ていた妹がカセットテープを使えることを知り、次に訪れた時には、矢沢永吉、長渕剛、南こうせつの昔のテープを持って来て呉れた。
それからと云うもの、愚息の出勤後は、専ら、優雅にテープを聴きながらティーを片手に、である。

お袋はこの3人の大ファンである。
「矢沢永吉、長渕剛からはパワーを貰って、南こうせつには癒されてるよ」
歌を聴き、鼻歌交じりで家事をこなし、お袋は言う。
「なるほどね」
私も胸の内で納得する。

矢沢の歌には、“粋(意気)”、“艶”がある。
年齢を感じさせない矢沢の顔からも“粋”な生き方が伝わって来る。

〜いいさ ほんの 思い 違い それで Go away,girl
24時間 持たない恋の 熱をさらって Southern breeze
顔見知りの 苦っぽさに Winkして Yes my love Yes my love〜

「矢沢のような爺になりてぇもんだ」
休日の午前中、茶の間の炬燵で矢沢の歌を聴きながら、安手の即席珈琲を啜り、淋しくなった前頭部を撫で撫でし、嘯く此の頃である。

※歌詞は「Yes my love −愛はいつも−」より 作詞/ちあき哲也 作曲/矢沢永吉

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