34.蟲
2008年2月12日塩川の熊野神社に立ち寄りて起こりたること。
大方の集落ならば寺社1社なり建立されしもの。
我取り分けて信心深い質でなし。
醜き我欲ただ拭いたし、そればかりのみ。
田圃に残る先客の跡、追いしその先、別の先客ありや。
境内の積雪踏むは人でなし、猫と白鷺二人あり。
寺社に残飯あるでなし、何を求めて行き着くや。
このものら、人及ばざる力持ちたるかな。
澄みたる静寂、厳かなる寒気に身締まりて、束の間過ごし鳥居潜りて後にす。
車に乗り込むやいなや、いつになく職場への連絡思い立ちたる不思議。
右胸ポケットに手差し込めば有るはずの携帯なきに狼狽す。
落ち着けと自らの声なき聲に振り返る様。
はたと気付けり。
神社に向かう道すがら、田圃の溝を飛び越えし時、あるいは長靴のカバー起こし時、落ちたに違いなきやと。
後戻りして溝に跨る足跡、身を屈めて見入れば積雪に刺さる携帯の一部、直ちに認めたり。
胸撫で下ろすなり。
事なき得ざれば瞬く間に忘れる類、されど…。
余所事に聞きたる話。
或る人、海外へ旅発つ予定あり。
其の日近付くにつれ沸々と鬱情募りたりける。
はてさて何が災いしたものか、皆目知る由なし。
迷いし揚句、旅止めたり。
後日、その旅先で邦人旅行者交通事故の急報あり。
死傷者多数あり。
其旅、或る人参加予定のものなり。
もう一話。
地震なきにもよらず、壁掛けの時計、突如落ちたり。
家人、胸騒ぎを覚えり。
その直後、けたたましく電話鳴りて身内の死を知らせるなり。
時計の停止時刻、すなわち死亡時刻となれり。
これらの類、世に多かりし。
されど今人、気に掛けること少なし。
偶然の中の必然を探らず。
蟲の知らせ、疳の蟲、浮気の蟲…。
これら諸々の蟲、見えざる虫なり。
昔人、蟲の兆しに敏なるや。
運命の分かれ道、そこにあり。
人知超えたる第六感にありなむ。
神社での取るに足りない様なれど教えられたり。
我、蟲の起こりたる妙得たり。
心醜くあれば気付かず、心澄みたれば気付くものなりと。
心留め置くことなり。
大方の集落ならば寺社1社なり建立されしもの。
我取り分けて信心深い質でなし。
醜き我欲ただ拭いたし、そればかりのみ。
田圃に残る先客の跡、追いしその先、別の先客ありや。
境内の積雪踏むは人でなし、猫と白鷺二人あり。
寺社に残飯あるでなし、何を求めて行き着くや。
このものら、人及ばざる力持ちたるかな。
澄みたる静寂、厳かなる寒気に身締まりて、束の間過ごし鳥居潜りて後にす。
車に乗り込むやいなや、いつになく職場への連絡思い立ちたる不思議。
右胸ポケットに手差し込めば有るはずの携帯なきに狼狽す。
落ち着けと自らの声なき聲に振り返る様。
はたと気付けり。
神社に向かう道すがら、田圃の溝を飛び越えし時、あるいは長靴のカバー起こし時、落ちたに違いなきやと。
後戻りして溝に跨る足跡、身を屈めて見入れば積雪に刺さる携帯の一部、直ちに認めたり。
胸撫で下ろすなり。
事なき得ざれば瞬く間に忘れる類、されど…。
余所事に聞きたる話。
或る人、海外へ旅発つ予定あり。
其の日近付くにつれ沸々と鬱情募りたりける。
はてさて何が災いしたものか、皆目知る由なし。
迷いし揚句、旅止めたり。
後日、その旅先で邦人旅行者交通事故の急報あり。
死傷者多数あり。
其旅、或る人参加予定のものなり。
もう一話。
地震なきにもよらず、壁掛けの時計、突如落ちたり。
家人、胸騒ぎを覚えり。
その直後、けたたましく電話鳴りて身内の死を知らせるなり。
時計の停止時刻、すなわち死亡時刻となれり。
これらの類、世に多かりし。
されど今人、気に掛けること少なし。
偶然の中の必然を探らず。
蟲の知らせ、疳の蟲、浮気の蟲…。
これら諸々の蟲、見えざる虫なり。
昔人、蟲の兆しに敏なるや。
運命の分かれ道、そこにあり。
人知超えたる第六感にありなむ。
神社での取るに足りない様なれど教えられたり。
我、蟲の起こりたる妙得たり。
心醜くあれば気付かず、心澄みたれば気付くものなりと。
心留め置くことなり。
33.師走の空
2008年2月1日昨年の仕事納めの日、神明通りで歳末街頭募金活動を見掛けた。
師走の気忙しさに追い立てられて行き交う人々に向かい、青年はトランペットを高らかに鳴らして好奇を誘い、その傍らでは青年の妹のような幼い顔立ちの女性が、声を張り上げて募金を呼びかけていた。
その前を一瞥して行き過ぎた連中の一人であった私は、歩きながら小学校時代の同級生Kを想い出した。
Kは転校生だった。
Kの態度には転校したばかりの怖じ怖じとした卑屈さは微塵も感じられず、逆に胸を衝かれるくらいの太々しいほどの生意気さを投げ付けられたものだ。
Kは勉強が良く出来て、楽器の演奏も上手で、相手が先生であろうと誰であろうと自分の意見をはっきり主張した。
教室内での物事は自然とKの意見が左右して運ぶようになった。
教室のどれだけの児童が大人びたKに感化されたことだろう。
Kは好きな女子には正面から告白し、当時、まだ中性から抜け切れていない小便小僧の私に及びもつかない未知の世界を、その彼女と共有していた。
Kはませた少年だった。
学校の帰り道、どんな成り行きでそうなったのか想い出せないが、Kを含む友達数人とKの家に寄ることになった。
Kの家の壁面には救世軍の文字が大きく書かれていた。
珍しさと揶揄の半々の気持ちからだろう、救世軍、救世軍とクラスの悪ガキが面白可笑しくKを囃し立てるようになった。
Kは剥きになって怒ることもなく苦笑いするばかりで、その顔には、やれやれまた始まったかと、平静に受け流す余裕さえ感じられた。
卒業を間近に控え、教室内では互いのサイン帳を交換し、相手への感謝、励ましの想いを記して返す少女的なやりとりが、男女関係なく行われるようになった。
Kの、私の名に因んで書かれた短い励ましの言葉が、誰のものより強く心に残った。
Kは卒業と同時に会津の地を離れた。
その後、二度と会うこともなく、一切の消息を知ることもなかった。
その日の午後、また神明通りを歩くことになった。
募金活動の場所が近付くにつれ、彼らの声が徐々に大きく聞こえてきた。
どこで、どのような遣われ方をしているのか不明瞭な募金活動を、私は信用していない。
虫が好かない。
職場内で回覧される赤い羽根共同募金も同様に。
赤い羽根共同募金の場合、金額の指定が面白くない。
寄附金額の多少が問題ではない。
金額の指定は、募金の性格を無視した高所からの強制通告であり、真意から生ずる尊い募金行為を踏み躙るに等しい。
善意に隠れた売名行為に走る偽善者らもいるが。
御喜捨と同様に各人の判断による金額で結構ではないか。
加えて、何故、無駄な経費を掛けて寄附者にボールペンなぞの記念品をばら撒く必要があるのか。
ボールペンの購入費分そっくり、寄附に充てるべきではないか。
寄附なのか、ボールペンの購入のためなのか、本末転倒も甚だしい。
以上、募金活動に対する持論を今回は度外視して、彼らに近付き、財布が入ったポケットに右手を突っ込んだ。
安月給に見合った自己の経済感覚からすれば過分な額となる金を財布から取り出し、彼らの前に立つと直ぐに人目を盗むように急いで募金箱に金を落とし込んだ。
四十代の大の大人が出すには少ない金額で善人面するつもりは毛頭ない。
今年一年の禊にでもなればいいと手前勝手な利己的な考えと、Kを呼び起こしてくれた懐かしさが私を動かした。
「ありがとうございました」
青年は、身体と直角になるくらいにまでに背を折り曲げて大きな声を張り上げた。
付き纏う偽善を振り払うように、私は足早にその場を後にした。
途中、信号機で立ち止まり、空を見上げた。
凛とした寒空がどこまでも広がっていた。
空に向かい、意識して大きな溜息を吐き出すと、今し方の、あの青年の顔がKに重なって映って見えた。
職場内のせせこましい下衆な人間関係、それを見下していながら気に掛ける我、嫌悪が嫌悪を呼び、数日間、私を不機嫌にさせていた胸糞悪さが、白い息と一緒に師走の青空に吐き出されていくのを晴々と感じていた。
師走の気忙しさに追い立てられて行き交う人々に向かい、青年はトランペットを高らかに鳴らして好奇を誘い、その傍らでは青年の妹のような幼い顔立ちの女性が、声を張り上げて募金を呼びかけていた。
その前を一瞥して行き過ぎた連中の一人であった私は、歩きながら小学校時代の同級生Kを想い出した。
Kは転校生だった。
Kの態度には転校したばかりの怖じ怖じとした卑屈さは微塵も感じられず、逆に胸を衝かれるくらいの太々しいほどの生意気さを投げ付けられたものだ。
Kは勉強が良く出来て、楽器の演奏も上手で、相手が先生であろうと誰であろうと自分の意見をはっきり主張した。
教室内での物事は自然とKの意見が左右して運ぶようになった。
教室のどれだけの児童が大人びたKに感化されたことだろう。
Kは好きな女子には正面から告白し、当時、まだ中性から抜け切れていない小便小僧の私に及びもつかない未知の世界を、その彼女と共有していた。
Kはませた少年だった。
学校の帰り道、どんな成り行きでそうなったのか想い出せないが、Kを含む友達数人とKの家に寄ることになった。
Kの家の壁面には救世軍の文字が大きく書かれていた。
珍しさと揶揄の半々の気持ちからだろう、救世軍、救世軍とクラスの悪ガキが面白可笑しくKを囃し立てるようになった。
Kは剥きになって怒ることもなく苦笑いするばかりで、その顔には、やれやれまた始まったかと、平静に受け流す余裕さえ感じられた。
卒業を間近に控え、教室内では互いのサイン帳を交換し、相手への感謝、励ましの想いを記して返す少女的なやりとりが、男女関係なく行われるようになった。
Kの、私の名に因んで書かれた短い励ましの言葉が、誰のものより強く心に残った。
Kは卒業と同時に会津の地を離れた。
その後、二度と会うこともなく、一切の消息を知ることもなかった。
その日の午後、また神明通りを歩くことになった。
募金活動の場所が近付くにつれ、彼らの声が徐々に大きく聞こえてきた。
どこで、どのような遣われ方をしているのか不明瞭な募金活動を、私は信用していない。
虫が好かない。
職場内で回覧される赤い羽根共同募金も同様に。
赤い羽根共同募金の場合、金額の指定が面白くない。
寄附金額の多少が問題ではない。
金額の指定は、募金の性格を無視した高所からの強制通告であり、真意から生ずる尊い募金行為を踏み躙るに等しい。
善意に隠れた売名行為に走る偽善者らもいるが。
御喜捨と同様に各人の判断による金額で結構ではないか。
加えて、何故、無駄な経費を掛けて寄附者にボールペンなぞの記念品をばら撒く必要があるのか。
ボールペンの購入費分そっくり、寄附に充てるべきではないか。
寄附なのか、ボールペンの購入のためなのか、本末転倒も甚だしい。
以上、募金活動に対する持論を今回は度外視して、彼らに近付き、財布が入ったポケットに右手を突っ込んだ。
安月給に見合った自己の経済感覚からすれば過分な額となる金を財布から取り出し、彼らの前に立つと直ぐに人目を盗むように急いで募金箱に金を落とし込んだ。
四十代の大の大人が出すには少ない金額で善人面するつもりは毛頭ない。
今年一年の禊にでもなればいいと手前勝手な利己的な考えと、Kを呼び起こしてくれた懐かしさが私を動かした。
「ありがとうございました」
青年は、身体と直角になるくらいにまでに背を折り曲げて大きな声を張り上げた。
付き纏う偽善を振り払うように、私は足早にその場を後にした。
途中、信号機で立ち止まり、空を見上げた。
凛とした寒空がどこまでも広がっていた。
空に向かい、意識して大きな溜息を吐き出すと、今し方の、あの青年の顔がKに重なって映って見えた。
職場内のせせこましい下衆な人間関係、それを見下していながら気に掛ける我、嫌悪が嫌悪を呼び、数日間、私を不機嫌にさせていた胸糞悪さが、白い息と一緒に師走の青空に吐き出されていくのを晴々と感じていた。
32.立ち止まる人
2008年1月25日その人は、眼鏡を掛けて、いつも野球帽を被っている。
その人は、乗らずに、いつも自転車を押している。
いつかは、通行の妨げになることなど一向に気に掛ける様子もなく、中央通りの歩道の真ん中で、愛用の自転車を脇にして通りを行き交う車の流れを凝視していた。
いつかは、茶舗の入り口にある、宣伝用に置かれた、急須から茶碗に茶が注ぎ込まれる様子を模した模型を、やはり、愛用の自転車を脇にして凝視していた。
いつかは、私の歩く先に立ち止まっていて、通行人の一人である私を観察しているのかと思いきや、その目は私の身体を通り越してあらぬ所をじっと見ていた。
いつかは、神明通りで…。
その人を見掛ける度に、その人が何を見ているのか、何が見えるのか、とても不思議で興味が沸いた。
世間には世間の流れがあって、その大きなうねりに一人一人が身を預けている。
奔流もあれば緩やかに、静止しているかのように見えても穏やかに、確実に流れている。
その流れから外れると、人は生き辛くなる。
常識、普通という流れ。
その人は、その流れの外にある。
そうして、その流れをじっと観察している。
あるいは、流れが来る前から存在していた樹木かもしれない。
そこに世間の流れが勝手に押し寄せただけ。
世間の流れに耐えられなくなって根こそぎ運ばれた時、その人はその人でなくなり、街頭で立ち尽くす姿を、もうそこに目にすることはないだろう。
好きな時に立ち止まる。
その人の、その自由さが、私にはとてもうらやましい。
その人は、乗らずに、いつも自転車を押している。
いつかは、通行の妨げになることなど一向に気に掛ける様子もなく、中央通りの歩道の真ん中で、愛用の自転車を脇にして通りを行き交う車の流れを凝視していた。
いつかは、茶舗の入り口にある、宣伝用に置かれた、急須から茶碗に茶が注ぎ込まれる様子を模した模型を、やはり、愛用の自転車を脇にして凝視していた。
いつかは、私の歩く先に立ち止まっていて、通行人の一人である私を観察しているのかと思いきや、その目は私の身体を通り越してあらぬ所をじっと見ていた。
いつかは、神明通りで…。
その人を見掛ける度に、その人が何を見ているのか、何が見えるのか、とても不思議で興味が沸いた。
世間には世間の流れがあって、その大きなうねりに一人一人が身を預けている。
奔流もあれば緩やかに、静止しているかのように見えても穏やかに、確実に流れている。
その流れから外れると、人は生き辛くなる。
常識、普通という流れ。
その人は、その流れの外にある。
そうして、その流れをじっと観察している。
あるいは、流れが来る前から存在していた樹木かもしれない。
そこに世間の流れが勝手に押し寄せただけ。
世間の流れに耐えられなくなって根こそぎ運ばれた時、その人はその人でなくなり、街頭で立ち尽くす姿を、もうそこに目にすることはないだろう。
好きな時に立ち止まる。
その人の、その自由さが、私にはとてもうらやましい。
年が明けてまた一歩死に近付いた。
小正月も明けていないのに、何と不謹慎な、とお思いだろうが、これが事実。
そう考えると新年の挨拶は、新年ご愁傷様です、となる。
何が目出度いのか、誰にも改めて聞いたことはないが、まあ何となく分かる。
何となく分かるが、今年初めて顔を会わせる人や電話で話す相手に何度も同じ挨拶を繰り返すと、新年挨拶第一声の新鮮さが少しずつ汚れ、仕舞いには内実の伴わない空々しい言葉の投げ合いにうんざりしてくる。
遡ってクリスマス。
今や正月に繋がる一連の行事だが、大半が仏教徒の日本で何故こうも派手に頓痴気騒ぎをするものか。
子供のいる親はあざとい歳末商戦に踊らされ、サンタに託けて子供へ贈り物を渡し、皆でケーキを喰らい、若い男女に至っては聖夜の最後を醜い肉欲で飾る。
恥ずかしながら私もクリスマスを利用し、酒地肉林に溺れた畜生の一人であった。
成人式。
日本でこれほどくだらない祝賀行事はない。
外国にもあるもんだろうか。
法律の上では20歳が成年だろうが、大人と自覚する精神年齢は個々で違う。
20歳を迎える前に自覚する者もいればそれより遅い者もいる。
死ぬまで成年になれない者もいる。
新聞やテレビを賑わすような成人式の莫迦騒ぎぶりは鳴りを静めたようだが、華美な晴れ着や背広で着飾る乳離れが抜け切らない顔、顔、顔を眺めていると、それがそのまま奈落の底の日本を象徴するようで暗澹としてくる。
成人となる本人よりも人形に着せ替えさせて喜ぶ幼児と化した無様な親の姿がこれに輪を掛ける。
祝すると口実を設けて成人式の場を作る自治体、これも悪辣である。その実、集う連中を野卑た輩と嘲笑う。
どれもこれも茶番劇、どこを見渡しても日本に明るい未来はない。
成人の自覚とは、日常の変わらぬ生活の中で一人噛み締め、淡々と迎えるもの、私はそう思う。
苦労して育ててくれた両親、見えない先祖の力に感謝しつつ。
2月にバレンタイン。
女が想う男にチョコレートを贈る。邪な下心があっても僅かでも想う気持ちに嘘が無いのであれば微笑ましくもあり眉を吊り上げて言うほどでもないが、これに義理が付くと話しは別、特に職場の場合。チョコレートにわざわざ義理と書いてある訳ではないが女の態度を見れば大体分かる。義理ではなく、もう義務であり有り難くも何ともない。それどころか受け取って気分さえ悪くなってくる。しかも、聞いたこともない会社で作られたこの時限りのチョコレートの味が酷い。意図的に不味くしているのか悪意さえ感じる。でん六のピーナッツチョコの方が余程有り難い。
その一ヶ月後、今度は男が女に贈り返さなくてはいけない。こんな儀礼的な飯事遊びは止めてもらいたいが、それを声に出すには大人気ないので私の職場の男共は笑顔の下に聞えない舌打ちを響かせながら黙って贈り返す。
年始の挨拶から連想したつまらぬ戯けをつれづれに記した。
なあなあで済ますことは波風立てぬ処世術かもしれないが、余りに世間は考えずして流され過ぎではないか、もう少し物事の真意に立って処すべきではないか、これが年頭の所感である。
時は途切れることなく流れるが、暦は十二で終わってまた振り出しに戻る。人生に後戻りはないが暦上はまた一からの始まり。
心新たにして1月を無事健やか迎えられる喜び、そういう意味では1月は新鮮味を持ち得る貴重な月である。
新年を迎えるにあたり、今年も一段とこだわりを持って彼方此方にごつごつとぶつかりながら、蛇蝎の如く、人に嫌がられる1年でありたいと願うものである。
小正月も明けていないのに、何と不謹慎な、とお思いだろうが、これが事実。
そう考えると新年の挨拶は、新年ご愁傷様です、となる。
何が目出度いのか、誰にも改めて聞いたことはないが、まあ何となく分かる。
何となく分かるが、今年初めて顔を会わせる人や電話で話す相手に何度も同じ挨拶を繰り返すと、新年挨拶第一声の新鮮さが少しずつ汚れ、仕舞いには内実の伴わない空々しい言葉の投げ合いにうんざりしてくる。
遡ってクリスマス。
今や正月に繋がる一連の行事だが、大半が仏教徒の日本で何故こうも派手に頓痴気騒ぎをするものか。
子供のいる親はあざとい歳末商戦に踊らされ、サンタに託けて子供へ贈り物を渡し、皆でケーキを喰らい、若い男女に至っては聖夜の最後を醜い肉欲で飾る。
恥ずかしながら私もクリスマスを利用し、酒地肉林に溺れた畜生の一人であった。
成人式。
日本でこれほどくだらない祝賀行事はない。
外国にもあるもんだろうか。
法律の上では20歳が成年だろうが、大人と自覚する精神年齢は個々で違う。
20歳を迎える前に自覚する者もいればそれより遅い者もいる。
死ぬまで成年になれない者もいる。
新聞やテレビを賑わすような成人式の莫迦騒ぎぶりは鳴りを静めたようだが、華美な晴れ着や背広で着飾る乳離れが抜け切らない顔、顔、顔を眺めていると、それがそのまま奈落の底の日本を象徴するようで暗澹としてくる。
成人となる本人よりも人形に着せ替えさせて喜ぶ幼児と化した無様な親の姿がこれに輪を掛ける。
祝すると口実を設けて成人式の場を作る自治体、これも悪辣である。その実、集う連中を野卑た輩と嘲笑う。
どれもこれも茶番劇、どこを見渡しても日本に明るい未来はない。
成人の自覚とは、日常の変わらぬ生活の中で一人噛み締め、淡々と迎えるもの、私はそう思う。
苦労して育ててくれた両親、見えない先祖の力に感謝しつつ。
2月にバレンタイン。
女が想う男にチョコレートを贈る。邪な下心があっても僅かでも想う気持ちに嘘が無いのであれば微笑ましくもあり眉を吊り上げて言うほどでもないが、これに義理が付くと話しは別、特に職場の場合。チョコレートにわざわざ義理と書いてある訳ではないが女の態度を見れば大体分かる。義理ではなく、もう義務であり有り難くも何ともない。それどころか受け取って気分さえ悪くなってくる。しかも、聞いたこともない会社で作られたこの時限りのチョコレートの味が酷い。意図的に不味くしているのか悪意さえ感じる。でん六のピーナッツチョコの方が余程有り難い。
その一ヶ月後、今度は男が女に贈り返さなくてはいけない。こんな儀礼的な飯事遊びは止めてもらいたいが、それを声に出すには大人気ないので私の職場の男共は笑顔の下に聞えない舌打ちを響かせながら黙って贈り返す。
年始の挨拶から連想したつまらぬ戯けをつれづれに記した。
なあなあで済ますことは波風立てぬ処世術かもしれないが、余りに世間は考えずして流され過ぎではないか、もう少し物事の真意に立って処すべきではないか、これが年頭の所感である。
時は途切れることなく流れるが、暦は十二で終わってまた振り出しに戻る。人生に後戻りはないが暦上はまた一からの始まり。
心新たにして1月を無事健やか迎えられる喜び、そういう意味では1月は新鮮味を持ち得る貴重な月である。
新年を迎えるにあたり、今年も一段とこだわりを持って彼方此方にごつごつとぶつかりながら、蛇蝎の如く、人に嫌がられる1年でありたいと願うものである。
蛇フ(だふ)を晒してのたうち回る
突き刺さった鏃から逃れようと
躰をぐるぐる反転させ断末魔の動きを繰り返す
時折、尻尾をばたばたさせて
私の背中を
強く、叩く
真夜中
帳から僅かに洩れる街灯の明かりだけの部屋に身を横たえて
四肢を欠いたかのように
何も手出しできないまま
生殺しに喘ぐ蛇の緩急ある動きを窺う
蛇が動きを止めた時
部屋に籠る闇を闇として
どれほどの時を私は意識していられようか
恐れているのは
生の残滓となる悔いのみ
惨めに神に
万物の霊に祈りを捧げる
生きるに値しない命ならば
大いなる力が
呻き苦しむ躰に慈悲の止めを刺すだろう
生きるに値するならば
苦しみ漂う此の世に尊い役目を課すだろう
大地に軟らかな陽射しが注ぐ時
蛇の安らかな寝息が聴けるだろうか
聖なる陽を貌に受け
寝付けぬ不快を抱いたまま目を醒ます
すると
鏃は消え
乾いた血糊を鱗に浮かばせて
抗いに疲れ果てた化身が
躰をゆったりくねらせ
赤子をあやす
母の柔らかな手となって
私の胸を
ぱたぱたと
優しく、叩いた
眥濡らさぬ感謝の涙が静かに流れた
突き刺さった鏃から逃れようと
躰をぐるぐる反転させ断末魔の動きを繰り返す
時折、尻尾をばたばたさせて
私の背中を
強く、叩く
真夜中
帳から僅かに洩れる街灯の明かりだけの部屋に身を横たえて
四肢を欠いたかのように
何も手出しできないまま
生殺しに喘ぐ蛇の緩急ある動きを窺う
蛇が動きを止めた時
部屋に籠る闇を闇として
どれほどの時を私は意識していられようか
恐れているのは
生の残滓となる悔いのみ
惨めに神に
万物の霊に祈りを捧げる
生きるに値しない命ならば
大いなる力が
呻き苦しむ躰に慈悲の止めを刺すだろう
生きるに値するならば
苦しみ漂う此の世に尊い役目を課すだろう
大地に軟らかな陽射しが注ぐ時
蛇の安らかな寝息が聴けるだろうか
聖なる陽を貌に受け
寝付けぬ不快を抱いたまま目を醒ます
すると
鏃は消え
乾いた血糊を鱗に浮かばせて
抗いに疲れ果てた化身が
躰をゆったりくねらせ
赤子をあやす
母の柔らかな手となって
私の胸を
ぱたぱたと
優しく、叩いた
眥濡らさぬ感謝の涙が静かに流れた
年内に予定していた掌編を2編書きたいと思っているが、どうしてなかなかペンが進まない。
無理に文字を書き並べようとしても魂の上辺を摩るばかりが関の山で核心に喰い込まない。
仕事から帰って、つぅんと鼻に付く黄麹造りの芋焼酎のきつめの味に舌鼓を打っていると、五臓六腑よりも先に心が満たされるばかりで書く意欲が除々に消滅してくる。
酒顛、美食に毒され感性が浮遊していく。
退院直後の、ガラスの破片のように脆くも研ぎ澄まされた飢えが離れていく。
今晩は書くか。
焼酎の一升瓶を前にして気持ちを固めようとするが、意に介さず、手が勝手に瓶口に伸びて固まりかけたものを溶かしてしまう。
飢えた狼の眼で、人を、世の中を見渡して相えて来る“もの”がある。
肥えた豚になるには易しいが飢えた狼になるには難しい。
無理に文字を書き並べようとしても魂の上辺を摩るばかりが関の山で核心に喰い込まない。
仕事から帰って、つぅんと鼻に付く黄麹造りの芋焼酎のきつめの味に舌鼓を打っていると、五臓六腑よりも先に心が満たされるばかりで書く意欲が除々に消滅してくる。
酒顛、美食に毒され感性が浮遊していく。
退院直後の、ガラスの破片のように脆くも研ぎ澄まされた飢えが離れていく。
今晩は書くか。
焼酎の一升瓶を前にして気持ちを固めようとするが、意に介さず、手が勝手に瓶口に伸びて固まりかけたものを溶かしてしまう。
飢えた狼の眼で、人を、世の中を見渡して相えて来る“もの”がある。
肥えた豚になるには易しいが飢えた狼になるには難しい。
彼奴の様子を見ようと玄関の扉を押した
外に一歩踏み出すと
温い、淫靡な風が身体に纏わりついた
山椒の幼木を前に
いつもより速い雲の流れを眺めながら
やおら屈んだ
山椒の支柱に取り付いていた蛹は蛻の殻
どこへ行ったんだ、お前
目を凝らす
幼木の根元に
恥らうように
綺麗に着飾った少女が隠れていた
お前か
何故こんな日に
見つかったことが恥ずかしいのか
直様、
天空に身を投げ
風にはためく旗のように
舞い上がり
一枚の木の葉ように
流れて消えた
波瀾の生の幕開け
その厳しさは人間の比にあらず
蝶として生まれたその日に
くたばるやもしれず
己の無念は晴らせたか
台風9号が直撃する9月7日の朝に
強き生を
お前の
強き生命を祈るのみ
外に一歩踏み出すと
温い、淫靡な風が身体に纏わりついた
山椒の幼木を前に
いつもより速い雲の流れを眺めながら
やおら屈んだ
山椒の支柱に取り付いていた蛹は蛻の殻
どこへ行ったんだ、お前
目を凝らす
幼木の根元に
恥らうように
綺麗に着飾った少女が隠れていた
お前か
何故こんな日に
見つかったことが恥ずかしいのか
直様、
天空に身を投げ
風にはためく旗のように
舞い上がり
一枚の木の葉ように
流れて消えた
波瀾の生の幕開け
その厳しさは人間の比にあらず
蝶として生まれたその日に
くたばるやもしれず
己の無念は晴らせたか
台風9号が直撃する9月7日の朝に
強き生を
お前の
強き生命を祈るのみ
1989年(平成元年)11月の或る日、自宅でテレビを見ていた。
画面に大きく映し出されたのは、巨大なコンクリートの壁に向かい、ハンマーを振りかざし、あるいは重機を使って壁を破壊している人々の姿。
壁の天辺に立ち上がり、手を取り合って喜ぶ外国人の姿も映る。
“歓喜の渦”、この言葉以外に表現の仕様がない、そんな光景だった。
二十歳代半ば、己が前途に希望を見出せず、生きる屍の虚無の瞳で、テレビに映る訳の分からぬ光景を遠い国の出来事として、冷ややかに眺めていたのを覚えている。
先月9月の日曜日、久しぶりにスクリーンを通して観た映画を思い返し、そんな事を断片的に想い出した。
1945年、第二次世界大戦に敗北したドイツは、戦勝国の連合国(米・英・仏・ソ)に分割統治され、西ドイツ側を米・英・仏の資本主義国が、東ドイツ側をソ連の社会主義国がそれぞれ統治するようになった。
東ドイツに囲まれた旧ドイツ国の首都であったベルリン市も東西に分断された。
その際、資本主義、社会主義の思想の摩擦により、西ドイツの離れ小島と化した西ベルリン市を囲む形で建設されたのが、長さ155kmに及ぶ“ベルリンの壁”である。
この壁は形の上では西ベルリンを囲んでいるが、実際は、東ドイツ国民が民主化を求めて西ベルリンを経由して西ドイツへ流出(亡命)することを防ぐためのものであり、東ドイツ国民を隔離するための“壁”だったのである。
私が観た映画の舞台となったのは、1984年、ドイツ社会主義統一党のエーリッヒ・ホーネッカー書記長が秘密警察である国家保安省を動員して国民の統制を強めていた、東西冷戦下の東ベルリンであった。
国家保安省局員のヴィースラー大尉は、国家の忠実な下僕として反体制的思想家やそのシンパを、淡々と、冷酷無比に取り締まっていた。
その有能さを買われ、劇作家のドライマンとその恋人である舞台女優のクリスタが反体制派であるという証拠を掴むように命じられる。
国家という名の主人に忠実に仕える番犬の先には、その餌となる出世がぶら下がっていた。
ヴィースラー大尉はドライマンの家の至る所に盗聴器を仕掛け、屋根裏には監視室を設け、虫一匹の音さえ逃さぬ監視網を敷いた。
24時間の監視体制の下、家の内部で展開されるありとあらゆる会話や行動は全て盗聴され、逐一報告された。
動物実験を何度も繰り返す非情な科学者を思わせる眼差しでヴィースラー大尉は二人の容疑者を監視した。
しかし、盗聴中に聴こえてきたドライマンのピアノの演奏を境に、否、この二人に係わって間もなくしてからすでにヴィースラー大尉の内部では、私情挟むべからずという監視の初歩的な基本を外に追いやってしまうほどの何かが芽生え、何かが狂い始めていた。
日々紡ぎだされる言葉、音楽、愛、背徳、葛藤…。
監視室の下には自分が体験したことのない豊潤な世界が広がっていた。
二人の愛に感化され娼婦を抱くヴィースラー大尉。
愛があって男女の本当のセックスがあり、愛し愛される悦びがあることを知る。
いつしかヴィースラー大尉の眼差しは、二人を監視することから見守ることへ変化していった。
この後の展開はこの辺で止めよう。
私の拙いあらすじを読んで映画を観てくれる人がいるかもしれない。
その方に対してこれ以上の説明は野暮というもの。
自分の過去を振り返り、切れ切れの思い出を少しだけ繋ぎ合わせてみる。
ベルリンの壁の崩壊をテレビで目にした18年前、その頃の自分は何者だったのか。
当時の自分の写真を見ると、そこには、印象のない、のっぺりした顔の人間が突っ立っている。
顔は私本人でも別人のように見える。
魂がすっぽりと抜け落ちた蛻の殻。
自らの意志で抗うことのない、易きに流れる根無し草。
青底翳の発症、東京での失意の生活、無職の日々、祖父の死、伯母の死、飼い犬鉄平の死、就職、転職、結婚、両眼の手術、飼い犬太郎の死、離婚、左眼の再手術、昇段審査、友人の自殺、祖母の死、初めて死を意識した検査入院、最後の一人である伯母の死。
様々な体験を通して今の己の顔がある。
この体験がなかったら、汚穢にまみれた現代の世に、昔の、のっぺりとした自分がまだ居座っていただろう。
死にたいと思ったことは一度もないが、顧みてもう一度同じように生きたいとは思わない。
生きることはしんどい。
これからもそうだろう。
事実、そうであろうとも落胆はしない。
人生を、捨てはしない。
そう思い至るようになったのは様々な体験に因るばかりではない。
それは、成功者と犯罪者の紙一重に四苦八苦して生きる莫迦な人間どもであり、夏の暑い最中に道路工事に汗を流す六十歳代の女性の姿であり、駅や病院などの公衆便所を掃除する清掃員の姿であり、川から粗大ごみを一人黙々と引き上げる男性の姿であり、シベリアに抑留された日本兵の魂の絆であり、難病に立ち向かう人々であり、自然保護運動の先駆者として神社合祀に反対した南方熊楠であり、板画の鬼として力強い傑作を数多く遺した棟方志功であり、日本最初の公害である足尾鉱毒事件を告発し身命を賭して明治天皇に直訴を試みた田中正造であり、壮絶な人生を生きた“最後の瞽女”小林ハルであり、生涯をハンセン病患者の救済に捧げた井深八重であり、日本初の知的障害児教育に取り組んだ石井亮一・筆子夫妻であり、日本のナイチンゲールと称された社会福祉事業の先覚者の瓜生岩子であり、人間愛を教えてくれたマザー・テレサであり、貧困層を救うためにグラミン銀行を創設したモハメド・ユヌスであり、破天荒の禅僧一休宗純であり、風雅清貧の僧“大愚”良寛であり、徒然草の作者吉田兼好であり、私を取り巻く生きとし生ける身近な自然界であり、数々の書物、そして、妹、弟、母が、教えてくれた。
人間の営みが自然に則していなければ地球が滅亡するその時まで、世界で、日本で、巷で、人間のおぞましい所業は決して消滅することはない。
愚かな人間どもが蠢く悪行の闇を歩むとも、己が信じる道を生き抜いた先人を励みに、人知れず市井に埋もれながらも良心に生きる人間の存在を信じ、花鳥風月を友とし、生きられるだけしぶとく生き抜き、人間のみが意識し得る心に、光を灯し続けたい。
晩秋の夕暮れ、風に乗って部屋に届く燃した籾殻の匂いを、鼻腔の奥に微かに感じながらしばらくそんな事を考えていた。
※映画は2006年ドイツ作品「善き人のためのソナタ」
画面に大きく映し出されたのは、巨大なコンクリートの壁に向かい、ハンマーを振りかざし、あるいは重機を使って壁を破壊している人々の姿。
壁の天辺に立ち上がり、手を取り合って喜ぶ外国人の姿も映る。
“歓喜の渦”、この言葉以外に表現の仕様がない、そんな光景だった。
二十歳代半ば、己が前途に希望を見出せず、生きる屍の虚無の瞳で、テレビに映る訳の分からぬ光景を遠い国の出来事として、冷ややかに眺めていたのを覚えている。
先月9月の日曜日、久しぶりにスクリーンを通して観た映画を思い返し、そんな事を断片的に想い出した。
1945年、第二次世界大戦に敗北したドイツは、戦勝国の連合国(米・英・仏・ソ)に分割統治され、西ドイツ側を米・英・仏の資本主義国が、東ドイツ側をソ連の社会主義国がそれぞれ統治するようになった。
東ドイツに囲まれた旧ドイツ国の首都であったベルリン市も東西に分断された。
その際、資本主義、社会主義の思想の摩擦により、西ドイツの離れ小島と化した西ベルリン市を囲む形で建設されたのが、長さ155kmに及ぶ“ベルリンの壁”である。
この壁は形の上では西ベルリンを囲んでいるが、実際は、東ドイツ国民が民主化を求めて西ベルリンを経由して西ドイツへ流出(亡命)することを防ぐためのものであり、東ドイツ国民を隔離するための“壁”だったのである。
私が観た映画の舞台となったのは、1984年、ドイツ社会主義統一党のエーリッヒ・ホーネッカー書記長が秘密警察である国家保安省を動員して国民の統制を強めていた、東西冷戦下の東ベルリンであった。
国家保安省局員のヴィースラー大尉は、国家の忠実な下僕として反体制的思想家やそのシンパを、淡々と、冷酷無比に取り締まっていた。
その有能さを買われ、劇作家のドライマンとその恋人である舞台女優のクリスタが反体制派であるという証拠を掴むように命じられる。
国家という名の主人に忠実に仕える番犬の先には、その餌となる出世がぶら下がっていた。
ヴィースラー大尉はドライマンの家の至る所に盗聴器を仕掛け、屋根裏には監視室を設け、虫一匹の音さえ逃さぬ監視網を敷いた。
24時間の監視体制の下、家の内部で展開されるありとあらゆる会話や行動は全て盗聴され、逐一報告された。
動物実験を何度も繰り返す非情な科学者を思わせる眼差しでヴィースラー大尉は二人の容疑者を監視した。
しかし、盗聴中に聴こえてきたドライマンのピアノの演奏を境に、否、この二人に係わって間もなくしてからすでにヴィースラー大尉の内部では、私情挟むべからずという監視の初歩的な基本を外に追いやってしまうほどの何かが芽生え、何かが狂い始めていた。
日々紡ぎだされる言葉、音楽、愛、背徳、葛藤…。
監視室の下には自分が体験したことのない豊潤な世界が広がっていた。
二人の愛に感化され娼婦を抱くヴィースラー大尉。
愛があって男女の本当のセックスがあり、愛し愛される悦びがあることを知る。
いつしかヴィースラー大尉の眼差しは、二人を監視することから見守ることへ変化していった。
この後の展開はこの辺で止めよう。
私の拙いあらすじを読んで映画を観てくれる人がいるかもしれない。
その方に対してこれ以上の説明は野暮というもの。
自分の過去を振り返り、切れ切れの思い出を少しだけ繋ぎ合わせてみる。
ベルリンの壁の崩壊をテレビで目にした18年前、その頃の自分は何者だったのか。
当時の自分の写真を見ると、そこには、印象のない、のっぺりした顔の人間が突っ立っている。
顔は私本人でも別人のように見える。
魂がすっぽりと抜け落ちた蛻の殻。
自らの意志で抗うことのない、易きに流れる根無し草。
青底翳の発症、東京での失意の生活、無職の日々、祖父の死、伯母の死、飼い犬鉄平の死、就職、転職、結婚、両眼の手術、飼い犬太郎の死、離婚、左眼の再手術、昇段審査、友人の自殺、祖母の死、初めて死を意識した検査入院、最後の一人である伯母の死。
様々な体験を通して今の己の顔がある。
この体験がなかったら、汚穢にまみれた現代の世に、昔の、のっぺりとした自分がまだ居座っていただろう。
死にたいと思ったことは一度もないが、顧みてもう一度同じように生きたいとは思わない。
生きることはしんどい。
これからもそうだろう。
事実、そうであろうとも落胆はしない。
人生を、捨てはしない。
そう思い至るようになったのは様々な体験に因るばかりではない。
それは、成功者と犯罪者の紙一重に四苦八苦して生きる莫迦な人間どもであり、夏の暑い最中に道路工事に汗を流す六十歳代の女性の姿であり、駅や病院などの公衆便所を掃除する清掃員の姿であり、川から粗大ごみを一人黙々と引き上げる男性の姿であり、シベリアに抑留された日本兵の魂の絆であり、難病に立ち向かう人々であり、自然保護運動の先駆者として神社合祀に反対した南方熊楠であり、板画の鬼として力強い傑作を数多く遺した棟方志功であり、日本最初の公害である足尾鉱毒事件を告発し身命を賭して明治天皇に直訴を試みた田中正造であり、壮絶な人生を生きた“最後の瞽女”小林ハルであり、生涯をハンセン病患者の救済に捧げた井深八重であり、日本初の知的障害児教育に取り組んだ石井亮一・筆子夫妻であり、日本のナイチンゲールと称された社会福祉事業の先覚者の瓜生岩子であり、人間愛を教えてくれたマザー・テレサであり、貧困層を救うためにグラミン銀行を創設したモハメド・ユヌスであり、破天荒の禅僧一休宗純であり、風雅清貧の僧“大愚”良寛であり、徒然草の作者吉田兼好であり、私を取り巻く生きとし生ける身近な自然界であり、数々の書物、そして、妹、弟、母が、教えてくれた。
人間の営みが自然に則していなければ地球が滅亡するその時まで、世界で、日本で、巷で、人間のおぞましい所業は決して消滅することはない。
愚かな人間どもが蠢く悪行の闇を歩むとも、己が信じる道を生き抜いた先人を励みに、人知れず市井に埋もれながらも良心に生きる人間の存在を信じ、花鳥風月を友とし、生きられるだけしぶとく生き抜き、人間のみが意識し得る心に、光を灯し続けたい。
晩秋の夕暮れ、風に乗って部屋に届く燃した籾殻の匂いを、鼻腔の奥に微かに感じながらしばらくそんな事を考えていた。
※映画は2006年ドイツ作品「善き人のためのソナタ」
雨蛙か昆虫の糞だろう。
山椒の葉の上のそれを指で弾き飛ばそうと身を屈めた。
ん、小さな驚きが口の中で漏れた。
見た目は紛れもなく糞だが、何かが違う。
それは5、6mmの大きさで、凹凸のあるごつごつした黒色の表面に覆われており、中心部には白い液体状のものが飛び散って乾いたような痕跡がある。
全く動く気配はない。
糞であれば当然。
だが、葉への取り付き方がどことなく変なのだ。
自らの意志で取り付いている、そんな代物だった。
出勤前の慌しい時間帯にゆっくり観察している暇もなく、何かの成長過程の幼虫だろうと早々と結論を下し、その場を離れた。
葉山椒は、昨年の3月、近くの農園を冷やかしに覗いた時に買ったものだ。
食い意地が張る性分からだろう、どうせ庭に植えるなら食用になるものが良いと買った。
庭には、このさもしい性格故に山椒の他にも食用となる植物が所狭しと無雑作に植えてある。
高田梅、姫林檎、ゆすら梅、朝倉山椒、ラズベリー、プルーン、ソルダム、アーモンド、鳥の糞に混じっていた種から自然発生したグミの木。
茶、料理、香り付けに使えるハーブに至っては、フェンネルほか多年草を中心に十数種類に及ぶ。
大層な広さの庭を想像するかもしれない。
さにあらず、食い意地と、草むしりの作業から解放されることを見越して少しでも空いている敷地に植えただけ。
成長後の大きさを念頭に置かずに植えれば、いずれ間引く必要に迫られるだろう。
己、この業突く張りの植栽者めが。
手入れの行き届かない山林のような庭だが、植物の身を考えぬ独善的な人間にでも、植物たちは四季の移り変わりによって生ずる彩り、香りを無償で提供してくれる。
どれだけ癒されているか知れない。
万物の霊長たる人間の、何と身勝手なものか。
定植した山椒に変な代物が取り付き始めたのは6月からだった。
何かの幼虫と認めた翌日の朝、山椒の様子を見に行くと、その変な代物は別の枝に移動していた。
相変わらずじっとしている。
目の前で一度も動いた試しがない。
なのに移動していた。
凝り固まって動かない棒状のそれは、どのように動き、移動するのか。
尺取虫のように歩むのか、それとも芋虫のようにうねうねと進むのか。
見詰められていることを知ってか知らずか、人の目を盗んでは瞬時に移動する術を隠し持っているかのように、其奴の佇まいに奥床しささえ感じるまでになった。
其奴は日増しに少しずつ大きくなっていった。
ネットで調べて此奴の正体が判明した。
ナミアゲハ。
糞のような塊の此奴が、はたはたと儚く夏空を舞う蝶の幼虫だったとは。
愛想の無い相変わらずの容姿が、ある朝、くるりと姿を変えた。
変態である。
ごつごつとした黒い肌がビロードのように滑らかな肌に変わり、鮮やかな青緑色になった。
頭部には目のような紋様が描かれている。
以前のような奥床しさは消え、人の目を気にせず、頭部を上げ下げして生まれたばかりの赤子のような柔らかな若葉ばかりを、一心不乱に、がつがつと貪り喰っている。
やがて、幼虫は子供の小指ほどの大きさになり、忽然と消えた。
山椒の葉に溶け込むかのような隠蔽色の幼虫を目を皿にして捜した。
見つからない。
昨年の夏はこの繰り返しだった。
何匹の幼虫が消えただろう。
我が家から飛び立つ蝶の姿を見ることなく、夏は終わった。
今年。
また違う夏が訪れた。
山椒の幼木に、無愛想な彼奴が、また姿を現した。
そして消えた。
消える度に、通りすがりに忘れる程度の、僅かな失望を覚えた。
8月中旬、また一匹、懲りずに山椒の葉に取り付き、大地から這い出たような姿から若葉のような鮮やかな姿に変態した。
人為的な行動に打って出た。
山椒の周りに鳥除けの幕を張った。
電線に止まっている鳥に疑いを抱いた。
幼虫は消えたのではなく、鳥に喰われたものと判断した。
ころころと太った幼虫の食べ頃を鳥どもは知っているのだ。
鳥除けの幕の中で幼虫は無心に若葉を貪り喰っていた。
8月25日、幼虫は奇妙な姿で固まっていた。
鳥除けの幕の支柱に、尾を支点として頭を上にして傾き、腕の役目を担う細い透明な糸2本が、身体の中心部と支柱をぴんと繋いでいた。
翌日には、幼虫の痕跡を一切留めず、数枚の衣をぴっしりと羽織ったようにミイラ化していた。
蛹になった。
それから1週間後、まだ飛び立つ気配を見せてはいない。
糞状の幼虫の“静”から、鮮やかな青緑色の幼虫の“動”へ、そして今、最後の“動”となる蝶の姿に変わる前に、蛹として静謐の時を過ごしている。
此奴に何かを期待している。
期待しているから手を差し伸べた。
自分の庭から飛び立つ蝶の姿を見たい、それだけでないことは確かだ。
宇宙規模で考えれば人間は糞にも屁にもならない滓以下だ。
そんな存在でありながら一生の大半を齷齪と暮らす。
自分のため、家族のため、社会のため。
好きなように生きる、それがどれだけ困難な事か、まともな大人なら誰でも知っている。
何かしらに繋がっている、だから生きていける。
四十而不惑。
こんな戯けを誰が言ったか、惑うばかりの四十を越えて、それら繋がりを全て絶ち、身を野に晒しながら生きてみたいと狂気染みた想いに囚われるようになった。
首都高から見える河川敷の青いテントを見るにつけ、私と同種の人間の存在に、それを実践していることに羨望に近い感情を持つようになった。
ただ違うのは、彼らがまだ都会と繋がっていること。
飛翔し、吸蜜し、一瞬の交尾に命を燃やして卵を産み果てる蝶の短き一生。
生きる、その濃密さにおいて人間はたかが虫ごときの足元に遠く及ばない。
生の長短ではない。
蛹の殻を破り、紺碧の空へ飛び立つ時、私も飛び立つ。
洗い浚い、何もかも捨てろ。
自然に身を投げろ。
命を燃やせ。
その無念を、飛翔の時を静かに待つ此奴に、私は託す。
山椒の葉の上のそれを指で弾き飛ばそうと身を屈めた。
ん、小さな驚きが口の中で漏れた。
見た目は紛れもなく糞だが、何かが違う。
それは5、6mmの大きさで、凹凸のあるごつごつした黒色の表面に覆われており、中心部には白い液体状のものが飛び散って乾いたような痕跡がある。
全く動く気配はない。
糞であれば当然。
だが、葉への取り付き方がどことなく変なのだ。
自らの意志で取り付いている、そんな代物だった。
出勤前の慌しい時間帯にゆっくり観察している暇もなく、何かの成長過程の幼虫だろうと早々と結論を下し、その場を離れた。
葉山椒は、昨年の3月、近くの農園を冷やかしに覗いた時に買ったものだ。
食い意地が張る性分からだろう、どうせ庭に植えるなら食用になるものが良いと買った。
庭には、このさもしい性格故に山椒の他にも食用となる植物が所狭しと無雑作に植えてある。
高田梅、姫林檎、ゆすら梅、朝倉山椒、ラズベリー、プルーン、ソルダム、アーモンド、鳥の糞に混じっていた種から自然発生したグミの木。
茶、料理、香り付けに使えるハーブに至っては、フェンネルほか多年草を中心に十数種類に及ぶ。
大層な広さの庭を想像するかもしれない。
さにあらず、食い意地と、草むしりの作業から解放されることを見越して少しでも空いている敷地に植えただけ。
成長後の大きさを念頭に置かずに植えれば、いずれ間引く必要に迫られるだろう。
己、この業突く張りの植栽者めが。
手入れの行き届かない山林のような庭だが、植物の身を考えぬ独善的な人間にでも、植物たちは四季の移り変わりによって生ずる彩り、香りを無償で提供してくれる。
どれだけ癒されているか知れない。
万物の霊長たる人間の、何と身勝手なものか。
定植した山椒に変な代物が取り付き始めたのは6月からだった。
何かの幼虫と認めた翌日の朝、山椒の様子を見に行くと、その変な代物は別の枝に移動していた。
相変わらずじっとしている。
目の前で一度も動いた試しがない。
なのに移動していた。
凝り固まって動かない棒状のそれは、どのように動き、移動するのか。
尺取虫のように歩むのか、それとも芋虫のようにうねうねと進むのか。
見詰められていることを知ってか知らずか、人の目を盗んでは瞬時に移動する術を隠し持っているかのように、其奴の佇まいに奥床しささえ感じるまでになった。
其奴は日増しに少しずつ大きくなっていった。
ネットで調べて此奴の正体が判明した。
ナミアゲハ。
糞のような塊の此奴が、はたはたと儚く夏空を舞う蝶の幼虫だったとは。
愛想の無い相変わらずの容姿が、ある朝、くるりと姿を変えた。
変態である。
ごつごつとした黒い肌がビロードのように滑らかな肌に変わり、鮮やかな青緑色になった。
頭部には目のような紋様が描かれている。
以前のような奥床しさは消え、人の目を気にせず、頭部を上げ下げして生まれたばかりの赤子のような柔らかな若葉ばかりを、一心不乱に、がつがつと貪り喰っている。
やがて、幼虫は子供の小指ほどの大きさになり、忽然と消えた。
山椒の葉に溶け込むかのような隠蔽色の幼虫を目を皿にして捜した。
見つからない。
昨年の夏はこの繰り返しだった。
何匹の幼虫が消えただろう。
我が家から飛び立つ蝶の姿を見ることなく、夏は終わった。
今年。
また違う夏が訪れた。
山椒の幼木に、無愛想な彼奴が、また姿を現した。
そして消えた。
消える度に、通りすがりに忘れる程度の、僅かな失望を覚えた。
8月中旬、また一匹、懲りずに山椒の葉に取り付き、大地から這い出たような姿から若葉のような鮮やかな姿に変態した。
人為的な行動に打って出た。
山椒の周りに鳥除けの幕を張った。
電線に止まっている鳥に疑いを抱いた。
幼虫は消えたのではなく、鳥に喰われたものと判断した。
ころころと太った幼虫の食べ頃を鳥どもは知っているのだ。
鳥除けの幕の中で幼虫は無心に若葉を貪り喰っていた。
8月25日、幼虫は奇妙な姿で固まっていた。
鳥除けの幕の支柱に、尾を支点として頭を上にして傾き、腕の役目を担う細い透明な糸2本が、身体の中心部と支柱をぴんと繋いでいた。
翌日には、幼虫の痕跡を一切留めず、数枚の衣をぴっしりと羽織ったようにミイラ化していた。
蛹になった。
それから1週間後、まだ飛び立つ気配を見せてはいない。
糞状の幼虫の“静”から、鮮やかな青緑色の幼虫の“動”へ、そして今、最後の“動”となる蝶の姿に変わる前に、蛹として静謐の時を過ごしている。
此奴に何かを期待している。
期待しているから手を差し伸べた。
自分の庭から飛び立つ蝶の姿を見たい、それだけでないことは確かだ。
宇宙規模で考えれば人間は糞にも屁にもならない滓以下だ。
そんな存在でありながら一生の大半を齷齪と暮らす。
自分のため、家族のため、社会のため。
好きなように生きる、それがどれだけ困難な事か、まともな大人なら誰でも知っている。
何かしらに繋がっている、だから生きていける。
四十而不惑。
こんな戯けを誰が言ったか、惑うばかりの四十を越えて、それら繋がりを全て絶ち、身を野に晒しながら生きてみたいと狂気染みた想いに囚われるようになった。
首都高から見える河川敷の青いテントを見るにつけ、私と同種の人間の存在に、それを実践していることに羨望に近い感情を持つようになった。
ただ違うのは、彼らがまだ都会と繋がっていること。
飛翔し、吸蜜し、一瞬の交尾に命を燃やして卵を産み果てる蝶の短き一生。
生きる、その濃密さにおいて人間はたかが虫ごときの足元に遠く及ばない。
生の長短ではない。
蛹の殻を破り、紺碧の空へ飛び立つ時、私も飛び立つ。
洗い浚い、何もかも捨てろ。
自然に身を投げろ。
命を燃やせ。
その無念を、飛翔の時を静かに待つ此奴に、私は託す。
今年の正月番組で「白虎隊」が放映された。
脚色された物語の中身について兎や角述べるつもりはないが、この番組に登場したある人物の生き様に触れたい。
その人物の名は日向内記(ひなたないき)。
白虎隊士中ニ番隊隊長として、慶応4年(1868年)、8月22日、上級武士の子弟16、17歳で構成された白虎隊士30数名を率いて戸ノ口原に出陣するも、予想を上回る西軍の猛攻に成す術なく退却を余儀なくされる。
菰土山(こもつちやま)の陣地で一時待機するが、この頃の8月は新暦で10月、冷たい雨が降りしきる中、食料もなく空腹に堪える隊士らを見た日向は、隊長自ら食料調達に出向くことを決する。
残された隊士らは寒さ、飢え、疲れで途方に暮れ、敵の攻撃が強くなったのを境に退却。途中、滝沢山麓では何人かが逸れ、弁天洞門を潜り飯盛山に辿り着いたのは20名だった。
飯盛山から見える会津城下は、敵の攻撃だけでなく、会津藩兵らが放った火によって地獄絵図と化していた。
立ち上る黒煙に鶴ケ城が見え隠れした。
疲労困憊の白虎隊士20名らは戦わずして自刃を決めた。
これが“白虎隊の悲劇”である。
白虎隊ほど知られていないが、“少年達の悲劇”はもう一つある。
白虎隊自刃の約一月前、二本松藩は三春藩の裏切りによって孤立無援になった。
藩領に急迫した西軍への防備のため霞ケ城の兵力は不足、そのため藩は13歳までの少年の出陣を許可した。
少年達の数度に亘る出陣嘆願も藩の決断を促した。
正式に編成された会津藩の白虎隊とは違い、落城を直前して俄かに配属された彼らに隊名はなかった。
後に、“二本松少年隊”と呼ばれた彼らは、新式銃を手にした西軍相手に怯むことなく果敢に戦いを挑んだ。
刀を抜くのも少年達の身体が小さかったため、仲間に抜いてもらったり、あるいは二人が向かい合い腰を折って、互いに相手の刀を抜いたと少年隊の生存者が伝えている。
7月29日、隊長の木村銃太郎ほか数名が戦死し、ついに霞ケ城は炎上、焼け落ちた。奥羽越列藩同盟の信義のために戦った二本松藩の玉砕戦は長岡藩同様、他の藩には見られない壮絶な最後だった。
戦死した少年隊は、隊長の木村22歳、副隊長の二階堂衛守33歳の二人を除き、14名に上る。
戦わずして自刃した白虎隊士中二番隊。
片や、獅子奮迅の戦いの末、負傷、戦死した二本松少年隊。
話は白虎隊に戻り、日向内記は隊士らと離れ離れになった後、どうにかして鶴ヶ城に辿り着き、生き長らえた白虎隊士らで新たに組織された白虎隊の隊長に再選された。
郡上藩の凌霜隊も指揮下において西出丸口で奮戦、籠城戦を戦い抜いている。
日向が士中二番隊の自刃を知ったのは会津藩が降伏開城した後だった。
そして、日向の不運は戊辰戦争後から始まる。
戊辰戦争に敗れた会津藩は、北辺の地の田名部に新生“斗南藩”を再興すべく、旧藩士家族ら1万7千人が陸路、海路を経て移住した。
その中には日向一家の姿もあった。
寒冷不毛の地での厳しい開墾作業が軌道に乗るまで政府の救助米に頼るが、割当少ない救助米を補充するために山野の葛や蕨の根を掘り起こして澱粉とし、海岸に出向いては昆布、若布などの海草を拾って食いつないだ。
山鳩も捕って食した。
地元の人間からは“会津のげだか(毛虫)”と呼ばれ蔑まされた。
そうまでしても栄養失調者は続出、着る物も真冬の厳寒時に夏物の単衣を重ねて凌ぐ有様だった。
そんな飢餓地獄の中、日々の苦しさの吐け口がいつの間にか日向に向けられるようになった。
“白虎隊を置き去りにした卑怯者”
同郷者からそう罵られるようになった。
明治4年(1871年)、廃藩置県が施行されると同時に、藩知事であった幼い松平容大(かたはる)と容保親子は斗南を去り、斗南県は弘前県に合併、さらに青森県に改められた。
会津藩再興の地“斗南”はこの時、消滅した。
主が去り、国を失って、精神的支柱を失くした旧藩士らは身も心も難民となった。
女子供の身売りにまで及ぶ飢餓地獄から脱するには故郷の愛する山河に帰るしかなかった。
斗南に移住した人間の約6割が会津に戻ったと云う。
日向一家も会津に戻るが、数年振りの懐かしい会津の地でも日向に対する怨嗟の声は止むことなく、そのため満足に職に就くことも出来ず、日向にとって会津は最早安住の地には成り得なかった。
止むなく喜多方に移住するが、ここでも卑怯者呼ばわりされ、日雇い仕事で糊口を凌ぐほかなかった。
明治18年(1885年)11月14日、喜多方で失意の内に59歳の生涯を閉じた。
「あなたは日向がどんな人間か知っているのか。会津に住めなかったんだよ。」
「私が日向の立場だったら切腹している。恥晒しだ。」
現在の会津においても年長者から強い口調で言われたことがこれまで二度ある。
日向に対して良い評価を私は一度たりとも聞いたことがない。
しかし、私には、隊長の命令を守らずして持ち場を離れた白虎隊にも非はあるところ、一切の弁明せずして心の内を一人胸にしまい、墓に持ち去った日向に、会津武士の本統の姿が見える。
“会津藩の若き指導者”である山川大蔵(後に浩)の後任として砲兵隊長に任命され、歴戦の朱雀隊を指揮し、籠城戦でも活躍、凌霜隊からも慕われていたほどの日向がどうして切腹を恐れようか。
我が身可愛さに敵前逃亡を謀る小心者に、同郷者から相手にされない針の筵の過酷な状況の中で、どうして斗南での想像を絶する飢餓地獄を乗り越えることが出来ようか。
生き恥を晒すより自裁することのほうが遥かに容易だったに違いない。
自裁しなかったことに日向の無言の抵抗を感じる。
死ぬよりも、より苦しい生きる道を選んだ日向の心の内を誰が知るものか。
現在の会津人からも謗られる日向が憐れでならない。
日向の心情を思い遣った時、吉川英治著「宮本武蔵」の最後の一節が脳裏に浮かんだ。
波騒は世の常である。
波にまかせて、泳ぎ上手に、雑魚は歌い雑魚は躍る。けれど、誰か知ろう、百尺下の水の心を。水のふかさを。
日向の墓は喜多方市の万福寺にある。
近いうち必ずや訪れたい。
脚色された物語の中身について兎や角述べるつもりはないが、この番組に登場したある人物の生き様に触れたい。
その人物の名は日向内記(ひなたないき)。
白虎隊士中ニ番隊隊長として、慶応4年(1868年)、8月22日、上級武士の子弟16、17歳で構成された白虎隊士30数名を率いて戸ノ口原に出陣するも、予想を上回る西軍の猛攻に成す術なく退却を余儀なくされる。
菰土山(こもつちやま)の陣地で一時待機するが、この頃の8月は新暦で10月、冷たい雨が降りしきる中、食料もなく空腹に堪える隊士らを見た日向は、隊長自ら食料調達に出向くことを決する。
残された隊士らは寒さ、飢え、疲れで途方に暮れ、敵の攻撃が強くなったのを境に退却。途中、滝沢山麓では何人かが逸れ、弁天洞門を潜り飯盛山に辿り着いたのは20名だった。
飯盛山から見える会津城下は、敵の攻撃だけでなく、会津藩兵らが放った火によって地獄絵図と化していた。
立ち上る黒煙に鶴ケ城が見え隠れした。
疲労困憊の白虎隊士20名らは戦わずして自刃を決めた。
これが“白虎隊の悲劇”である。
白虎隊ほど知られていないが、“少年達の悲劇”はもう一つある。
白虎隊自刃の約一月前、二本松藩は三春藩の裏切りによって孤立無援になった。
藩領に急迫した西軍への防備のため霞ケ城の兵力は不足、そのため藩は13歳までの少年の出陣を許可した。
少年達の数度に亘る出陣嘆願も藩の決断を促した。
正式に編成された会津藩の白虎隊とは違い、落城を直前して俄かに配属された彼らに隊名はなかった。
後に、“二本松少年隊”と呼ばれた彼らは、新式銃を手にした西軍相手に怯むことなく果敢に戦いを挑んだ。
刀を抜くのも少年達の身体が小さかったため、仲間に抜いてもらったり、あるいは二人が向かい合い腰を折って、互いに相手の刀を抜いたと少年隊の生存者が伝えている。
7月29日、隊長の木村銃太郎ほか数名が戦死し、ついに霞ケ城は炎上、焼け落ちた。奥羽越列藩同盟の信義のために戦った二本松藩の玉砕戦は長岡藩同様、他の藩には見られない壮絶な最後だった。
戦死した少年隊は、隊長の木村22歳、副隊長の二階堂衛守33歳の二人を除き、14名に上る。
戦わずして自刃した白虎隊士中二番隊。
片や、獅子奮迅の戦いの末、負傷、戦死した二本松少年隊。
話は白虎隊に戻り、日向内記は隊士らと離れ離れになった後、どうにかして鶴ヶ城に辿り着き、生き長らえた白虎隊士らで新たに組織された白虎隊の隊長に再選された。
郡上藩の凌霜隊も指揮下において西出丸口で奮戦、籠城戦を戦い抜いている。
日向が士中二番隊の自刃を知ったのは会津藩が降伏開城した後だった。
そして、日向の不運は戊辰戦争後から始まる。
戊辰戦争に敗れた会津藩は、北辺の地の田名部に新生“斗南藩”を再興すべく、旧藩士家族ら1万7千人が陸路、海路を経て移住した。
その中には日向一家の姿もあった。
寒冷不毛の地での厳しい開墾作業が軌道に乗るまで政府の救助米に頼るが、割当少ない救助米を補充するために山野の葛や蕨の根を掘り起こして澱粉とし、海岸に出向いては昆布、若布などの海草を拾って食いつないだ。
山鳩も捕って食した。
地元の人間からは“会津のげだか(毛虫)”と呼ばれ蔑まされた。
そうまでしても栄養失調者は続出、着る物も真冬の厳寒時に夏物の単衣を重ねて凌ぐ有様だった。
そんな飢餓地獄の中、日々の苦しさの吐け口がいつの間にか日向に向けられるようになった。
“白虎隊を置き去りにした卑怯者”
同郷者からそう罵られるようになった。
明治4年(1871年)、廃藩置県が施行されると同時に、藩知事であった幼い松平容大(かたはる)と容保親子は斗南を去り、斗南県は弘前県に合併、さらに青森県に改められた。
会津藩再興の地“斗南”はこの時、消滅した。
主が去り、国を失って、精神的支柱を失くした旧藩士らは身も心も難民となった。
女子供の身売りにまで及ぶ飢餓地獄から脱するには故郷の愛する山河に帰るしかなかった。
斗南に移住した人間の約6割が会津に戻ったと云う。
日向一家も会津に戻るが、数年振りの懐かしい会津の地でも日向に対する怨嗟の声は止むことなく、そのため満足に職に就くことも出来ず、日向にとって会津は最早安住の地には成り得なかった。
止むなく喜多方に移住するが、ここでも卑怯者呼ばわりされ、日雇い仕事で糊口を凌ぐほかなかった。
明治18年(1885年)11月14日、喜多方で失意の内に59歳の生涯を閉じた。
「あなたは日向がどんな人間か知っているのか。会津に住めなかったんだよ。」
「私が日向の立場だったら切腹している。恥晒しだ。」
現在の会津においても年長者から強い口調で言われたことがこれまで二度ある。
日向に対して良い評価を私は一度たりとも聞いたことがない。
しかし、私には、隊長の命令を守らずして持ち場を離れた白虎隊にも非はあるところ、一切の弁明せずして心の内を一人胸にしまい、墓に持ち去った日向に、会津武士の本統の姿が見える。
“会津藩の若き指導者”である山川大蔵(後に浩)の後任として砲兵隊長に任命され、歴戦の朱雀隊を指揮し、籠城戦でも活躍、凌霜隊からも慕われていたほどの日向がどうして切腹を恐れようか。
我が身可愛さに敵前逃亡を謀る小心者に、同郷者から相手にされない針の筵の過酷な状況の中で、どうして斗南での想像を絶する飢餓地獄を乗り越えることが出来ようか。
生き恥を晒すより自裁することのほうが遥かに容易だったに違いない。
自裁しなかったことに日向の無言の抵抗を感じる。
死ぬよりも、より苦しい生きる道を選んだ日向の心の内を誰が知るものか。
現在の会津人からも謗られる日向が憐れでならない。
日向の心情を思い遣った時、吉川英治著「宮本武蔵」の最後の一節が脳裏に浮かんだ。
波騒は世の常である。
波にまかせて、泳ぎ上手に、雑魚は歌い雑魚は躍る。けれど、誰か知ろう、百尺下の水の心を。水のふかさを。
日向の墓は喜多方市の万福寺にある。
近いうち必ずや訪れたい。
口に出すのも文字にするのも禿げ面の私には美女と野獣くらいの違和感があるが、愛染明王を信奉し、兜に“愛”の文字を飾り、戦国の世を駈け巡った直江山城守兼続の力を借りて早速本題に入りたい。(2009年のNHK大河ドラマには、会津120万石の領主であった上杉景勝の重臣、直江兼続を主人公とした“天地人”の放映が決定している。)
優しさと、愛。
2冊の本が心の目を新たに開いてくれたような気がする。
1冊は、以前付き合っていたひとに勧められて読んだ。
離婚した母親の実家に預けられ、数年間、祖母と暮らした少年の逞しい日常が生き生きと描かれたもの。
その中での一コマが忘れられない。
運動会。
子供にとっては楽しみと緊張感が交錯する一大行事。
競技も一段落し、家族に囲まれての昼食は、照れ臭いようなこそばゆい幸福感に包まれる一時だ。
その少年は一人だった。
母親は稼ぎの良い町で少年と離れて生活していた。
少年との生活を指折り数え、身を粉にして働いていた。
だから運動会には来ることができなかった。
祖母は一度授業参観に行って以来、少年が同級生にからかわれたことを知って少年に遠慮して学校行事に行かなくなった。
皆が校庭で豪華なおかずを目の前にして楽しそうに談笑しながら食事をしているのを尻目に、少年は一人教室に戻った。
自分の席に座り、祖母が作ってくれた梅干しとショウガだけの日の丸弁当を少年が食べようとした時、担任の先生が教室に入ってきた。
先生は、腹が痛いから自分の弁当が食べたくない、お前の弁当には梅干しとショウガが入って腹にいいから先生のと交換してくれと言った。
少年は先生の弁当と交換した。
先生の弁当はエビフライやら何やら豪勢なおかずが一杯で少年は喜んで平らげた。
これと同じ出来事が、担任の先生が替わっても少年が6年生の時まで5年間続いた。
少年は6年生になって初めてそのことを祖母に話した。
祖母は言った。
「先生はわざとそうしたんだよ、本当のことを言えばお前やばあちゃんが気をつかうだろ」
少年は、その時初めて涙を流す祖母を見た。
少年は大人になってテレビ番組でこの出来事を述懐していた。
“本当の優しさとは、相手に気付かれないようにすること”
私も一度だけ一人だけの運動会を経験したことがある。
だから、子供ながらにもどれだけ肩身の狭い思いをして食事をしたか、親を恨んだか、この少年のこの時の気持ちがよく分かる。
私の時は、隣家と言っても長屋同然の、町営住宅の隣室に住んでいた一つ上の学年の女の子の家族に加えさせてもらった。
弁当は持っていったが、無言で食べている私を気の毒に思ったのだろう、おにぎりを勧めてくれた。
その時のおにぎりの旨さが今でも忘れられない。
がぶりと齧りついたら、ぷちぷちと何かが弾け、その途端、口中に菓子類とは違う別の甘さが広がった。
思わず手にした喰いかけのおにぎりを見た。
おにぎりの真ん中には、つやつやとした柔らかそうな小さな赤い玉が寄り添っていた。
生まれて初めて筋子を食べた瞬間だった。
もう1冊は、同級生が私に読むように勧めた作家のエッセーからである。
小学4年生の時、クラスに片足が悪く片目も不自由で、おまけに背も低く、成績も最低のIという生徒がいた。
貧しい暮らし向きとみえて衿が垢で汚れたお下がりのセーラー服を着ていた。
性格も捻くれて、先生や生徒皆から疎んじられていた。
朝早くから校庭に生徒が集まった秋の遠足の時、級長の少女のそばに、子供のように背が低く手拭いで髪をくるんだIの母親が来た。
母親は割烹着の下から大きな風呂敷包みを出して、
「これみんなで」
と小声で繰り返し少女に押し付けた。
古新聞に包まれた中身はぽかぽかとあたたかい大量のゆでたまごだった。
集団で歩き出した列の先頭には大きく肩を波打たせて必死についてゆくIの姿があった。
Iの母親は、校門で見送る他の父兄たちから一人離れて我が子を見送っていた。
Iについてもう一つ。
運動会の時、Iは徒競争でいつもビリだった。
その時も他の子供たちがゴールに入っているのに、Iは一人だけ残って走るというよりも片足を引きずってよろけるようにゴールを目指していた。
Iが走るのを止めようとした時、女の先生が飛び出した。
その先生は叱言の多い気難しい先生で学校で一番人気のない先生だった。
その先生がIと一緒に走り出した。
先生はゆっくり走ってIと一緒にゴールに入り、Iを抱きかかえるように校長先生のいる天幕に進んだ。
校長先生は立ち上がり、体をかがめてIに鉛筆を手渡した。
著者は最後にこう述べている。
「私にとって愛は、ぬくもりです。小さな勇気であり、やむにやまれぬ自然の衝動です。“神は細部に宿りたもう”ということばがあると聞きましたが、私にとっての愛のイメージは、このとおり“小さな部分”なのです。」
1冊は、島田洋七著の「佐賀のがばいばあちゃん」。
もう1冊は、1981年に飛行機事故で亡くなった向田邦子著の「男どき女どき」。
優しさと、愛。
2冊の本が心の目を新たに開いてくれたような気がする。
1冊は、以前付き合っていたひとに勧められて読んだ。
離婚した母親の実家に預けられ、数年間、祖母と暮らした少年の逞しい日常が生き生きと描かれたもの。
その中での一コマが忘れられない。
運動会。
子供にとっては楽しみと緊張感が交錯する一大行事。
競技も一段落し、家族に囲まれての昼食は、照れ臭いようなこそばゆい幸福感に包まれる一時だ。
その少年は一人だった。
母親は稼ぎの良い町で少年と離れて生活していた。
少年との生活を指折り数え、身を粉にして働いていた。
だから運動会には来ることができなかった。
祖母は一度授業参観に行って以来、少年が同級生にからかわれたことを知って少年に遠慮して学校行事に行かなくなった。
皆が校庭で豪華なおかずを目の前にして楽しそうに談笑しながら食事をしているのを尻目に、少年は一人教室に戻った。
自分の席に座り、祖母が作ってくれた梅干しとショウガだけの日の丸弁当を少年が食べようとした時、担任の先生が教室に入ってきた。
先生は、腹が痛いから自分の弁当が食べたくない、お前の弁当には梅干しとショウガが入って腹にいいから先生のと交換してくれと言った。
少年は先生の弁当と交換した。
先生の弁当はエビフライやら何やら豪勢なおかずが一杯で少年は喜んで平らげた。
これと同じ出来事が、担任の先生が替わっても少年が6年生の時まで5年間続いた。
少年は6年生になって初めてそのことを祖母に話した。
祖母は言った。
「先生はわざとそうしたんだよ、本当のことを言えばお前やばあちゃんが気をつかうだろ」
少年は、その時初めて涙を流す祖母を見た。
少年は大人になってテレビ番組でこの出来事を述懐していた。
“本当の優しさとは、相手に気付かれないようにすること”
私も一度だけ一人だけの運動会を経験したことがある。
だから、子供ながらにもどれだけ肩身の狭い思いをして食事をしたか、親を恨んだか、この少年のこの時の気持ちがよく分かる。
私の時は、隣家と言っても長屋同然の、町営住宅の隣室に住んでいた一つ上の学年の女の子の家族に加えさせてもらった。
弁当は持っていったが、無言で食べている私を気の毒に思ったのだろう、おにぎりを勧めてくれた。
その時のおにぎりの旨さが今でも忘れられない。
がぶりと齧りついたら、ぷちぷちと何かが弾け、その途端、口中に菓子類とは違う別の甘さが広がった。
思わず手にした喰いかけのおにぎりを見た。
おにぎりの真ん中には、つやつやとした柔らかそうな小さな赤い玉が寄り添っていた。
生まれて初めて筋子を食べた瞬間だった。
もう1冊は、同級生が私に読むように勧めた作家のエッセーからである。
小学4年生の時、クラスに片足が悪く片目も不自由で、おまけに背も低く、成績も最低のIという生徒がいた。
貧しい暮らし向きとみえて衿が垢で汚れたお下がりのセーラー服を着ていた。
性格も捻くれて、先生や生徒皆から疎んじられていた。
朝早くから校庭に生徒が集まった秋の遠足の時、級長の少女のそばに、子供のように背が低く手拭いで髪をくるんだIの母親が来た。
母親は割烹着の下から大きな風呂敷包みを出して、
「これみんなで」
と小声で繰り返し少女に押し付けた。
古新聞に包まれた中身はぽかぽかとあたたかい大量のゆでたまごだった。
集団で歩き出した列の先頭には大きく肩を波打たせて必死についてゆくIの姿があった。
Iの母親は、校門で見送る他の父兄たちから一人離れて我が子を見送っていた。
Iについてもう一つ。
運動会の時、Iは徒競争でいつもビリだった。
その時も他の子供たちがゴールに入っているのに、Iは一人だけ残って走るというよりも片足を引きずってよろけるようにゴールを目指していた。
Iが走るのを止めようとした時、女の先生が飛び出した。
その先生は叱言の多い気難しい先生で学校で一番人気のない先生だった。
その先生がIと一緒に走り出した。
先生はゆっくり走ってIと一緒にゴールに入り、Iを抱きかかえるように校長先生のいる天幕に進んだ。
校長先生は立ち上がり、体をかがめてIに鉛筆を手渡した。
著者は最後にこう述べている。
「私にとって愛は、ぬくもりです。小さな勇気であり、やむにやまれぬ自然の衝動です。“神は細部に宿りたもう”ということばがあると聞きましたが、私にとっての愛のイメージは、このとおり“小さな部分”なのです。」
1冊は、島田洋七著の「佐賀のがばいばあちゃん」。
もう1冊は、1981年に飛行機事故で亡くなった向田邦子著の「男どき女どき」。
23.月代(さかやき)の名残
2007年6月23日 日常3、4年前の或る日、何気なく見た店舗のガラスに映る人物と目が合って驚いた。
否、驚いたと云うより、愕然としたに近い。
誰だ、俺をじっと見つめるこの変な親爺は。
その親爺は、猿のように額に三本皺を寄せ、毛髪は側頭部に残るのみで、燦々と降り注ぐ陽に照らされた前頭部は陽の光を反射するように照り輝いている。
十人位の孫に取り囲まれてもおかしくない年代の猿親爺は、よく見ると私と同じ服を着て私を見ているのだ。
そう、ガラスに映るそいつは紛れもなく私、だった。
文章にすると長くなるが、この間数秒である。
たった数秒間で現実を突きつけられた。
これが俺か。
現実は冷やかである。
7年前位から頭髪の薄さが気になり始めていたが、陽の下や照明の下に入れば光加減によって誰でもそう見えるもので、気のせいだろうと自分を誤魔化していた。
それが、この時は見えぬ何かに頭をがばっと鷲掴みにされ、これが今のお前の姿だ、よく見ろ、とガラスに押し付けられたような強い衝撃を受けた。
決して大袈裟に誇張して云っているのではない。
こんな些細な心情の揺れを身内にさらりと吐露することもできずに秘かに胸の内に隠していた。
便所で、洗面所で、風呂場で、鏡に映る自分の顔を見る度に目を背けた。
鬘で禿げを隠す人間の気持ちが少しだけ分かった。
理髪店で、禿げを誤魔化すには何色で染めたらいいか、とまで聞いた。
店主は、日本人は黄色がいいと教えてくれた。
なるほど、イエローモンキーと蔑称された黄色人種には相応しい色だ。
そうして一時、禿げを誤魔化そうと染めた。
だが、色気付いたような自分に反吐が出るほどの嫌気が差し、すぐに染めることを止めた。
芸能人でもあるまいし、さすがに黄色に染める勇気はなかった。
時間は有り難い。
取るに足らぬ愚かな気掛かりや、悲しみ、辛さも、頭上で吹き荒れる嵐が過ぎ去るのを静かにじっと待っていれば元の状態に戻るように、時間が解決してくれる。
禿げであろうが何だろうが、俺は俺、俺自身に何も変わりはない、そう思えるまでにどの位の時間を要したろう。
半年か、1年か。
卑しくも恥ずべきことは、禿げの自分を人生の落伍者のように見なし、ただ見掛けだけを気にしていたこと。
今振り返ると実にくだらない。
祖父を思い出す。
母方の祖父は前頭部から頭頂部にかけて見事に禿げ上がり、その祖父が若かりし頃(此の頃から禿げていた)にパン屋を営んでいたそうで、それで近所の悪餓鬼どもに渾名を付けられ、よく囃し立てられたと母が話してくれたことがあった。
祖父に付けられた渾名は、“禿げパン”。
祖父の相貌を思い返すと確かにその禿げ方は私と似ている。
隔世遺伝。
血筋は争えないものだ。
祖父の話が出たところで先祖についてだが、所詮一介の水呑み百姓に過ぎない系統だろうと思っていたが、それはそれで喰うや喰わずの生きにくい世の中をしぶとく生き抜き、平成の世にしても子孫が生き残っていることは、唯々先祖に対して頭が下がるばかりである。
ところが、どうもそうでもないらしい。
以前から会津で有名な拝み屋さん(こんこん様とも云う)の噂を何度も耳にして、それが好奇心を煽り、一昨年、到頭足を運んだ。
特別驚くことはなかったが、そこで飼われている猫の佇まいにただならぬ“もの”を感じ、息呑む思いをした。
人間には見えなくても動物には何かが見えるようである。
さて、その辺の話はまたの機会にしたい。
そこで言われたことは、先祖は、豪族、武士である、と。
しかもその先祖の名前まで教えられた。
半信半疑であったが、先祖が武士と云われれば悪い気はしない。
日置かずして、脳軟化が進行している頭では云われたことはすぐに忘れてしまった。
それが、洗面所に映る己が禿げ面を見た或る日、先祖が武士と云われたことが不意に思い出された。
さては、この禿げは先祖が武士であった時分の月代の名残なのかと頭をつるり撫で回した。
武士の時代であれば髷を結い、さぞや大手を振って町中を闊歩したことだろう。
平成や いと口惜しき 禿げ頭
否、驚いたと云うより、愕然としたに近い。
誰だ、俺をじっと見つめるこの変な親爺は。
その親爺は、猿のように額に三本皺を寄せ、毛髪は側頭部に残るのみで、燦々と降り注ぐ陽に照らされた前頭部は陽の光を反射するように照り輝いている。
十人位の孫に取り囲まれてもおかしくない年代の猿親爺は、よく見ると私と同じ服を着て私を見ているのだ。
そう、ガラスに映るそいつは紛れもなく私、だった。
文章にすると長くなるが、この間数秒である。
たった数秒間で現実を突きつけられた。
これが俺か。
現実は冷やかである。
7年前位から頭髪の薄さが気になり始めていたが、陽の下や照明の下に入れば光加減によって誰でもそう見えるもので、気のせいだろうと自分を誤魔化していた。
それが、この時は見えぬ何かに頭をがばっと鷲掴みにされ、これが今のお前の姿だ、よく見ろ、とガラスに押し付けられたような強い衝撃を受けた。
決して大袈裟に誇張して云っているのではない。
こんな些細な心情の揺れを身内にさらりと吐露することもできずに秘かに胸の内に隠していた。
便所で、洗面所で、風呂場で、鏡に映る自分の顔を見る度に目を背けた。
鬘で禿げを隠す人間の気持ちが少しだけ分かった。
理髪店で、禿げを誤魔化すには何色で染めたらいいか、とまで聞いた。
店主は、日本人は黄色がいいと教えてくれた。
なるほど、イエローモンキーと蔑称された黄色人種には相応しい色だ。
そうして一時、禿げを誤魔化そうと染めた。
だが、色気付いたような自分に反吐が出るほどの嫌気が差し、すぐに染めることを止めた。
芸能人でもあるまいし、さすがに黄色に染める勇気はなかった。
時間は有り難い。
取るに足らぬ愚かな気掛かりや、悲しみ、辛さも、頭上で吹き荒れる嵐が過ぎ去るのを静かにじっと待っていれば元の状態に戻るように、時間が解決してくれる。
禿げであろうが何だろうが、俺は俺、俺自身に何も変わりはない、そう思えるまでにどの位の時間を要したろう。
半年か、1年か。
卑しくも恥ずべきことは、禿げの自分を人生の落伍者のように見なし、ただ見掛けだけを気にしていたこと。
今振り返ると実にくだらない。
祖父を思い出す。
母方の祖父は前頭部から頭頂部にかけて見事に禿げ上がり、その祖父が若かりし頃(此の頃から禿げていた)にパン屋を営んでいたそうで、それで近所の悪餓鬼どもに渾名を付けられ、よく囃し立てられたと母が話してくれたことがあった。
祖父に付けられた渾名は、“禿げパン”。
祖父の相貌を思い返すと確かにその禿げ方は私と似ている。
隔世遺伝。
血筋は争えないものだ。
祖父の話が出たところで先祖についてだが、所詮一介の水呑み百姓に過ぎない系統だろうと思っていたが、それはそれで喰うや喰わずの生きにくい世の中をしぶとく生き抜き、平成の世にしても子孫が生き残っていることは、唯々先祖に対して頭が下がるばかりである。
ところが、どうもそうでもないらしい。
以前から会津で有名な拝み屋さん(こんこん様とも云う)の噂を何度も耳にして、それが好奇心を煽り、一昨年、到頭足を運んだ。
特別驚くことはなかったが、そこで飼われている猫の佇まいにただならぬ“もの”を感じ、息呑む思いをした。
人間には見えなくても動物には何かが見えるようである。
さて、その辺の話はまたの機会にしたい。
そこで言われたことは、先祖は、豪族、武士である、と。
しかもその先祖の名前まで教えられた。
半信半疑であったが、先祖が武士と云われれば悪い気はしない。
日置かずして、脳軟化が進行している頭では云われたことはすぐに忘れてしまった。
それが、洗面所に映る己が禿げ面を見た或る日、先祖が武士と云われたことが不意に思い出された。
さては、この禿げは先祖が武士であった時分の月代の名残なのかと頭をつるり撫で回した。
武士の時代であれば髷を結い、さぞや大手を振って町中を闊歩したことだろう。
平成や いと口惜しき 禿げ頭
自然のあらゆる気を、毎日、全身に浴びたい。
見えぬ何かに縋りたくなるほど、過ぎ行く日々を引き止めたい。
5月、6月、身体が一番喜ぶ時期。
新緑の、柔らかな赤子のような葉。
銀杏や、欅の大樹の下から天を仰ぎ見ると、透き通るような淡い緑の葉が気持ち良さそうにさわさわと泳ぎ、木洩れ日がきらきらと優しく降り注ぐ。
大樹に抱かれた、心休まる一時。
山が嗤う。
新緑の、こんもりとした山々が、清らかな酸素を空に放ち、風に合わせて豪快に踊る。
会津平野に眩く広がる水田の海原と、棚田の、自然と調和した美しさはどうだ。
これぞ日本の原風景、誇らしい気分に満たされる。
夜空が割れんばかりに谺する蛙の宴。
蛙の子守唄を聴きながら、うつらうつらと寝床に伏していると、いつの間にか、水面から気持ち良さそうに顔を出して鳴いている蛙に姿が入れ替わる。
郭公の声で眼が覚めた。
樹木の天辺、屋根、アンテナ、電柱の天辺で尾羽を上げ下げしながら啼く。
群れない郭公の姿は孤高を感じさせ、好ましく映る。
百舌鳥などの巣に卵を産みつけ、雛を育てることがない郭公は、生来孤独で、冷淡なのかもしれない。
それでも、まだ見ぬ相手に向かい、いつも一人啼くだけの郭公が気の毒にも思える。
ぴゅるるるる。
或る日、郭公の啼き声が変わった。
声のするほうに目を向けると二羽の郭公の姿が見えた。
直ぐさま一羽が飛び立ち、残る一羽が一声啼いて後を追う。
二羽が大欅に消えた。
ぴゅるるるる。
声だけが残った。
連れ添いを見つけたのか。
今朝も夏鳥、郭公が啼く。
夜には蛙の声が響き渡る。
間もなく螢も舞うだろう。
この日この時は二度と戻らない。
季節は巡り、また違う皐月、水無月がやって来る。
見えぬ何かに縋りたくなるほど、過ぎ行く日々を引き止めたい。
5月、6月、身体が一番喜ぶ時期。
新緑の、柔らかな赤子のような葉。
銀杏や、欅の大樹の下から天を仰ぎ見ると、透き通るような淡い緑の葉が気持ち良さそうにさわさわと泳ぎ、木洩れ日がきらきらと優しく降り注ぐ。
大樹に抱かれた、心休まる一時。
山が嗤う。
新緑の、こんもりとした山々が、清らかな酸素を空に放ち、風に合わせて豪快に踊る。
会津平野に眩く広がる水田の海原と、棚田の、自然と調和した美しさはどうだ。
これぞ日本の原風景、誇らしい気分に満たされる。
夜空が割れんばかりに谺する蛙の宴。
蛙の子守唄を聴きながら、うつらうつらと寝床に伏していると、いつの間にか、水面から気持ち良さそうに顔を出して鳴いている蛙に姿が入れ替わる。
郭公の声で眼が覚めた。
樹木の天辺、屋根、アンテナ、電柱の天辺で尾羽を上げ下げしながら啼く。
群れない郭公の姿は孤高を感じさせ、好ましく映る。
百舌鳥などの巣に卵を産みつけ、雛を育てることがない郭公は、生来孤独で、冷淡なのかもしれない。
それでも、まだ見ぬ相手に向かい、いつも一人啼くだけの郭公が気の毒にも思える。
ぴゅるるるる。
或る日、郭公の啼き声が変わった。
声のするほうに目を向けると二羽の郭公の姿が見えた。
直ぐさま一羽が飛び立ち、残る一羽が一声啼いて後を追う。
二羽が大欅に消えた。
ぴゅるるるる。
声だけが残った。
連れ添いを見つけたのか。
今朝も夏鳥、郭公が啼く。
夜には蛙の声が響き渡る。
間もなく螢も舞うだろう。
この日この時は二度と戻らない。
季節は巡り、また違う皐月、水無月がやって来る。
「なんだか宗教色が強くて、それに気持ちが暗くなる。しかも文がまとまっていないし表現も硬いよ」
今回の日記を初めて読んだ家人の感想。
それでもよかろうと衆前に晒した。
死。
不吉なもの、忌まわしいものと避けられることが多いが、人生の終着である死に向かって生きているのは事実。
聖人君子めいた事を言うつもりはさらさらない。
宗教の勧誘をするつもりでもない。
感じたまでを認めただけである。
一昨年の暮れ、一ヶ月程入院した。
入院の日々、否が応にも自分を見詰めざるを得ない時間がたっぷりと横たわる。
私のような、考えなくてもいい事をくよくようだうだ考える貧乏性の質の人間は、自らを自らに孤に追いやる嫌いがある。
そうやって暇を持て余しては、人間観察と読書、そして、内観である。
相部屋の患者と同じ境遇にある今の立場を、傷を舐め合うように共有し合う仲間意識を持つこともない。
相部屋の患者同士、互いに狸寝入りをしながら、見舞う家族、客の会話を盗み聞き、あるいは素知らぬ振りを装いながら盗み見、その人間をそれとなく推し量る。
深刻な病の患者と自分を比べる。
その度合いの差に救いを見出そうとする。
それを家族にひそひそ話し、身内皆して知らず知らずに毒のある優越感に浸る。
医師、看護士の本統の顔が見える。
“医は仁術なり”
儒教の最高の徳である仁。
それを精一杯実践しようとするのは看護士の卵の研修生ばかりか。
経験を積めば積むほど、年齢を重ねれば重ねるほど、いたわり、思いやり、慈しみの心は離れ、時に使い分けておざなりになる。
慣れは、仕方のないもので具合がいいもので、恐ろしいものである。
莫迦な人間どもは、四苦八苦して痛い目に会って初めて自分の愚かさに気付く。
それに気付いてやり直せるならまだいい。
手遅れになれば嘆きの中で死ぬだけである。
四苦八苦は仏教における苦しみであり、根本的な苦しみを生老病死の四苦とし、この四苦に加え、愛別離苦(愛するものと分かれなければならない苦しみ)、怨憎会苦(憎んでいる対象に出会う苦しみ)、求不得苦(欲しいものが得られない苦しみ)、五陰盛苦(心身の機能が活発なため起こる苦しみ)の四つを加えて八苦と云う。
今回の入院で、当たり前に機能する身体の有り難み、身内の支え、木っ端のような人生を、ずしんとした鈍い響きが身体の芯から聞こえるくらいに思い知らされた。
見える、聴こえる、話せる、嗅げる、味わえる、感じられる、動かせる、排便排尿が出来る、呼吸が出来る、無意識の内に機能している身体は何と慎み深いものか。
当たり前と思っていたものが当たり前でないと知った時の衝撃、これは経験した者でないと分からない。
事故死、病死、殺人、自殺。
全国のどこかで毎日誰かが命を落としている。
その確率は天文学的な割合であっても新聞を見れば実感できる。
お悔やみの欄を見れば享年によって遺族の嘆きの顔が浮かぶ。
朝にあった命が、夕に存命しているかどうか、誰も保証できない。
まさかそんな不幸な出来事が、突然、我が身に降り懸かるとは誰も思わない。
そこに人間の愚かさがある。
遅かれ早かれ、死は必ず訪れる。
死は絶対である。
潮がひたひたと静かに満つるように、いつの間にか我が身に迫り来る。
死と向きあってようやく危うき生を知る。
何が大切で、何がほんものなのか、金、名声、地位、そんなものは糞喰らえ、となる。
哀しくも大方は老いてそれを知る。
そう思い行き着けば、日々の生き方は、仇や疎かにはできない。
病室から見える風景、自然の移ろいに自分の人生を重ねた。
すっぽりと街を被う晩秋の朝靄、凍雨に光るトタン屋根、黔々とした雨雲が発す幾筋もの稲光、初冬の空に舞う一匹の蜻蛉、夕闇と一になる稜線。
日常、何気なく目にしていた風景、自然が切なく胸に迫り、我が身が哀しいほど愛しく思えた。
就寝前、他者との空間を断ち切るようにカーテンを引くと、もう一人の自分が身体の中に滑り込む。
内には隣の患者の鼾と、就寝前に巡回する看護士の足音、外には漆黒の闇を走るタイヤの回転音。
眼を閉じた暗闇に、しばらくすると言葉や形にならない塊が茫と現れた。
その塊は何を示していたのか。
退院後、薄皮を一枚一枚剥ぐような冷徹した眼で、“もの”の本質を、人を、見るようになった。
入院中に読んだ書物の一節が、気弱になった心を、ぐいっと鷲掴みにして揺さぶった。
14世紀の文人、吉田兼好の徒然草の一節である。
死後は序を待たず。死は、前よりしも来たらず、かねて後ろに迫れり。人皆死ある事を知りて、待つことしかも急ならざるに、覚えずして来る。沖の干潟遥かなれども、磯より潮の満つるが如し。(第155段)
されば、人、死を憎まば、生を愛すべし。存命の喜び、日々に楽しまざらんや。愚かなる人、この楽しげを忘れて、いたづがはしく外の楽しびを求め、この財を忘れて、危うく他の財を貪るには、志満つ事なし。生ける間生を楽しまずして、死に臨みて死を恐れば、この理あるべからず。人皆生を楽しまざるは、死を恐れざる故なり。死を恐れざるにはあらず、死の近き事を忘るるなり。もしまた、生死の相にあづからずといはば、実の理を得たりといふべし。(第93段)
真実は時代を超える。
今回の日記を初めて読んだ家人の感想。
それでもよかろうと衆前に晒した。
死。
不吉なもの、忌まわしいものと避けられることが多いが、人生の終着である死に向かって生きているのは事実。
聖人君子めいた事を言うつもりはさらさらない。
宗教の勧誘をするつもりでもない。
感じたまでを認めただけである。
一昨年の暮れ、一ヶ月程入院した。
入院の日々、否が応にも自分を見詰めざるを得ない時間がたっぷりと横たわる。
私のような、考えなくてもいい事をくよくようだうだ考える貧乏性の質の人間は、自らを自らに孤に追いやる嫌いがある。
そうやって暇を持て余しては、人間観察と読書、そして、内観である。
相部屋の患者と同じ境遇にある今の立場を、傷を舐め合うように共有し合う仲間意識を持つこともない。
相部屋の患者同士、互いに狸寝入りをしながら、見舞う家族、客の会話を盗み聞き、あるいは素知らぬ振りを装いながら盗み見、その人間をそれとなく推し量る。
深刻な病の患者と自分を比べる。
その度合いの差に救いを見出そうとする。
それを家族にひそひそ話し、身内皆して知らず知らずに毒のある優越感に浸る。
医師、看護士の本統の顔が見える。
“医は仁術なり”
儒教の最高の徳である仁。
それを精一杯実践しようとするのは看護士の卵の研修生ばかりか。
経験を積めば積むほど、年齢を重ねれば重ねるほど、いたわり、思いやり、慈しみの心は離れ、時に使い分けておざなりになる。
慣れは、仕方のないもので具合がいいもので、恐ろしいものである。
莫迦な人間どもは、四苦八苦して痛い目に会って初めて自分の愚かさに気付く。
それに気付いてやり直せるならまだいい。
手遅れになれば嘆きの中で死ぬだけである。
四苦八苦は仏教における苦しみであり、根本的な苦しみを生老病死の四苦とし、この四苦に加え、愛別離苦(愛するものと分かれなければならない苦しみ)、怨憎会苦(憎んでいる対象に出会う苦しみ)、求不得苦(欲しいものが得られない苦しみ)、五陰盛苦(心身の機能が活発なため起こる苦しみ)の四つを加えて八苦と云う。
今回の入院で、当たり前に機能する身体の有り難み、身内の支え、木っ端のような人生を、ずしんとした鈍い響きが身体の芯から聞こえるくらいに思い知らされた。
見える、聴こえる、話せる、嗅げる、味わえる、感じられる、動かせる、排便排尿が出来る、呼吸が出来る、無意識の内に機能している身体は何と慎み深いものか。
当たり前と思っていたものが当たり前でないと知った時の衝撃、これは経験した者でないと分からない。
事故死、病死、殺人、自殺。
全国のどこかで毎日誰かが命を落としている。
その確率は天文学的な割合であっても新聞を見れば実感できる。
お悔やみの欄を見れば享年によって遺族の嘆きの顔が浮かぶ。
朝にあった命が、夕に存命しているかどうか、誰も保証できない。
まさかそんな不幸な出来事が、突然、我が身に降り懸かるとは誰も思わない。
そこに人間の愚かさがある。
遅かれ早かれ、死は必ず訪れる。
死は絶対である。
潮がひたひたと静かに満つるように、いつの間にか我が身に迫り来る。
死と向きあってようやく危うき生を知る。
何が大切で、何がほんものなのか、金、名声、地位、そんなものは糞喰らえ、となる。
哀しくも大方は老いてそれを知る。
そう思い行き着けば、日々の生き方は、仇や疎かにはできない。
病室から見える風景、自然の移ろいに自分の人生を重ねた。
すっぽりと街を被う晩秋の朝靄、凍雨に光るトタン屋根、黔々とした雨雲が発す幾筋もの稲光、初冬の空に舞う一匹の蜻蛉、夕闇と一になる稜線。
日常、何気なく目にしていた風景、自然が切なく胸に迫り、我が身が哀しいほど愛しく思えた。
就寝前、他者との空間を断ち切るようにカーテンを引くと、もう一人の自分が身体の中に滑り込む。
内には隣の患者の鼾と、就寝前に巡回する看護士の足音、外には漆黒の闇を走るタイヤの回転音。
眼を閉じた暗闇に、しばらくすると言葉や形にならない塊が茫と現れた。
その塊は何を示していたのか。
退院後、薄皮を一枚一枚剥ぐような冷徹した眼で、“もの”の本質を、人を、見るようになった。
入院中に読んだ書物の一節が、気弱になった心を、ぐいっと鷲掴みにして揺さぶった。
14世紀の文人、吉田兼好の徒然草の一節である。
死後は序を待たず。死は、前よりしも来たらず、かねて後ろに迫れり。人皆死ある事を知りて、待つことしかも急ならざるに、覚えずして来る。沖の干潟遥かなれども、磯より潮の満つるが如し。(第155段)
されば、人、死を憎まば、生を愛すべし。存命の喜び、日々に楽しまざらんや。愚かなる人、この楽しげを忘れて、いたづがはしく外の楽しびを求め、この財を忘れて、危うく他の財を貪るには、志満つ事なし。生ける間生を楽しまずして、死に臨みて死を恐れば、この理あるべからず。人皆生を楽しまざるは、死を恐れざる故なり。死を恐れざるにはあらず、死の近き事を忘るるなり。もしまた、生死の相にあづからずといはば、実の理を得たりといふべし。(第93段)
真実は時代を超える。
この時期、ドリームジャンボ宝籤が販売中である。
以前は、宣伝用の幟旗に気持ちも煽られ、一攫千金を夢見て、懲りずに、突発的に絶え間なく、せこく、宝籤を買った。
特に年末ジャンボ宝籤の購入の時は気合が入った。
もしも1等宝籤が当たれば、過ぎ去りし日々、踏んだり蹴ったりの地団駄を踏む散々の人生であったにしても、そんな浮世の波なぞ全てご破算、めでたし、めでたしと相成る。
浮かれた正月気分がそれに拍車をかけた。
晦日の抽選会を無視して、翌日の朝刊に思いを馳せる。
晦日の晩は取らぬ狸の皮算用式に思いを巡らす。
どこそこの銀行にどれだけのお金を目立たぬように分配しようか。
如何に目立たぬように陋屋を建て直そうか。
老後に備え、病院の近くに、買い物に便利で、交通の便が良く、除雪の心配がないセカンドハウス、そんな立地条件を満たしたマンションを如何に人知れずに購入しようか。
レンジローバーを購入したいところだが、如何にもこれ見よがしなので、そこそこの国産車で誤魔化してやろうか。
職場で不意に洩れる一人嗤いを、同僚たちに如何に悟られないようにしようか、とか。
思い巡らすと切りがなく、終いには興奮して寝付きが悪くなる。
元旦の朝、折込みチラシでいつもより数倍重くなった朝刊を手に心は躍る。
「目の前にある福は逃げはせん」と逸る気持ちを抑えるように一枚一枚チラシに目を通した後、徐に新聞をテーブルに広げる。
両手には買った宝籤が15枚。
1等前後賞の旨味も外し難く、連番10枚と、少ない軍資金で少しでも当る確率が高くなるようにバラで5枚、締めて僅か4500円で俗な夢を買う。
朝刊の籤番号を喰い入るように見る。
期待に胸膨らませ、1等の番号を呪文のようにぶつぶつ唱えながら手元の宝籤に目を移す。
1等、該当なし、外れ。
「本数も少ないし仕方ない、まぁいいだろう」、一人合点し、次の当りに期待を寄せる。
1等前後賞、外れ。
これも仕方ない。
1等の組違い賞、外れ。
これも仕方ない、か。
2等、外れ。
大きく膨らんでいた期待の風船は徐々に萎み、3等外れ、4等外れ、ラッキー賞も外れ、5等300円お情けの当りのみ。
これで完全に風船は萎み、夢は幣えた。
“会津若松市の某販売所から1等大当り!”
この記事を目にした途端、今此の時、その当選者が市内のどこかでほくそ笑み、喜びに浸っているかと思うと、無性に其奴が恨めしく思えてきた。
これが中通り、浜通り地方、ましてや県外の話であればこんな下衆な思いに囚われることはない。
用意周到には程遠いが、生涯一度の夢のような購入計画が、会津の、他の人間に奪われたと考え違える捻くれた愚かな欲、それがどろどろと溢れ出す。
宝籤が外れたことよりもそう思い至った、腐った自分に腹が立つ。
目出度い正月に何と愚かな、これが一昨年までの我の姿。
20代の頃はもっと度し難い莫迦だった。
若さ故の恥じ知らずと云えば救いがあろうか。
大金が転がり込んだらインターチェンジの近辺にラブホテルを建てよう、人材派遣業を起そう、人より楽に、見掛け良く、小狡く暮らしたいと思っていた。
老若男女へまぐわう場を提供することに、自分は額に汗することなしに他人の上前を刎ねることに、然したる疑問も抱かず、屁にもならない大義名分に隠れてそう思っていた。
誰にでも転機は訪れる。
それに気付くか気付かないか、気付いても気に止めないか。
本人次第。
幸いにして私にも転機は訪れた。
それからと云うもの、何かのスイッチが入ったかのように自分の内部で変わった。
多少の負け惜しみはあるが、他人と自分を比べないことにした。
お金がないことを嘆かないようにした。
宝籤を買うことに、喉に小骨が引っかかった程度の抵抗を感じるようになった。
自分に正直に行動したいと思うようになった。
自分が今置かれている境遇に不満を洩らすことが少なくなってきた。
身の丈に合った生き方をしたいと思うようになった。
足るを知るようになった。
見えないものの大切さを知り、何を大切にしなければならないのか、優先すべきものを知った。
生かされている自分。
奇麗事だけでは喰っていけない薄汚い人間界だが、魑魅魍魎の輩が蠢く世にあってもぎりぎりの線で踏み止まれるだけの信念は手放したくない。
以上、偉そうに人生を達観したようなことを書き連ねながらも、購入回数は減ったが以前として宝籤を買うことを止めてはいない。
日々の生活に汲々しながら心のどこかでは一攫千金を夢見ている。
“富貴なること慳貧なり”
最近、ドリームジャンボ宝籤発売の広告を目にすると、本阿弥妙秀さんの言葉が妙に心に刺さる。
以前は、宣伝用の幟旗に気持ちも煽られ、一攫千金を夢見て、懲りずに、突発的に絶え間なく、せこく、宝籤を買った。
特に年末ジャンボ宝籤の購入の時は気合が入った。
もしも1等宝籤が当たれば、過ぎ去りし日々、踏んだり蹴ったりの地団駄を踏む散々の人生であったにしても、そんな浮世の波なぞ全てご破算、めでたし、めでたしと相成る。
浮かれた正月気分がそれに拍車をかけた。
晦日の抽選会を無視して、翌日の朝刊に思いを馳せる。
晦日の晩は取らぬ狸の皮算用式に思いを巡らす。
どこそこの銀行にどれだけのお金を目立たぬように分配しようか。
如何に目立たぬように陋屋を建て直そうか。
老後に備え、病院の近くに、買い物に便利で、交通の便が良く、除雪の心配がないセカンドハウス、そんな立地条件を満たしたマンションを如何に人知れずに購入しようか。
レンジローバーを購入したいところだが、如何にもこれ見よがしなので、そこそこの国産車で誤魔化してやろうか。
職場で不意に洩れる一人嗤いを、同僚たちに如何に悟られないようにしようか、とか。
思い巡らすと切りがなく、終いには興奮して寝付きが悪くなる。
元旦の朝、折込みチラシでいつもより数倍重くなった朝刊を手に心は躍る。
「目の前にある福は逃げはせん」と逸る気持ちを抑えるように一枚一枚チラシに目を通した後、徐に新聞をテーブルに広げる。
両手には買った宝籤が15枚。
1等前後賞の旨味も外し難く、連番10枚と、少ない軍資金で少しでも当る確率が高くなるようにバラで5枚、締めて僅か4500円で俗な夢を買う。
朝刊の籤番号を喰い入るように見る。
期待に胸膨らませ、1等の番号を呪文のようにぶつぶつ唱えながら手元の宝籤に目を移す。
1等、該当なし、外れ。
「本数も少ないし仕方ない、まぁいいだろう」、一人合点し、次の当りに期待を寄せる。
1等前後賞、外れ。
これも仕方ない。
1等の組違い賞、外れ。
これも仕方ない、か。
2等、外れ。
大きく膨らんでいた期待の風船は徐々に萎み、3等外れ、4等外れ、ラッキー賞も外れ、5等300円お情けの当りのみ。
これで完全に風船は萎み、夢は幣えた。
“会津若松市の某販売所から1等大当り!”
この記事を目にした途端、今此の時、その当選者が市内のどこかでほくそ笑み、喜びに浸っているかと思うと、無性に其奴が恨めしく思えてきた。
これが中通り、浜通り地方、ましてや県外の話であればこんな下衆な思いに囚われることはない。
用意周到には程遠いが、生涯一度の夢のような購入計画が、会津の、他の人間に奪われたと考え違える捻くれた愚かな欲、それがどろどろと溢れ出す。
宝籤が外れたことよりもそう思い至った、腐った自分に腹が立つ。
目出度い正月に何と愚かな、これが一昨年までの我の姿。
20代の頃はもっと度し難い莫迦だった。
若さ故の恥じ知らずと云えば救いがあろうか。
大金が転がり込んだらインターチェンジの近辺にラブホテルを建てよう、人材派遣業を起そう、人より楽に、見掛け良く、小狡く暮らしたいと思っていた。
老若男女へまぐわう場を提供することに、自分は額に汗することなしに他人の上前を刎ねることに、然したる疑問も抱かず、屁にもならない大義名分に隠れてそう思っていた。
誰にでも転機は訪れる。
それに気付くか気付かないか、気付いても気に止めないか。
本人次第。
幸いにして私にも転機は訪れた。
それからと云うもの、何かのスイッチが入ったかのように自分の内部で変わった。
多少の負け惜しみはあるが、他人と自分を比べないことにした。
お金がないことを嘆かないようにした。
宝籤を買うことに、喉に小骨が引っかかった程度の抵抗を感じるようになった。
自分に正直に行動したいと思うようになった。
自分が今置かれている境遇に不満を洩らすことが少なくなってきた。
身の丈に合った生き方をしたいと思うようになった。
足るを知るようになった。
見えないものの大切さを知り、何を大切にしなければならないのか、優先すべきものを知った。
生かされている自分。
奇麗事だけでは喰っていけない薄汚い人間界だが、魑魅魍魎の輩が蠢く世にあってもぎりぎりの線で踏み止まれるだけの信念は手放したくない。
以上、偉そうに人生を達観したようなことを書き連ねながらも、購入回数は減ったが以前として宝籤を買うことを止めてはいない。
日々の生活に汲々しながら心のどこかでは一攫千金を夢見ている。
“富貴なること慳貧なり”
最近、ドリームジャンボ宝籤発売の広告を目にすると、本阿弥妙秀さんの言葉が妙に心に刺さる。
19.某寺にて
2007年4月19日先日、会津若松市にある会津三十三観音札所の一つを訪ねた折、偶々、其の寺の住職と話をする機会を得た。
人の言葉から、普段、自分の意識下に無かった“もの”が呼び起こされることがある。
この時がそうだった。
「ただの木偶(でく)の仏像を拝んで、それに掌合わせでもなぁんにも意味はねぇ。なにさ掌を合わせでぇんのが。それは“自分の心”に向けで掌を合わせでぇんだ。自分を省みて邪な考えがねぇがどうが、自分の心を見詰めるために掌は合わせるもんだ。」
この住職は、住職らしからぬことをずけずけと言った。
秘仏と称される観音像だが、たかが人間が造り上げたものに過ぎない。
その由緒も、後世の人間に末永く拝まれるよう、神懸かり的に造り上げられて伝承の類が多い。
一般的に云われている会津三十三観音巡りの由来にしても、会津領内の多くの者が伊勢神宮、あるいは西国三十三札所巡礼に出向くことによって多額の費用が領外に流出するため、会津藩祖の保科正之がその防止策として時の高僧らと諮り、会津領内の三十三ヶ所に霊場を選んだのが始まりとされる。
領内で金を使わせ、それで事を済まそうとする、名君誉れ高き人物と称された保科正之の邪な考えが起こりなのだ。
神社にしても、時の為政者が都合良く拵えた夷狄討伐などの大義名分によって各地に勧請されたものが多い。
夷狄の意味を辞書で調べてみると、夷は東方の蛮人、狄は北方の未開人の意とある。
東方の蛮人と云えば我ら東北人の祖先である。
何を指して蛮人と云い、何故討伐されなければならなかったのか。
権力を握った者の横暴さが、近代の世の辞書にさえ残されていることに驚きである。
会津には大っぴらにされてない歴史がある。
明らかな確証がないため伏されている面もあるが、梁国の青巌による仏教伝来、所謂、“高寺伝承”である。
仏教は、538年に大和朝廷の庇護の下、百済から伝わったとされ、会津には同時期に直接、梁国の青巌によって伝わったとされる。
地理的にも見ても、朝鮮半島から日本海を渡り、潮流の助けを借りれば労せずして越後へ辿りつく地の利があり、そこから阿賀野川を遡行すれば会津に入ることが出来た。
昭和39年、岡山県丸山古墳で発掘された三角縁神獣鏡と同型のものが、東北で唯一、会津大塚山古墳から発掘された。
これは中央との密接な繋がり持った東北を代表する豪族の存在を示し、また、東北で2番目の大きさを誇る会津坂下町青津の亀ヶ森古墳や鎮守森古墳群の存在も同様、他地域と異にする会津独自の文化圏を物語り、それら豪族の庇護下にあって堂塔伽藍三千余宇を誇る仏教文化が華開いたとされる。
中央集権化を目論み、国家宗教の布教によって人心掌握を図ろうとする朝廷にとっては、独自の仏教文化を形成した会津の高寺の存在は“目の上のたん瘤”だったのだろう。
地方統制のために各地に置かれた郡を治めるための役所機関、すなわち、郡衙(ぐんが)の画策によって高寺は歴史上から抹殺(殺戮)され、辛うじていくつかの地名の残存が高寺伝承を裏付けるだけとなった。
戊辰の役。
京都を焼き討ちにし、天皇を奪おうとした長州、その殺戮集団と同盟を結んだ薩摩。
裏工作に長け、偽の錦の御旗を掲げた長州、薩摩を中心とした西軍が官軍とされ、孝明天皇の信任厚かった会津が賊軍とされた。
江戸無血開城の立役者、幕臣の勝海舟(下工作は山岡鉄舟による)は江戸を救った英雄とされる。
勝の云う“誠”の一字を持ってすれば、同民族による悲惨な殺し合いはある程度避けられたのではないか。
江戸無血開城によって、振り上げられて刃は徳川幕府の捨て石となった会津へ向けられ、箱館戦争で終焉を迎えた。
その後、賊軍の汚名を着せられた会津は、長年、日の目を見ることはなかった。
勝海舟を小狡い奴と主観的に評価するのもよろしくないだろう。
再度、氷川清話を読んだ。
その中で会津藩に関しての記述は1ヶ所しかなかったように思う。
「第二次長州征伐に対して、会津藩だけがなかなか長州藩との和解に賛成せず、いろいろ譬えなど設けて説明してやったらやっと受け入れてくれた」、これだけの記述である。
この一文だけに、終生、徳川幕府に仕えると云う保科正之が示した家訓が藩風となった会津藩の盲目なまでの頑迷さに、勝は匙を投げていた様子が伺える。
大局を掴めなかった会津藩の閉鎖性は、山国の地形、雪国の気候も災いしたものか。
それに比べ、倒幕派の雄、薩摩藩、西郷隆盛の人物の評価にはかなりの紙面を割いている。
大胆識、大誠意の人物と絶賛しているだけでなく、西南の役で賊軍となった西郷の七回忌の折には遺族のために名誉回復の運動を行っている。
勝は53歳で官を辞するが、その後も徳川家の家政に注意すること怠らず、陰に日向に国家に貢献することが少なくなかった。
明治31年、一私人の徳川慶喜が幕末以来初めて参内して明治天皇、皇后に拝謁した。
これは、京都朝廷と旧徳川将軍の和解を示し、慶喜の逆賊としての汚名も拭われたことになる。
この裏にも勝の奔走があった。
会津では、鳥羽伏見の戦いの最中、味方を置き去りにして敵前逃亡を図った“おんつぁげす”として、会津藩に京都守護職を押し付けた松平春嶽と並び、悪名高き徳川慶喜奴だが、勝は慶喜の十男精(くわし)を養子とし、孫の伊代子に配して勝家を継がせ、その直後、77歳にして脳溢血で亡くなっている。
旧徳川家臣団の、西南の役で賊軍扱いを受けた人々の、明治政府に対する怨恨を消すために、勝は自ら恃みとする“正心誠意”に従い、如何に人から罵られようとも自分の信ずる道を生きた。
会津が晴れて賊軍の汚名から解放されるのは昭和に入ってからである。
戊辰の役から60年後の昭和3年、再び巡ってきた戊辰の年に、松平容保の四男恒雄の長女勢津子が秩父宮家に輿入れが決まってのことである。
この陰にも、勝のような人間の、知られざる奔走があったのだろう。
勝の評価はさておき、話が進む内にあれこれと引用してしまい、今回の日記をどう締め括ったらよいものかどうか。
歴史は勝者の論理によって作られ、勝者が正義とされる。
だから鵜呑みに出来ない。
そこに歴史のおもしろみもある。
そうして感じるのは、世の中の不条理さ。
だからいつまで経っても莫迦な人間が居なくなることはない。
そこに此岸での、まやかしの差が表れる。
それは社会的地位であったり、貧富の差であったり、学歴であったり。
それがどうしたことだ。
勝は云う。
無学な人ほど真実、知識よりも人間の精神、理屈よりも体験と。
彼岸に行けば精神、魂のみ。
それを磨くのが此岸の現世。
清貧に生きた古人は疾うに知っていた。
自分の心に神を宿し、それに掌を合わせ、自分に偽りなく正直に生きた。
見えざるものの力、存在を信じ、自然の流れに沿って謙虚に生きた。
精神は正心、律する心。
そうあれば何も恐れるものはない。
勝が脳溢血で亡くなる前に遺した最後の言葉、俗人に吐けるものではない。
コレデオシマイ、これだけである。
人の言葉から、普段、自分の意識下に無かった“もの”が呼び起こされることがある。
この時がそうだった。
「ただの木偶(でく)の仏像を拝んで、それに掌合わせでもなぁんにも意味はねぇ。なにさ掌を合わせでぇんのが。それは“自分の心”に向けで掌を合わせでぇんだ。自分を省みて邪な考えがねぇがどうが、自分の心を見詰めるために掌は合わせるもんだ。」
この住職は、住職らしからぬことをずけずけと言った。
秘仏と称される観音像だが、たかが人間が造り上げたものに過ぎない。
その由緒も、後世の人間に末永く拝まれるよう、神懸かり的に造り上げられて伝承の類が多い。
一般的に云われている会津三十三観音巡りの由来にしても、会津領内の多くの者が伊勢神宮、あるいは西国三十三札所巡礼に出向くことによって多額の費用が領外に流出するため、会津藩祖の保科正之がその防止策として時の高僧らと諮り、会津領内の三十三ヶ所に霊場を選んだのが始まりとされる。
領内で金を使わせ、それで事を済まそうとする、名君誉れ高き人物と称された保科正之の邪な考えが起こりなのだ。
神社にしても、時の為政者が都合良く拵えた夷狄討伐などの大義名分によって各地に勧請されたものが多い。
夷狄の意味を辞書で調べてみると、夷は東方の蛮人、狄は北方の未開人の意とある。
東方の蛮人と云えば我ら東北人の祖先である。
何を指して蛮人と云い、何故討伐されなければならなかったのか。
権力を握った者の横暴さが、近代の世の辞書にさえ残されていることに驚きである。
会津には大っぴらにされてない歴史がある。
明らかな確証がないため伏されている面もあるが、梁国の青巌による仏教伝来、所謂、“高寺伝承”である。
仏教は、538年に大和朝廷の庇護の下、百済から伝わったとされ、会津には同時期に直接、梁国の青巌によって伝わったとされる。
地理的にも見ても、朝鮮半島から日本海を渡り、潮流の助けを借りれば労せずして越後へ辿りつく地の利があり、そこから阿賀野川を遡行すれば会津に入ることが出来た。
昭和39年、岡山県丸山古墳で発掘された三角縁神獣鏡と同型のものが、東北で唯一、会津大塚山古墳から発掘された。
これは中央との密接な繋がり持った東北を代表する豪族の存在を示し、また、東北で2番目の大きさを誇る会津坂下町青津の亀ヶ森古墳や鎮守森古墳群の存在も同様、他地域と異にする会津独自の文化圏を物語り、それら豪族の庇護下にあって堂塔伽藍三千余宇を誇る仏教文化が華開いたとされる。
中央集権化を目論み、国家宗教の布教によって人心掌握を図ろうとする朝廷にとっては、独自の仏教文化を形成した会津の高寺の存在は“目の上のたん瘤”だったのだろう。
地方統制のために各地に置かれた郡を治めるための役所機関、すなわち、郡衙(ぐんが)の画策によって高寺は歴史上から抹殺(殺戮)され、辛うじていくつかの地名の残存が高寺伝承を裏付けるだけとなった。
戊辰の役。
京都を焼き討ちにし、天皇を奪おうとした長州、その殺戮集団と同盟を結んだ薩摩。
裏工作に長け、偽の錦の御旗を掲げた長州、薩摩を中心とした西軍が官軍とされ、孝明天皇の信任厚かった会津が賊軍とされた。
江戸無血開城の立役者、幕臣の勝海舟(下工作は山岡鉄舟による)は江戸を救った英雄とされる。
勝の云う“誠”の一字を持ってすれば、同民族による悲惨な殺し合いはある程度避けられたのではないか。
江戸無血開城によって、振り上げられて刃は徳川幕府の捨て石となった会津へ向けられ、箱館戦争で終焉を迎えた。
その後、賊軍の汚名を着せられた会津は、長年、日の目を見ることはなかった。
勝海舟を小狡い奴と主観的に評価するのもよろしくないだろう。
再度、氷川清話を読んだ。
その中で会津藩に関しての記述は1ヶ所しかなかったように思う。
「第二次長州征伐に対して、会津藩だけがなかなか長州藩との和解に賛成せず、いろいろ譬えなど設けて説明してやったらやっと受け入れてくれた」、これだけの記述である。
この一文だけに、終生、徳川幕府に仕えると云う保科正之が示した家訓が藩風となった会津藩の盲目なまでの頑迷さに、勝は匙を投げていた様子が伺える。
大局を掴めなかった会津藩の閉鎖性は、山国の地形、雪国の気候も災いしたものか。
それに比べ、倒幕派の雄、薩摩藩、西郷隆盛の人物の評価にはかなりの紙面を割いている。
大胆識、大誠意の人物と絶賛しているだけでなく、西南の役で賊軍となった西郷の七回忌の折には遺族のために名誉回復の運動を行っている。
勝は53歳で官を辞するが、その後も徳川家の家政に注意すること怠らず、陰に日向に国家に貢献することが少なくなかった。
明治31年、一私人の徳川慶喜が幕末以来初めて参内して明治天皇、皇后に拝謁した。
これは、京都朝廷と旧徳川将軍の和解を示し、慶喜の逆賊としての汚名も拭われたことになる。
この裏にも勝の奔走があった。
会津では、鳥羽伏見の戦いの最中、味方を置き去りにして敵前逃亡を図った“おんつぁげす”として、会津藩に京都守護職を押し付けた松平春嶽と並び、悪名高き徳川慶喜奴だが、勝は慶喜の十男精(くわし)を養子とし、孫の伊代子に配して勝家を継がせ、その直後、77歳にして脳溢血で亡くなっている。
旧徳川家臣団の、西南の役で賊軍扱いを受けた人々の、明治政府に対する怨恨を消すために、勝は自ら恃みとする“正心誠意”に従い、如何に人から罵られようとも自分の信ずる道を生きた。
会津が晴れて賊軍の汚名から解放されるのは昭和に入ってからである。
戊辰の役から60年後の昭和3年、再び巡ってきた戊辰の年に、松平容保の四男恒雄の長女勢津子が秩父宮家に輿入れが決まってのことである。
この陰にも、勝のような人間の、知られざる奔走があったのだろう。
勝の評価はさておき、話が進む内にあれこれと引用してしまい、今回の日記をどう締め括ったらよいものかどうか。
歴史は勝者の論理によって作られ、勝者が正義とされる。
だから鵜呑みに出来ない。
そこに歴史のおもしろみもある。
そうして感じるのは、世の中の不条理さ。
だからいつまで経っても莫迦な人間が居なくなることはない。
そこに此岸での、まやかしの差が表れる。
それは社会的地位であったり、貧富の差であったり、学歴であったり。
それがどうしたことだ。
勝は云う。
無学な人ほど真実、知識よりも人間の精神、理屈よりも体験と。
彼岸に行けば精神、魂のみ。
それを磨くのが此岸の現世。
清貧に生きた古人は疾うに知っていた。
自分の心に神を宿し、それに掌を合わせ、自分に偽りなく正直に生きた。
見えざるものの力、存在を信じ、自然の流れに沿って謙虚に生きた。
精神は正心、律する心。
そうあれば何も恐れるものはない。
勝が脳溢血で亡くなる前に遺した最後の言葉、俗人に吐けるものではない。
コレデオシマイ、これだけである。
初めに断っておくが、私は昔から政治音痴の無党派である。
安倍首相が14日、参院補選、自民党公認候補者応援のために来県した。
地元紙にその内容が掲載された。
安倍首相は、会津での演説の冒頭で、「先輩が随分迷惑をかけたことをお詫びします」と謝罪した。
会津では、山口県と云えば長州、鹿児島県と云えば薩摩である。
山口県出身の安倍首相は、戊辰戦争において長州が会津に対して行なった非道を詫びた訳である。
これをある作家は、「歴史的な和解。今後は会津の人もわだかまりを氷解させるために努力すべき。」と評した。
安倍首相の謝罪には、飼い主に喉を摩られて気持ち良く目を細めてゴロゴロ喉を鳴らす飼い猫になったような、まんまと為て遣られた、そんな心持ちがする。
一国の首相が謝罪したからと云って、会津はこれを受け、特段、山口に近づく必要もないし、こちらから握手を誘う必要もない。
我関せず、これまで同様の態度でいい。
今回の安倍首相来県の目的は、自民党公認候補者応援のためであって、山口と会津の架け橋となるために訪れたのではない。
選挙前のパフォーマンスに過ぎない。
それを氷解したのどうのと、お門違いも甚だしい。
1945年8月3日は広島へ、その3日後の6日は長崎へ原爆が投下され、一つの爆弾で十数万人の一般市民が亡くなった。
世界唯一の被爆国である日本は、アメリカの、この悪魔の所業を、人類ある限り、永久に伝えていくのと同様、戊辰戦争において同民族が非情な殺戮を繰り広げた事実を決して風化させないために、会津は頑な姿勢を貫くべきである。
戦争は、絶対悪であることを伝えるために。
山口県萩市と手を結ぶ結ばないは、謝罪とは別問題である。
ましてや、会津藩士が眠る京都の金戒光明寺の副住職が云われるように、戊辰戦争における会津の、戦後処理はまだ終っていないのだから。
安倍首相が14日、参院補選、自民党公認候補者応援のために来県した。
地元紙にその内容が掲載された。
安倍首相は、会津での演説の冒頭で、「先輩が随分迷惑をかけたことをお詫びします」と謝罪した。
会津では、山口県と云えば長州、鹿児島県と云えば薩摩である。
山口県出身の安倍首相は、戊辰戦争において長州が会津に対して行なった非道を詫びた訳である。
これをある作家は、「歴史的な和解。今後は会津の人もわだかまりを氷解させるために努力すべき。」と評した。
安倍首相の謝罪には、飼い主に喉を摩られて気持ち良く目を細めてゴロゴロ喉を鳴らす飼い猫になったような、まんまと為て遣られた、そんな心持ちがする。
一国の首相が謝罪したからと云って、会津はこれを受け、特段、山口に近づく必要もないし、こちらから握手を誘う必要もない。
我関せず、これまで同様の態度でいい。
今回の安倍首相来県の目的は、自民党公認候補者応援のためであって、山口と会津の架け橋となるために訪れたのではない。
選挙前のパフォーマンスに過ぎない。
それを氷解したのどうのと、お門違いも甚だしい。
1945年8月3日は広島へ、その3日後の6日は長崎へ原爆が投下され、一つの爆弾で十数万人の一般市民が亡くなった。
世界唯一の被爆国である日本は、アメリカの、この悪魔の所業を、人類ある限り、永久に伝えていくのと同様、戊辰戦争において同民族が非情な殺戮を繰り広げた事実を決して風化させないために、会津は頑な姿勢を貫くべきである。
戦争は、絶対悪であることを伝えるために。
山口県萩市と手を結ぶ結ばないは、謝罪とは別問題である。
ましてや、会津藩士が眠る京都の金戒光明寺の副住職が云われるように、戊辰戦争における会津の、戦後処理はまだ終っていないのだから。
17.ソウイウモノニ私ハナリタイ
2007年3月31日 日常 コメント (2)今朝は、自己嫌悪と、家人の小言に始まった。
昨晩は送別会。
ひどく、無様に酔っ払った。
舌が廻らないようだとかなり酩酊している証拠。
やばいな、と自覚症状があるのに、もういけない。
日頃、鬱積していた感情が爆ぜる。
べらんめぇ口調で捲くし立てる。
その揚句、苦い胃液までも吐き尽くし、何もかも洗いざらいに吐き出した後には、海岸に打ち上げられた溺死体のように、横たえた身体に、じわじわと自己嫌悪の虫が這い上がってくる。
送別会の主役である上司Aを打っちゃって、上司Bへ口角沫を飛ばして発破をかけた。
恐らくは今後、Bは、私を酒に誘うことはないだろう。
自己の感情を律することが出来ないから自己嫌悪に陥る。
見かけは社会の中堅どころを装いながら、その実、中身は何も伴っていない我。
春風駘蕩の如く、いつになったら穏やかな人になれるものか知らん。
今日一日、この自己嫌悪と付き合う破目になったが、夜の同級会までには少しは気も晴れるだろう。
迎え酒を呷って、騒ぐ感情をうまくコントロール出来るかどうか、それに挑んでみたいやけっぱちな気持ちがむくむくと擡げてくるが、今回は、怒髪天を衝くような行為に至る時事問題などは決して話題にせず、酒も口にせずに三浦綾子著の氷点の感想でも述べ、終始穏やかに過ごそう。
宮澤賢治の、“雨ニモマケズ”の“ワタシ”のように、イツモ静カニ笑ッテイル、そんな人になれるように。
昨晩は送別会。
ひどく、無様に酔っ払った。
舌が廻らないようだとかなり酩酊している証拠。
やばいな、と自覚症状があるのに、もういけない。
日頃、鬱積していた感情が爆ぜる。
べらんめぇ口調で捲くし立てる。
その揚句、苦い胃液までも吐き尽くし、何もかも洗いざらいに吐き出した後には、海岸に打ち上げられた溺死体のように、横たえた身体に、じわじわと自己嫌悪の虫が這い上がってくる。
送別会の主役である上司Aを打っちゃって、上司Bへ口角沫を飛ばして発破をかけた。
恐らくは今後、Bは、私を酒に誘うことはないだろう。
自己の感情を律することが出来ないから自己嫌悪に陥る。
見かけは社会の中堅どころを装いながら、その実、中身は何も伴っていない我。
春風駘蕩の如く、いつになったら穏やかな人になれるものか知らん。
今日一日、この自己嫌悪と付き合う破目になったが、夜の同級会までには少しは気も晴れるだろう。
迎え酒を呷って、騒ぐ感情をうまくコントロール出来るかどうか、それに挑んでみたいやけっぱちな気持ちがむくむくと擡げてくるが、今回は、怒髪天を衝くような行為に至る時事問題などは決して話題にせず、酒も口にせずに三浦綾子著の氷点の感想でも述べ、終始穏やかに過ごそう。
宮澤賢治の、“雨ニモマケズ”の“ワタシ”のように、イツモ静カニ笑ッテイル、そんな人になれるように。
温情がない。
先月の17日(金)、酒気帯び運転で捕まった会津某高校の教師の処分に対してである。
新聞の投稿欄にも意見が出ていたが、厳罰に処するのは当然であるとの意見が初めの頃は多数占めていた。
ところが、ここに来て最近は厳し過ぎるとの意見も出始めた。
“高校教師、酒気帯び運転で捕まる”
この見出しを見た時、またか、の思いを強くした。
職場の、あの検便の同僚は、
「この先生よぉ、気の毒だよなぁ、捕まって」と新聞を手に朝っぱらから暢気なことを言う。
「何言ってんだ、捕まんの当り前だべ」、何寝言ほざいてけつかる、かなり憤慨しながら言い捨てた。
「だって、捕まったのは呑んだ翌日の午前11時だよ」、同僚はさらりとのたまった。
「はぁっ」、語尾が尻上がり調となって、すぐに二の句が継げなかった。
この教師は、東山温泉の旅館で同僚の教師らと酒を呑み、宿泊して、翌朝は温泉にでも浸かり旅館をゆっくり後にしたのだろう。
まさか朝酒を引っ掛けてはいまい。
帰宅途中、一時停止で捕まり、その時、酒気帯び運転が発覚した。
時間は午前11時。
これに対して県教育委員会の下した処分は、退職金なしの懲戒免職である。
捕まった事は仕方がないが、県教委が下した処分に対しては、さも有りなん、とは到底頷けるものでない。
処分を下したお偉い方々は、憐憫や惻隠の情、その欠片さえも持ち合わせていないのだろう。
女子児童の下腹部に手を差し込んだ小学校長の場合とは訳が違うのだ。
よくもまあ、こんな変態野郎が、長年教師としてのさばっていたものだと驚き呆れるが、人として模範となるべき人間に辱められた女子児童の、生涯消えることのない精神的苦痛を考えれば、この阿呆が犯した罪は一生贖えるものではない。
此奴の一物をちょん切ってもまだ足りぬ。
哀しいかな、これに類した教師は多い。
教師である前に人間として失格である。
話が脇道に逸れたが、飲酒運転による事故は後を立たず、当事者だけでなく他人の人命も奪うものであるから厳罰に処するのは当然である。
だが、この程度の酒気帯び運転は、人並みに酒を呑む者であれば誰にでも心当りがあることだ。
年末年始の忘年会、新年会の時期に、早朝、温泉場の出入口で警察による一斉取締りを実施したら、どれだけの人間が酒気帯びで捕まるか知れたものではない。
だからと言って正当化するつもりは毛頭ないが、今回の件は、これを教訓として各自が我が身の体調を把握しつつ、翌日にまで飲酒による影響が及ぶことがなきよう、全教師に注意を喚起することとして、精々、諭旨免職が妥当ではないか。
全くもって、この教師に代わり、県教委への不服申立て、処分取消の提訴を起こしたいくらいだ。
県によって処分内容は違い、兵庫県では、飲酒3時間後、オートバイを運転し捕まった高校教師が停職6ヶ月の処分となっている。
福島県教委は昨年10月、飲酒運転をした職員は原則懲戒免職と処分基準を改定し、この基準が初めて適用されたようだが、私には、この教師はその“見せしめ”のために処分されたとの思いが強い。
“見せしめ”によって、定年退職を目前にして、この教師の30年以上の教職人生は、儚く水疱に帰してしまったのだ。
ここまで厳罰に処するのであれば、この教師の上司である校長、処分基準を改定した県教委の面々(教育長)にも監督不行き届きとして処分が及ぶのが当然であろう。
自分たちは安全な枠の中に潜み、当事者だけを他人事のように処分する、こんな身勝手な教職者、教育関係者らの下で、生徒らは如何に思いやり溢れた人間に成長するものか。
彼岸の休日、墓参の帰りに、古希を迎えた尊敬する翁の家を訪ねた。
帰り際、翁は、確とした力強い口調で私に言った。
「人の痛みを、自分の痛みとして知る人間になれ。これだけ忘れずにいたら人生に間違いはない」
砂が水をすんなりと吸い込むように、実践してきた人間の言霊が、聞く者の胸底深くに沁み渡った。
教師、教育関係者らが本気で変わらなければ、教育は何も変わらない。
先月の17日(金)、酒気帯び運転で捕まった会津某高校の教師の処分に対してである。
新聞の投稿欄にも意見が出ていたが、厳罰に処するのは当然であるとの意見が初めの頃は多数占めていた。
ところが、ここに来て最近は厳し過ぎるとの意見も出始めた。
“高校教師、酒気帯び運転で捕まる”
この見出しを見た時、またか、の思いを強くした。
職場の、あの検便の同僚は、
「この先生よぉ、気の毒だよなぁ、捕まって」と新聞を手に朝っぱらから暢気なことを言う。
「何言ってんだ、捕まんの当り前だべ」、何寝言ほざいてけつかる、かなり憤慨しながら言い捨てた。
「だって、捕まったのは呑んだ翌日の午前11時だよ」、同僚はさらりとのたまった。
「はぁっ」、語尾が尻上がり調となって、すぐに二の句が継げなかった。
この教師は、東山温泉の旅館で同僚の教師らと酒を呑み、宿泊して、翌朝は温泉にでも浸かり旅館をゆっくり後にしたのだろう。
まさか朝酒を引っ掛けてはいまい。
帰宅途中、一時停止で捕まり、その時、酒気帯び運転が発覚した。
時間は午前11時。
これに対して県教育委員会の下した処分は、退職金なしの懲戒免職である。
捕まった事は仕方がないが、県教委が下した処分に対しては、さも有りなん、とは到底頷けるものでない。
処分を下したお偉い方々は、憐憫や惻隠の情、その欠片さえも持ち合わせていないのだろう。
女子児童の下腹部に手を差し込んだ小学校長の場合とは訳が違うのだ。
よくもまあ、こんな変態野郎が、長年教師としてのさばっていたものだと驚き呆れるが、人として模範となるべき人間に辱められた女子児童の、生涯消えることのない精神的苦痛を考えれば、この阿呆が犯した罪は一生贖えるものではない。
此奴の一物をちょん切ってもまだ足りぬ。
哀しいかな、これに類した教師は多い。
教師である前に人間として失格である。
話が脇道に逸れたが、飲酒運転による事故は後を立たず、当事者だけでなく他人の人命も奪うものであるから厳罰に処するのは当然である。
だが、この程度の酒気帯び運転は、人並みに酒を呑む者であれば誰にでも心当りがあることだ。
年末年始の忘年会、新年会の時期に、早朝、温泉場の出入口で警察による一斉取締りを実施したら、どれだけの人間が酒気帯びで捕まるか知れたものではない。
だからと言って正当化するつもりは毛頭ないが、今回の件は、これを教訓として各自が我が身の体調を把握しつつ、翌日にまで飲酒による影響が及ぶことがなきよう、全教師に注意を喚起することとして、精々、諭旨免職が妥当ではないか。
全くもって、この教師に代わり、県教委への不服申立て、処分取消の提訴を起こしたいくらいだ。
県によって処分内容は違い、兵庫県では、飲酒3時間後、オートバイを運転し捕まった高校教師が停職6ヶ月の処分となっている。
福島県教委は昨年10月、飲酒運転をした職員は原則懲戒免職と処分基準を改定し、この基準が初めて適用されたようだが、私には、この教師はその“見せしめ”のために処分されたとの思いが強い。
“見せしめ”によって、定年退職を目前にして、この教師の30年以上の教職人生は、儚く水疱に帰してしまったのだ。
ここまで厳罰に処するのであれば、この教師の上司である校長、処分基準を改定した県教委の面々(教育長)にも監督不行き届きとして処分が及ぶのが当然であろう。
自分たちは安全な枠の中に潜み、当事者だけを他人事のように処分する、こんな身勝手な教職者、教育関係者らの下で、生徒らは如何に思いやり溢れた人間に成長するものか。
彼岸の休日、墓参の帰りに、古希を迎えた尊敬する翁の家を訪ねた。
帰り際、翁は、確とした力強い口調で私に言った。
「人の痛みを、自分の痛みとして知る人間になれ。これだけ忘れずにいたら人生に間違いはない」
砂が水をすんなりと吸い込むように、実践してきた人間の言霊が、聞く者の胸底深くに沁み渡った。
教師、教育関係者らが本気で変わらなければ、教育は何も変わらない。
15.本
2007年3月17日「“樅の木は残った”、良かったよ。仙台藩の伊達騒動だね。良い本紹介してもらって、今度会ったらお礼を言おうと思ってた。読んでいくうちに、原田甲斐が俳優の加藤剛と重なって。船岡にも行ったけど本当に樅の木が残っているんだね。」
「え、もう読んだのが。ちょっと女には読みづらいと思ってたけど。すげぇな。喜んでもらえると勧めた方も嬉しいよ。この本が理解出来んだと、おめぇは見かけは女でも中身は男だよな。」
月一で行なわれる中学校の同級会での会話。同級会と言っても集まって精々5名程度。
他愛もないお喋りで過ごす気楽な呑み会だ。
「好きな作家は誰。」
「“氷点”の三浦綾子、“寺内貫太郎一家”の向田邦子かな。氷点はいいよ、今度読んでみっせ。」
「女流作家のものはあんまり読まねぇんだけど。勧めた本、早速読んでくれたから俺も読まねぇわけにはいかねぇよな。じゃあ読んでみっか。次の呑み会の時、感想言うよ。」
“樅の木は〜”は、反骨の作家、山本周五郎氏のものだ。
高校を卒業して、明確な目的もなく大学進学、中退、浪人、専門学校、中退と、東京での無為な、腐り切った生活に、山本氏の著作品は、自己嫌悪に固まった私の心に、小さいけれど明るい光を射し込んでくれた。
友人、知人との交わりを避け、孤に籠もり、自分との対話しかなかった生活の中でどれだけ支えられたか知れない。
人生の敗残者になったかのように、打ち萎れて会津に戻り、しばらくくすぶっていた殻を、数年掛かって、ようやく破り壊すことが出来た。
私に対して一度たりとも愚痴を零さなかった家族、そして、いつも身近に本があった。
同級生から細かな感想を述べられ、もう一度、記憶を辿ろうと 、これで三度目の“樅の木は〜”を読み始めた。
三浦綾子女史の“氷点”を近くの書店で探したが見つからず、図書館に足を運んでも書棚にはなかった。
他にも読みたい本があったのでネットで手配した。
届けられるまでに何か読んでおこうと再び図書館を訪れ、エッセーを含め三浦女史の本を三冊借りた。
借りたその日のうちに、エッセー一冊(「私にとって書くということ」)読み終えた。
“愛には愛の、あるべき姿が当然なければならないと思う。愛はもっときびしいもので、もっとすがすがしいもので、もっと正義を含んだものでなければならないように、私は思う。私たちは人を愛することによって、多くの人を悩ませ、悲しませてしまう場合がある。それは往々にして誤った愛し方をするからではないだろうか。”
“肉体の死は決して人生の最後ではない。死後には神の厳然たる審きがある。且つ永遠の希望がある。”
もう一人、好きな作家が増えそうである。
「え、もう読んだのが。ちょっと女には読みづらいと思ってたけど。すげぇな。喜んでもらえると勧めた方も嬉しいよ。この本が理解出来んだと、おめぇは見かけは女でも中身は男だよな。」
月一で行なわれる中学校の同級会での会話。同級会と言っても集まって精々5名程度。
他愛もないお喋りで過ごす気楽な呑み会だ。
「好きな作家は誰。」
「“氷点”の三浦綾子、“寺内貫太郎一家”の向田邦子かな。氷点はいいよ、今度読んでみっせ。」
「女流作家のものはあんまり読まねぇんだけど。勧めた本、早速読んでくれたから俺も読まねぇわけにはいかねぇよな。じゃあ読んでみっか。次の呑み会の時、感想言うよ。」
“樅の木は〜”は、反骨の作家、山本周五郎氏のものだ。
高校を卒業して、明確な目的もなく大学進学、中退、浪人、専門学校、中退と、東京での無為な、腐り切った生活に、山本氏の著作品は、自己嫌悪に固まった私の心に、小さいけれど明るい光を射し込んでくれた。
友人、知人との交わりを避け、孤に籠もり、自分との対話しかなかった生活の中でどれだけ支えられたか知れない。
人生の敗残者になったかのように、打ち萎れて会津に戻り、しばらくくすぶっていた殻を、数年掛かって、ようやく破り壊すことが出来た。
私に対して一度たりとも愚痴を零さなかった家族、そして、いつも身近に本があった。
同級生から細かな感想を述べられ、もう一度、記憶を辿ろうと 、これで三度目の“樅の木は〜”を読み始めた。
三浦綾子女史の“氷点”を近くの書店で探したが見つからず、図書館に足を運んでも書棚にはなかった。
他にも読みたい本があったのでネットで手配した。
届けられるまでに何か読んでおこうと再び図書館を訪れ、エッセーを含め三浦女史の本を三冊借りた。
借りたその日のうちに、エッセー一冊(「私にとって書くということ」)読み終えた。
“愛には愛の、あるべき姿が当然なければならないと思う。愛はもっときびしいもので、もっとすがすがしいもので、もっと正義を含んだものでなければならないように、私は思う。私たちは人を愛することによって、多くの人を悩ませ、悲しませてしまう場合がある。それは往々にして誤った愛し方をするからではないだろうか。”
“肉体の死は決して人生の最後ではない。死後には神の厳然たる審きがある。且つ永遠の希望がある。”
もう一人、好きな作家が増えそうである。